第42話 夢色のウェルム
流動体のような影がオルテンシアの傍に寄り、犬の形を作る……アミティエだ。
「アミーが探してくれたから。通してもらっても良いかしら」
老婦人はほんの一瞬表情を崩したが、すぐ笑みに戻した。
「えぇ。構いませんよ。あぁそうだ。首相からお話があると思いますが……」
釘を刺すようにして告げる。
「救世主の手網をきちんと握っておくように、とのお達しです」
少女は立ち上がって怒りを表さず口を開いた。貼り付けた笑みは変わらずだ。
「……そう言えば、機械人形暴走事件はどうなったのかしら」
「無事解決しましたよ。プログラムのバグだったようで」
「確か……機械人形の脳みそ……ブラックボックスがあったよねぇ」
オルテンシアはすっとぼけたように首を傾げて、じっとりとした視線をアナに向ける。
「事件が解決したのでこちらで処分致しました。企業秘密が漏れては困りますのでね」
「イーリス教と関わっていると聞いたのだけれど」
「……救世主様のお陰で無事、イーリス教も無くなりました」
アナの何の感情も入っていない返答を聞いて、今度こそ少女は心の底から笑った。
「そう。それは良かったね。ね、あたしイーリスの依代に会いたいなぁ。知らない?」
「彼女は被害者です。幾ら世を治める『ラプラスの魔物』とあっても、彼女に辛い記憶を思い出させる権利はない」
アナは語気を荒くした。感情を宥めて、事件の裏側を伝える。
「それに……噂ですが、ミカエルは逃げたとか。アリスが魔法使いでない一般人に負けて保護されたことは私が承知していますから、事実の可能性が高そうですが……」
「……そ。詳しいお話、ありがとう。あたしもう行くわ」
オルテンシアは少し視線をずらして思案したあと、笑顔で部屋の出口まで歩みを進めた。
「ごゆっくりどうぞ」
扉を開けると、アリスの部屋だった。転移魔法で部屋同士を繋いでいるのだ。ベッドの上で座り込んでいたアリスは、オルテンシアの姿を見て足元に跪いた。
「オルテンシア様!」
「アリスお姉ちゃん。御機嫌よう」
「ご機嫌麗しゅう御座います、オルテンシア様……その……あの……」
「今回のはちょっと良くなかったかもね」
アリスが言葉を紡ぐ前に、オルテンシアは静かに告げた。
「アリスお姉ちゃんは頑張ったと思うけど、一般人に負けたんだもん。魔女として、ねぇ?どうなのかなぁって」
アリスが息を呑んだ。それでも涙、悔しさ一つ上げず、身体も震えない。大したものだ。
「あ、全然責めてる訳じゃないよ?アリスお姉ちゃんはさ、休学して来てくれてる訳じゃん」
オルテンシアは手遊びをしながら何となしに言う。
「だからさ、一回おうち帰ったら?お父様も心配してたよ?」
「い、いいえ……!やります!まだやれます!やらせて下さい!」
少女の許可無しにアリスは顔を上げた。彼女にとって、侮辱を言われるよりも王都に帰れと言われる方がずっと辛かった。お前の席はもうないと言われているようなものだったから。
「んー……あんまり無茶させたくないんだけどなぁ。レヴィ家はほら、我が朧月夜家にとってすごく大事な存在だし」
「……わ、わたしが……何とかします……」
カーペットにくい込んだ膝が痛む。思いもつかない言葉が、口から零れ落ちた。
「え?何とかって?何するの?」
「あ、アイツらは皆……『最果鉄道』に乗りました……間違いありません……ぺスカから遠く、この国から離れるにはあの鉄道しかありませんから……」
推測だが、ほぼ確実に近い事実である。それにノルテの関所に家の権限で調べれば分かる事だ。
「先回りして、仕留めます。何としてでも。」
「……そっか。それがアリスお姉ちゃんの『決めたこと』なんだね?」
