夏になれば思い出す Part2 私が私になった日 V.4.1
@MasatoHiraguri
第1話 私の「コギト・エルゴ・スム」真の自分になった時
毎年思い出すのではなく、今年の夏「あれがオレがオレになった時か」と、50年前の思い出の真価に気づいたのは、やはり年貢の納め時、そろそろお迎えが近づいてきたのかもしれません。
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私が大学に入学した1976年(昭和51年)の夏、7月21日から8月20日まで、当時コーチをされていた先輩の(親御さんが経営する)工場で働かせていただきました。この1ヶ月間というか「初日」に、私の人生は決まったようなものです。
どういうことかといえば、あまりにも過酷な環境で肉体がボロボロになり、魂だけでも分離しなければやっていけない状況下、肉体と魂が完全に分離したかのようになったのです。
通常は箸とお椀で飯を食うように、無意識に心と身体が連携しているものですが、この時は、いちいち心(魂)が身体の各部位に命令して(動かして)いる、のがわかる。まるで、肉体的にダウンした死体が、操り人形のようにして「動かされている」ようなのです。7月21日からの真夏日約2週間(月曜から土曜、朝8時半から夜9時半)とは、休日の日曜日をはさんでずっとこの状態でした。おそらく今度、本当に肉体が滅んだ時、私の魂は同じようにして分離することでしょう。
これが私の「コギト・エルゴ・スム」。自分というものを、頭や身体ではなく魂のレベルで実感できた、ということなのです。
一般に韓国脳人間とは、一つのコンピューターにOSがいくつもあるのと同じで、いつも心と身体がバラバラで不安定な状態(精神分裂病)なのですが、私の「分離」とは、2つが完全に独立した存在でありながら、きっちりつながっている。「全体は部分の総和に勝る」という意味での、独立と連携なのです。
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