あのとき守れなかった約束を、もう一度。

四十九院紙縞

あのとき守れなかった約束を、もう一度。


 身支度を整え、あいつのお気に入りの花である水仙スイセンと、一番好きなお菓子だっただろうチョコチップクッキーの袋を持つ。

 雨天決行。

 傘立てから傘を一本抜き取り、私は家を出た。

 傘には、ばつばつと勢いよく雨が当たる。ビニール傘は一瞬にして濡れ、そこに数多の水滴をくっつけていた。

 春を待つ季節の雨は、しっとりと足元を冷やす。しかし、それは私が外出をやめる理由にはならない。

 今日の私には、約束があるのだ。

 だから私は、春の嵐にも負けず、目的地へと歩を進めるのだ。



 あいつとの出会いは、高校の入学式だった。

 下ろしたての制服に糸くずがついていたのを見つけて、私がそれを取ってあげたのをきっかけに、なにかにつけ話す仲になった。

 たとえば、勉強の話。

 たとえば、部活の話。

 たとえば、家族の話。

 当時の私の家は相当な不和を抱え込んでいた。いや、そうは言っても、言葉にしてしまえば「両親が離婚協定の最中」でしかないのだけれど。今でこそ俯瞰して思い返すことができるが、当時の私にとってそれはかなり衝撃的なことだったし、相応にダメージを喰らっていた。

 あいつになら話しても良いと思ったのは、何故だっただろうか。

 なにごとも否定から入らず話を聞いてくれたから?

 いつも穏やかな表情を浮かべて話を聞いてくれたから?

 それももちろんあるのだけれど、本質は違ったのだと、今ならわかる。

 私はただ、話を聞いてほしかっただけなのだ。

 具体的な助言も、激励も、なにも要らなかった。ただ、頭の中で渦巻いているものを言語化して、吐き出したかった。それだけ。

 あいつはそれをわかった上で私の話を聞いていたのだろうか。いや、あいつの場合、それは本能的だったりするんだろうな。私はあいつのことを思い出して、そう考え直す。



 青春時代を思い出しながら歩いていくと、雨脚が強まっていった。

 まるで、あいつがこっちへ来るなと言っているような気分になる。

 それは拒絶ではなく、なんとなく恥ずかしいから、といった程度のものだろうけれど。

 それでこの豪雨は、ちょいとやり過ぎな感じもする。

 だがこの程度で、足を止めるわけがなかった。

 私は水仙とお菓子を握り締め、黙々と、淡々と、歩き続ける。



 あいつとの付き合いは、それから十数年に及んだ。

 高校を卒業し、大学が別々になっても連絡を取り合い。

 社会人になっても、時折会って話す機会を設けていた。

 それはあいつにいろんな話を聞いてもらいたかったというのもあるけれど。

 私も、あいつの話を聞きたいと思ったからだった。

 どうにもあいつは、言葉を呑み込む癖がある。

 高校の頃は違和感程度だったけれど、社会人になって、それは悪化の一途を辿っていた。

 会う度に悪くなる顔色。

 会う度に細くなる身体。

 あまりに痛々しくて、私は積極的にあいつを飲みに誘い、愚痴を吐かせようとしたものだ。だって私は、そうしたら楽になることを、あいつに教えてもらったから。

 しかしあいつはといえば、

「みんなと似たり寄ったりな状況だから。別に、自分だけが苦しいわけじゃないんだし」

 と一点張りだった。

 恐らく、勤め先でいろいろとあったのだろう。

 そのいろいろというのが、あいつが言うところの「似たり寄ったり」なのだろうけれど。

 苦しい状況なんて、千差万別、十人十色だ。誰かにとっての苦痛は、誰かにとっては無傷。その逆も然り。そんなものでこの世の中は満たされている。

 しかし、あいつが心情をほとんど吐露してくれないからといって、私があいつを嫌いになることはなかった。だって、友達なら話したいことを話すべきだ。

 私が延々家族の愚痴を言葉にして吐き出したかったのと同じように。

 あいつは自身を取り巻く環境への感情を、己が内に留めておくことを選んだだけなのだから。

 要は、私とあいつは正反対だったというわけだ。

 それなのに、この友情は十数年続いたというのだから、人生、一体なにが起こるかわかったものじゃない。



 あいつの好きなものを聞けたのは、ほとんど偶然だったのかもしれない。

 あれは、社会人になって何年目のときだっただろうか。

 その日は宅飲みをしようということになって、私が一人暮らしをしているマンションにあいつを招いたのだ。テーブルの上には酒のほかに、各種おつまみと、それぞれお気に入りのお菓子である、チョコシューとチョコチップクッキーが広げられていた。

「これ、好きだな」

 ふと、そう言ってあいつが指差したのは、壁に飾られた水仙の絵だった。

 それはたまたま店先で見つけて綺麗だと思い買ったもので、水仙自体に思い入れがあったわけではない。正直なところ、私は花の種類には疎かった。

「ウチの近所に小川があるんだけどさ。春になると、その川べりにたくさん咲くんだ。かわいい花だよね」

 そう話すあいつの表情はとても穏やかだったのを、今でも強烈なまでに覚えている。普段から温厚な人間が見せる、ある種の隙のようなものだったからだろうか。

 そしてこのとき、あいつはささやかな夢も語っていた。

「いつか一人暮らしをして、その家の花壇に水仙を植えるんだ。そうすると、春が来たなって感じがして、心がぽかぽかしてくるでしょ」

 どうしてそれを、私に話してくれたのだろう。

 今となっては、もうわからない。

「ねえ、ひとつ約束してくれる?」

 ほろ酔い気味のあいつは、ふわふわと、しかしまっすぐに私を見据えて言う。

「家に植えた水仙が咲いたらさ、見に来てよ」

 私はそれに、もちろん、と答えた。



 あの約束を果たすことは、できなかった。

 あいつは働きながら貯金をし、念願の一人暮らしを始めた数ヶ月後。

 交通事故に遭って、死んでしまった。



 今、私が手に抱えている水仙は、私の家で育てたものである。

 あいつが墓から動けないのだから、私がこうして持っていくしかない。

 ガーデニングなんて初めてだったけれど、綺麗に咲いたほうではないだろうか。そんな自信と共に、私はあいつの眠る墓地へと到着した。

 あのとき守れなかった約束を、もう一度。

 今一度。

 今度こそ。

 立場は逆になってしまったが、それは私たちにとっては些末な問題でしかないだろう。

 あいつはこの水仙を見て、どんな反応をしてくれるだろうか。

 綺麗だね、なんて言って微笑むだろうか。

 すごいね、なんて言って感激してくれるだろうか。

 それとも、私がガーデニングをしたこと自体に驚くだろうか。

 様々に思い浮かぶあいつの反応を反芻しながら、私は墓前に手を合わせた。




 終

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