不気味なくらい無邪気な笑顔で笑われて、アリスは固まってしまった。確かにこれは『決めたこと』だ。だけど本当にしたかったことなのか……。
「え……は、はい!もちろんで御座います!大帝女様!」
「そっか。お姉ちゃんのお父様には心配しないでって伝えとく。最近国政を任せててさ。忙しそうなんだ」
大帝女とかいう最高位の尊敬語で崇めるくらい、アリスは切羽詰まっているらしい。鼻で笑いそうになるのを誤魔化す。
「凄く働いてくれてるからこれが終わっても任せるつもり。アリスお姉ちゃんの状態にもよるけど、お姉ちゃんにも政治のこと、頑張って欲しいんだぁ」
「謹んで!謹んで承ります!」
「……ん。そっか、良かったぁ」
アリスは家の名に固執している。ヨハンがどう言ったところで揺らぐことは無い。それに彼女は以前、オルテンシアに疑義を持ってしまった。
言うなれば弱みだ。絶対的である創造神に疑いを持つなど許されない。弱みがある限り、アリスはオルテンシアの手中にある。
「それじゃ、あたしは行くね。直ぐにミカエルと会えることでしょう」
少女はまた扉に転移魔法をかけると、扉を開けた。今度は窓が一つついた薄暗い部屋だ。石壁がむき出しになっていて、粗末なベッドの上にはミカエルが寝ており、冷たい隙間風の通る木の床にはアウロラが転がされている。
「ミカエル。起きなさい」
「ん……んぅ……」
オルテンシアの言葉を聞いて眉をぴくぴく動かすくらいで、起きる気配が一切ない。テュリーに命じた。
「テュリー。起こして」
「畏まりました。こちらはどう致しましょう」
従者の視線は冷たい床に転がる修道女へ移った。目には包帯が巻かれていて、薄らと血が滲んでいる。
「何をしても目覚めないと思うよ、たぶん……」
少女はコツンとアウロラの頭を蹴って、
「ね、アウロラ」
問いかけに答えはなかった。どろりとした液体になって、どこへともなく消えていく。逃げたらしい。
「さ、分かったならソイツをさっさと起こしてちょうだい」
テュリーはミカエルの腕を取ってベッドの下に落とした。慌ててミカエルは周囲を見回して、オルテンシアを視界に捉える。
「オルテン、シア……」
「誰があたしを見ていいと言ったの」
「はえ……?」
「ミカエル様。跪いて下さい。お嬢様の御前ですよ」
己の傍に立つ従者の言葉にミカエルは不服ながらも跪いた。恭しく頭を下げるアリスとはまた違った、平民の座り方だった。
「お前、とんでもない事をしてくれたわね」
「お前がやれって!」
許可も無く頭をあげようとするミカエルをテュリーは片手で制した。声をあげようとするも、目の前の神の雰囲気が冷たくなる。
「私に対してその態度……到底許されるものでは無いぞ」
今度は自分の意思で頭を下げる。上げれば首が飛びそうな気配だ。
「救世主としての称号を取り上げ、流民に戻してやってもいい。どうする」
「もど、りません……それ、だけは……」
砂を食べ、ぼろを着た流民の日々。石を投げられる為に生き、食う為に死んだ仲間達。不当に扱う民に対抗しても、言われのない侮蔑で石の上に寝る日々。この権威を絶対に手放しくたくない。
「……やれやれ。教会を荒らして、近隣住民に不安を与えるなんて……どうしてこんなことをするの?」
「イーリス教は……壊滅、出来ました」
喉から言葉を絞り出しても、目の前の少女はあっさりと突き放した。
「でも無関係な人を巻き込んだよね。それにロジェお姉ちゃんを逃した」
「あ、あれは違うくて……!」
今度はテュリーの制止もなく勢いよく表を上げることが出来た。しかし目の前には冷たい双眸を浮かべるオルテンシアがいる。
「もういいよ。何を聞いても失望するだけだし。あたし帰るね」
