ハルせんせいの授業
空付 碧
せんせいに、会う
「せんせい、よろしくお願いします」
お母さんは、やってきたおじいちゃんに頭を下げた。私のおじいちゃんじゃない。「せんせい」って呼ばれる隣町のおじいさんだ。
「僕は吉田ハルと言います。お名前は?」
おじいさんが言う。私の周りに、自分のことを「僕」と言う人はいなかったから、若いふりをしているのかなと思った。
「私は、ミズキです」
「そうか、何歳になる?」
せんせいは、机の上のお茶を少し飲んだ。
「9さいです。ハルさんは、何歳ですか?」
わざと失礼だと思うことをしてみる。年配の「せんせい」と言われている人を苗字でもなく下の名前で呼んで、歳を聞いた。
ちょっと試して見た。
「72になるよ。足すと9だね」
おじいさんは怒りもせず、にっこりという。
「ミズキ」
後で怒られるのを分かりつつ、お母さんにとぼけて見せる。
おじいさんは、私に興味を持っていない反応をした。9という数字を見せたけれど、これは私じゃなくてお母さんへの披露だ。少し悔しい。
「ミズキさんに教えるのは数学だね」
「算数です」
「そうか、小学校は算数か」
おじいさんは笑っていた。
けれど、面白くなさそうだった。私もこの人に教えてもらって、偉い学校へ行くことに面白さを感じていなかった。
「木曜日の夕方、2時間おじゃまします」
「よろしくお願いします」
木曜日はゴミの日だ。ゴミの日に、おじいさんに会う。少しだけ、面白いと思った。
「ハルさん、これからよろしくお願いします」
頭を下げる。
「どうぞ、よろしく」
怒りもせずに、おじいさんは言った。
先生が帰ったあと、お母さんはすごく怒っていた。
「なんであんな失礼なことしたの!?」
「私をえらい高校まで引っ張る先生でしょ?先は長いんだから、ちゃんと仲良くなりたかったの」
「嘘ばっかり」
「来週から頑張るもん」
リビングの絨毯に寝そべる。
これはギャベという敷物で、遊牧民が手編みしたものだ。ここに辿り着くまでに、たくさんの人と羊が関わって来ている。
「お母さん、イランにいきたーい」
「何言ってるの」
面白くない。算数よりずっと、面白くない。
初めての授業の日、玄関で先生を待ちながら、お母さんは悩んでいた。
「ミズキの部屋、汚いでしょう?リビングでお勉強してもらうのはどうかしら」
「洗い物がうるさいよ」
汚いっていうのは本当だけれど、多分先生と私を2人にしたくないんだ。私も本当は嫌だけど、どうしてもお母さんは邪魔だった。
初めての授業なのだ。ちゃんと邪魔されずに、受けたい。
「今日だけ!まずは今日は、せんせいとふたりで!」
「……そう?」
「様子見に来ていいから!」
「……そう。まぁ、先生だし、そうね」
そうやって自分に言い聞かすんだ。納得したつもりでいるんだ。ちゃんと反論したらいいのに。
「ごめんください」
「いらっしゃいませ」
ノックの後に、おじいさんが入ってくる。帽子をかぶって、少し背の曲がった72歳の吉田ハルさん。手すりに掴まって靴を脱ぐと、綺麗に揃えた。
「先生、お気になさらず」
「いやいや、これは、ね」
ね、とおじいさんは言って、私を見る。
「調子はどうだい?」
「……わかんない」
びっくりして、しらけて、声が出た。おじいさんは、「そうかい」と言った。
「どこで始めましょうか」
「私の部屋!」
急いで、階段に駆け寄る。
「せんせい、こっち!」
「ミズキ!!」
「わかった、いいよ」
わざとはしゃいで見せると、おじいさんは笑いながら着いてくる。
これが、私のせんせいか。ゆっくり階段を上る、年老いた人がせんせいか。もっと若くてかっこいい人が良かった。
「こっちです!」
「はい」
おじいさんが、私の部屋の入った。
続けてお母さんが入る。何か言っているけれど、私は自分の楽しみでいっぱいだった。びっくりするだろうか。お母さんが出ていくまで、大人しく、ソワソワと、様子を見ている。
「では、よろしくお願いします。ミズキ、ちゃんとしてね」
「はーい」
戸が閉まって、先生がメガネと鉛筆とノートを取り出す。
「せんせい」
最初の質問だ。
「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」
おじいさんは、少し私の顔を見て、微笑んだ。
「どうして聞きたいのかな」
「せんせいは、どう思ってるのかなって。先生、あ、学校の先生が授業で、みんなが可哀想だから、って言ったんです」
「なんの授業?」
「算数です」
少し間があって、おじいさんは、鋭い目をした後にうなづいて微笑んだ。
「じゃあ、この2時間は、人を殺すことについて話そうか」
私と、ハルせんせいの、授業が始まる。
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