2 シンプルに考える

 温井の注文を耳にした根岸は、まだスパイスカレーを食べたことがないことを思い出す。どんな味なのか気になって、自分もそれを注文した。

「俺もスパイスカレー、飲み物はアールグレイのホットでお願いします」

「かしこまりました」

 美藤が調理へ取りかかるのを見て、根岸は温井へたずねた。

「温井さん、そんなに通ってるんですか?」

「ああ、家からは電車で一本だからな。今日で六回目だよ」

 頭の中で軽く計算してみると、週に数回は訪れていることになる。それなら顔を覚えられるに留まらず、注文まで覚えられてしまうのは当然だった。

 温井は穏やかな微笑みを浮かべて、美藤の動きを目で追っている。彼が彼女に恋心を抱いているのは知っているが、ずいぶんとアピールが強いものだ。

 根岸が内心で呆れた気持ちになっていると、女性客の一人が唐突に声を上げた。

「分かった!」

 根岸は自然とそちらへ視線を向けた。まだ大学生くらいだろうか、さっぱりとしたショートヘアに、カジュアルな格好をした彼女が言う。

「その男の子は便器の中にワニが住んでると思ってたから、怖くて急いで出てきてたんだ」

 パチパチとひかえめな拍手を送ったのは連れの女性だった。こちらは清楚な美人で、にこりと笑った顔は人形のように綺麗だった。

「よく分かったわね、万桜まおちゃん」

「ちょっと、バカにしないでよ」

 美藤はダージリンのグラスを温井へ出した後、むすっとしている彼女の前へ移動した。

「お見事です、万桜さん。でも、今回も千雨ちさめさんの勝ちでしたね」

「もう、美藤さんまでそんなこと言って!」

 怒って見せながらも、どこか楽しげである。この店の売りであるウミガメのスープは、今夜も客を喜ばせているようだ。

 美藤も楽しそうに厨房へ戻り、スープカレーの皿を二つ運んできた。温井と根岸の前に置いたところで、先ほどの美人な方の客が言う。

「それじゃあ、そろそろ帰りましょうか」

「うん、そうだね。お会計、お願いします」

「はい」

 美藤はすぐにキャッシュレジスターの前へ移動し、てきぱきと会計を行う。

 その間、根岸と温井は特に会話もなく、黙々とスパイスカレーを食べていた。辛さはひかえめながら、スパイスの香りが食欲をそそる。さらに紅茶の茶葉が独特の風味を足していて、何とも絶妙な味わいだった。

「ごちそうさまでした」

 女性たちが笑顔で帰っていくのを「またのご来店をお待ちしています」と、美藤は見送ってから足早に厨房へ戻る。それほど繁盛している店とも思われないが、一人で店を切り盛りするのは大変そうだ。

「お待たせしました」

 少し遅れてアールグレイの入ったティーカップが運ばれてきて、根岸は返す。

「先ほどのお客さんたちには、どういった問題を出したんですか?」

 美藤はすぐに教えてくれた。

「男の子は個室のトイレで用を足すと、いつも急いで出てきます。何故でしょうか?」

「なるほど」

 それでああした答えになるのか。それにしても、便器の中にワニがいると思い込むなんて、いったいどういう事情があったのだろうか。幼い頃にはわけの分からない勘違いをしやすいものではあるが、そうした類のものだろうか。

 根岸がそんなことに気を取られていると、美藤がカウンターの内部を軽く片付けながら問う。

「ところで、今日は他の方は来られないんですか?」

「ああ、菱田も誘ったんだけど断られちゃったんです。葉沢は独身寮なんで、あんまり帰りが遅くなったら嫌だからって言われて」

「そうでしたか。魔法捜査一課のお話、聞かせていただきたいなって思ってるんですけど」

 美藤がうかがうように小さく首をかしげ、温井は少年のように顔を輝かせる。

「ええ、何でも聞いてください」

「いいんですか? 嬉しい」

 両手を合わせて喜ぶ美藤だが、根岸は冷静に温井へ耳打ちする。

「うっかり口をすべらせないでくださいよ」

 温井はすっかり忘れていたようで、はっとしてから笑った。

「といっても、そんなに話せることはなかったです。すみません」

「あら、そうですか。じゃあ、今はどういうことをしているのかだけでも」

 美藤に興味を示され、温井は答えずにはいられなかったようだ。具体的なことはぼかして、自分たちの現状を伝えた。

「えーと、今はある事件を捜査してます。でも、ここ最近は行き詰まっていて、ちっとも手がかりがない状態です」

 根岸は黙ってティーカップへ口をつけた。やはりこの店のアールグレイは香りがよく、上品で美味しい。

「それは大変そうですね。捜査が進まなかったら、どうなっちゃうんですか?」

「うーん……一応、容疑者は逮捕できてるんですよ。問題はその背後に、とある組織があるはずってことなんですが、その実態がつかめなくて」

「怪しい組織ですか?」

「はっきり言ってしまえばそうです。でも、容疑者は組織との関連を認めず、自分一人でやったことだって言い張っているんですよ」

「なるほど」

 美藤は視線をななめ上へ向けて、考える様子を見せた。

「逮捕された容疑者、背後にある組織……犯人が隠したいのは組織そのものでしょうか? それとも、組織との関連でしょうか?」

 根岸は思わず温井と目を見合わせた。彼女の言葉はシンプルに事実をとらえようとするものだった。

「いえ、自分一人でやったと言ってるんですから、やっぱり組織との関連でしょうね」

 なおもぶつぶつとつぶやくように言葉を続け、美藤は一つの結論へ達した。

「となると、隠す理由があるってことですよね。つまり、組織に命令されてやった、というのが真実なのかも」

 根岸はこれまで難しく考えすぎていたことに気がついた。事実だけを並べて、美藤のように簡潔かんけつに考えるべきだったのだ。

「そうか、やっぱり組織の指示だったわけか……」

 温井が顎に手を当ててつぶやき、根岸は素直に感謝を述べた。

「素晴らしい推理ですね。すっかり目が覚めました、ありがとうございます」

「お役に立てましたか?」

「ええ、考え直すいいきっかけをいただきました」

 彼女は嬉しそうに笑ってからたずねた。

「それじゃあ、答えが分かったらウミガメのスープにしてもいいですか?」

 にこりと彼女が微笑し、根岸は苦笑する。

「いえ、それは……野上さんの許可が出たらでお願いします」

「分かりました」

 特にがっかりもせず笑顔で返事をする彼女を見て、もしかしたら野上もこんな風に、美藤に救われた経験があるのではないかと思った。

 ウミガメのスープという、シンプルな文章問題を作成して客に出題している彼女は、自然とそのテンプレートに沿って考える癖ができている。それこそ、捜査において忘れてはならない考え方なのではないか。

 すると野上が彼女との付き合いを続け、店に通っていることにもうなずける。

 美藤は少々変わった女性だが、こちらが得るものは大きそうだ。彼女の淹れる紅茶を目当てにしつつ、これからもこの店に足を運ぶことになるのだろうと思わずにはいられなかった。

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