プロローグ


 がらがらがら……

 手を伸ばせば、飲み込まれる黒の中。聞こえる音は、車輪の掠れる音。

 回しても、回しても、先の景色は変わらない。

 がさり。

「っ!ひっ……!」

 ふと、草の擦れる音が私の張り裂けそうな胸に触れた。

 車輪を止め、馬車を止め、おりる。

 今にも逃げ出したくなるような足を、止め、呼吸を、細かく震える、息を、止め。

 見る。草むらの中は──

 ……なにもいない。


 また、音が鳴った。溜まったものを、力なく吐き出すような、咳。

 今度は、馬車からだ。

 

 ……時間がない。


「……急がないと……おねがい……死なないで……っ!」

 地面を蹴り、もはや慣れてしまった手綱を握って、合図を送る。


 がらがらがらがら……


 ……瞼が重い。最後に寝たのは、いつだっただろうか。

 このまま、永遠に道を進み続けるのだろうか。もしかしたら、これは、夢で、目が覚めたらいつもみたいにベッドで……


 こほ……


 後ろで鳴った吐息が、私の眼を覚醒させた。

 振り向いてみるが、姿が見えない。

 暗闇に溶け込んだ彼は、私に反応することなく、ただそこに居続けていた。

「だめ、だめだめだめ!これは、夢じゃない……」

 もう、心の声じゃ届かない。私自身の声を振り絞って、自分の耳に訊かせ、身体を起き上がらせる。

 

 がらがらがら……

 耳にこびりつくような音が、鳴り続けた後、声が聞こえた。

「ごめんなさい……私のせいで……」

 これで、三十回目だ。

 うわごとのように、無意識で呟いた私の声は、過ぎ去った失敗を否が応でも思い出させる。

 思えば、お姉様と『喧嘩』をする前もそうだった。

 私はいつも誰かに助けられてばかりで、今回の事態も私の油断が引き起こした惨事のうちのひとつに過ぎない。

 

 ──だからこそ、私が折れる訳にはいかない。

 迷惑をかけてばっかりで、我儘をなんでも叶えてくれる彼に、まだ私は何も返せていないのに、『夢だったら』なんて事は言ってられない。

「だから……死なないで……お兄様……」

 俯いた私の視線を戻し、空を見上げる。


 夜は、まだ明けない。

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