第8話


 あと数メートルでアパートに着くというところで、足が止まった。曲がり角の向こうに人が立っているのが見えたからだ。あちらもこちらに気付いて顔を上げる。

 すらっとした長身。絹のような黒髪がさらりと落ち、その隙間から切れ長の瞳がのぞく。男性にしては細く長く、白く、美しい指先が咥え煙草を薄い唇から離した。

 たったそれだけの動作だというのに絵になる。

 相変わらずビジュアルだけで人をぶん殴れそうな奴だな……じゃなくて。


「遅かったな、橘」


 遅かったな橘、でもねぇ。

 白昼夢のような光景に唖然としたのは一瞬で、しれっとした表情に一気に腹立たしさがこみあげてくる。


「お……まえな、来るなら来るって言えよ、姫宮!」


 午前中、群がる学生たちにバカみたいに笑顔を振りまいていた美青年──俺の唯一にして最大の悩み事、姫宮樹李が、アパートのブロック塀に凭れ掛かっていた。


「伝えようとしたら逃げたのは君だろ」

「逃げてねぇし」

「へえ、大学では目も合わせてくれないくせに?」

「それはちゃんと話し合って決めたことだろ、他人のフリするって。それなのに今朝のあれ、どーゆーつもりだよ。おまえあのペンわざと落としたろ」

「だったら? 他人のフリは了承しているが、話しかけないとは言っていない」


 慣れた手つきで消された煙草の煙が、広い空へと昇っていく。


「……おまえのせいで、取り巻き共に言いたい放題言われたんだけど?」

「僕が相手じゃなくても、人にあんな態度を取ったら顰蹙を買うと思うけど?」


 長い足を組みなおしつつの、冷ややかな視線。

 無視したこと相当根に持ってんな、こいつ。

 緊急時以外では連絡は取らない、それが互いの暗黙のルールだった。姫宮とのやり取りは、基本的に兄経由だ。それが難しければ、実家の固定電話という令和の時代にしては古風なやり方だった。

 けれども仕方がない。

 必ず親を通すこと。それが姫宮と顔を合わせるための条件だった。

 それが破られたのは今年の4月、姫宮が俺と同じ大学に入ってからだ。

 それまでは、数か月に一度の数日間しかまともに顔を合わせなかった。


「──で、なに。つまんねえ用だったら蹴っ飛ばすかんな」

「お好きにどうぞ、と言いたいところだけど、往来の場では話し辛い。中に入れてくれないか……今、透貴さんはいないんだろう?」


 姫宮の言う通り、アパートの駐車スペースに兄の車はない。今日は仕事が早く終わるらしいので、大方買い物にでも行っているのだろう。俺だって、予定していたより2時間以上早く帰ってきてしまったから。

 透貴は、姫宮が大嫌いだ。俺がいなければアパートの敷居だって跨がせないに違いない。そんな兄がいればきっと一触即発状態になっていただろう。

 どうしたものかと押し黙っていると、姫宮が壁から背を離した。びくりと、反射的に後退る。姫宮は無理に距離を詰めようとはせず、ただじっと俺を見つめてくるだけだ。

 こうなった姫宮は梃でも動かない。

 たとえ凍えるような寒空の下でも、何時間だってここに突っ立っているに違いない。意外と、そういうところがあるのだ。

 はあ、とため息が漏れた。

 閑静な集合住宅だとは言え、誰に見られるかもわからない。


「……しょーがねえな」


 結局、根負けしたのは俺の方。


「煙草ポイ捨てすんなよ……ったく、未成年のくせに」

「しないよ、君じゃあるまいし」

「俺は吸わねーよ!」


 吐き捨てざま、早歩きで姫宮の前を通り過ぎた瞬間、ぞわぞわと鳥肌が立ったのには気付かないふりをする。姫宮を置いて、2階へと一気に駆け上った。ちなみにここにエレベーターはない。

 それぐらいの安いアパートだ。


「ほら、さっさと入れよ」


 狭い玄関でぽんぽん靴を放り投げる俺と違って、姫宮はきっちりと揃える。「お邪魔します」という律儀な挨拶も欠かさない。こういうところに育ちの良さが滲み出ている。

 初めはこの古びた集合住宅の一室に、「ここはリビング? ダイニングは隣?」なんてド失礼かましてきたくせに、今や慣れたものだ。

 方や社長令息、方や貧困家庭の大学生。

 何もかもが違う俺たちが定期的に会うようになって、もう7年経つ。

 それなのに、俺たちの関係は何も変わっていない。



 変わらない。


 

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