ミカエルが何とか動きを止める前に、さっさと少女は転移魔法でどこかへ消えてしまった。薄汚い部屋にはミカエルとテュリーだけが残される。
終わった。権力は薄れつつあるし、オルテンシアに嫌われた。これからどうすれば良いんだろう。膝をついて震えている少年に、テュリーが傍にしゃがんだ。
「ミカエル様なら、きっとお分かりだと思うのですが……」
ふ、と軽くテュリーは笑う。
「シアお嬢様は心配しておいでなのです」
「心配?」
「えぇ。シア様はその身分が故、本当の事をお伝えすることは出来ません」
普段は一切感情が動かないテュリーが、わざとらしく仕方なさそうに口角を動かす。
「ですが……ずっとミカエル様を見て仰っていました。貴方のことが心配で堪らない、手助けもして良いか、と。」
悲痛なお声を聞いて静止するあの苦しみと言ったら、テュリーはミカエルに手を貸し立ち上がらせながらそう言った。
「私は従者の身ですから、貴方様のことが羨ましい限りです。」
テュリーの言葉を聞いてミカエルは明るく顔を上げる。
「……だ、だよね……そうだと思ってた……はは……!」
そこには怒りで震えていたミカエルはいない。明るく邪悪で自己中心的な『救世主』がいた。
「そうだ。アリスは?」
「『最果鉄道』のその先に向かうとの事です。西の城門で会えるかと」
「おっけ!すぐ行く!」
ミカエルは服を適当に着て剣を持つと、勢いよくドアノブを掴んだ。思い出したようにテュリーに振り返った。
「そうだ!オルテンシアにアウロラの治療よろしくーって言っといて!」
「もちろん。お伝えしておきます」
じゃ!と元気な声が残されると、部屋は沈黙に覆われた。軋む音の上に革靴の音。テュリーもドアノブを握って中に入ると、薄汚い部屋ではなく朧月夜邸に繋がった。
先は城下町を見下ろせる無駄にだだっ広い部屋だ。静かにカウチに座るオルテンシアへと報告をした。
「これで宜しかったのですか?」
「じゅーぶんだよ。単純なヤツで良かったぁ。他人のこと何にも考えれないヤツって楽だわー」
ぽん、とマカロンを口に運ぶ。
「あーあ。もうあんなヤツと会うことは無いと思ってたんだけどなぁ」
『最果鉄道』では泳がせてやろう。次の……あれは国と言えるのだろうか。あの場所で、全てを終わらせる。
「……お昼寝する」
ふわ、と少女は大きく口を開けた。背後から従者の注意が飛んで来る。
「お嬢様!」
「良いじゃん。なんかあったら『コード』弄るしさぁ」
「今月の編纂数は制限を上回っています。ですから……」
「編纂数、ねぇ」
オルテンシアの瞼はとろとろだ。溶けた声音で呟く。
「それ程『ヴァンクール』に固執されるのでしたら、あの時奪っていれば宜しかったのに」
「……編纂数も『ヴァンクール』も、クソ喰らえだわ」
『ヴァンクール』があの時奪うことが出来たのなら、そうした。なのにあたしがそうしなかったのは……
「……何か?」
「ううん。もう今日はいいよ。下がって」
不本意ながらもテュリーは下がる。カウチで横になれば、アミティエが器用に布団をかぶせた。
「あたしには……眠りが必要なの……夢のチカラがね……」
オルテンシアは手を伸ばした。桃色のベールのような結界に触れると、ぐにゃりとそこが歪んだ。……足りない。
「ペスカは、この世界は夢の国なの。それは絶対変わってはいけない。あたしの、たった一つの……」
歪みは徐々に元に戻った。少女の目には国の上にベールがかかっているように映っている。
「……守れるもの、なのよ」
瞼を閉じた。
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