第27話 夜のペクニージ
掴んでいた手はそのままに、アイリスは強く手を引っ張る。
「遊びに行きましょう!」
「で、でも今から暗くなるわよ!危ないんじゃない?」
「大丈夫ですよ!何があっても私が守ります!」
振り返りながらにこやかにアイリスは笑った。
「それに、夜は吸血鬼の時間ですから!」
「……最近、こういうのが多い気がする」
『確かにねぇ。楽しかった?』
「……あー……うん……たー……ぶん?」
ふかふかのベッドの上でロジェは目を覚ました。確か昨日一晩中町中を振り回されて、瀕死でお風呂に入って、ベッドで完全に死んだんだっけ?
「今何時?」
『お昼過ぎてる』
確かに時計は昼過ぎを指していた。傍で欠伸をしているサディコがそう言ったからか、お腹が鳴った。
「アイリスは?」
『土下座してた。友達と遊ぶなんて久し振りだからちょっと調子に乗りすぎたって』
「ヨハンはどこ行ったの?」
『宿屋おじさんの手伝いしてる。遊べる時に遊んどけって言ってたよ。何にも怒ってなかった』
扉がノックされる音がしてお盆を持ったアイリスが入って来た。机の上にそれを置いて、流れるように土下座をする。
「あ、あの、アイリ」
「本当に申し訳ありませんでした!」
ロジェは起き上がって平謝りするアイリスを静止しようとする。しかし彼女は捲し立てた。
「私ってばヒトと遊ぶのは本当に久し振りで、全然加減出来なくて……」
『ていうかそもそも昨日どこ行ってたの?』
「吸血鬼のお店よ。夜だけ開いてるってお店」
ロジェはベッドから抜け出して、土下座しているアイリスの傍に座った。
「そう数は多くないんですけど、面白いお店が多くて。血液入り紅茶とか、吸血鬼専門食とかがあるんです。もちろん人間用の商品も置いてありますよ」
サディとロジェの会話に、アイリスは顔を上げた。
「あぁ!じゃなくて、本当に申し訳ありませんでした!どこか体調は悪くありませんか?もし何かあったら、私……!」
慌てて顔を伏せると、ロジェは優しくアイリスに告げる。
「大丈夫。元気よ。私も凄く楽しかったから、何も気にしなくて良いわ。また遊びに行きましょうね」
「ろじぇさん……!」
涙目でアイリスはロジェを見上げる。にこ、と彼女は微笑むと、机の上に置かれた良い香りのするスープとパンを見遣る。
「あの、これは……」
「食べて下さい!お昼ご飯にチキンスープとパンをご用意しました!」
「あ、あら……良いの?それじゃあ、頂きます……」
ロジェはスプーンを握って、具沢山のスープを飲んだ。
「ん〜っ……おいしい!身体に染みるわぁ……」
頬を抑えてしみじみと呟くロジェを見て、アイリスはゆっくりと笑顔を作った。
「……ふふ。喜んでもらえて良かった。ロージーはこの後、どこかに行く予定はありますか?今日はもうお休み?」
「そうねぇ。街に出ようかしら」
「もう街に?」
『先を急ぐ旅だからねぇ』
空いた皿を抱えながら、アイリスは寂しそうに一人と一匹を見詰めた。
「あーあ。ここは素敵な場所だから、ゆっくりして行けたら良かったのに。ロージーもいるしね」
「えへへ。そう言って貰えて嬉しいです」
んー、と一拍置いて。
「ゆっくり出来る場所と言えば『隠れ里』があるかもしれません」
「『隠れ里』?」
「えぇ。何でも結界が貼ってあって、外部からは誰も入れないようになっているそうですよ」
ポケットから手帳を取り出して、メモの部分に『隠れ里』と書かれたページを見せた。夜空の下に長閑な田園風景が広がっている。
『それ、中に人は住んでるの?』
「もちろん。里ですから」
次のページには木の根っこに捩じ込まれるように丸い門が描かれていた。メモ描きには『何かの紋章?が描いてあるらしい』とある。
「特別な入口があってそこから以外は入れません。里が意志を持っていて、誰を招くか招かないかを決めているようです」
「詳しいわねぇ」
「景星様も一度ご覧になったことがあるそうですよ。深くはお話になりませんでしたが」
「口止めの術でもかけられてるのかしら」
『景星は仙だから、隠れ里が何でそんなに忍んでるか何となく分かったんじゃないかな』
ふぅん、とロジェはもたれて呟いた。ベッドの近くにかけていた上着をものぐさで引っ張って、ついでに鞄も引っ張る。
「ま、何はともあれ一度は行ってみたいわね、『隠れ里』」
「ずっと夜らしいですからたくさん眠れますよ」
「夜だったら夕飯も食べ放題だし」
『時差ボケ凄そうなんだけど』
ロジェは立ち上がると、アイリスに礼を言った。
「美味しい朝ごはんをありがとう。それじゃ行くわ。何も無ければ直ぐに帰ってくると思う」
「何も無い事をお祈りします」
アイリスはお盆を器用に片手に乗せて扉を開けた。部屋を出た庭の奥の方を指さす。
「ヨハンさんはこの先にいらっしゃいます。私は別の仕事がありますので。また何かあったら呼んでくださいね」
「分かったわ。また遊びに行きましょうね」
『今度はぼくも連れてってよね』
滑らない様に庭の芝生を進んで行くと、人が隠れられるくらいの茂みがある。確かにヨハンが中腰で何かをやっているのが見えた。
「よはーん。散歩いか……」
「なんだ」
ロジェの声に身体を起こしたヨハンはツナギを着ていた。黒色なのにそれが分かるほど鮮血が飛び散り、頬にべったり、そしてロングナイフを持った右腕からは血が滴っていた。
「とうとう……その……ひ……」
『いつかはやるとは思ってたけどね』
「殺してねぇよ」
血肉を切る音がして、ヨハンはそれを差し出した。何か獣の足らしい。
「そんなに軽口叩けるなら心配しなくて良かったな」
「か、身体は元気よ。でもそれ、本当にそれ……」
「捌いてたんだ。チキンスープ、美味かったろ」
「あぁ、なるほどね。美味しかったわ。捌いてくれてありがとう」
「獣の血は大丈夫なのか?」
そう言いながらロングナイフを布巾で拭い始める。冷たい風が血腥さをずっと遠くに運んでいった。
「獣の血を使った魔法も多くあるから、別に何とも思わないのよ。何回も見てると慣れちゃうし……人の血だと話が変わってくるんだけど」
まだよく分かっていないヨハンに、サディコが補足するように告げる。
『人を捧げる魔法は黒魔術って事だよ。一世一代、魂をかけて何かを呪う。そんな状況になるのは良くないでしょ』
「なるほどな。……で、何しにここまで来た。仕事でも手伝いに来たのか?」
「ううん。少し散歩に行こうかなって。一緒にどう?」
「……俺は構わないが。お前もちょっとは働けよな」
じっとりとした視線が少女を貫く。返り血を浴びている姿が相まって、余計に貫禄がある。
「ま、まぁまぁ……」
「やれやれ。服だけ着替えてくるから待ってろ」
「ん!宿の前で待ってるわね」
少女を横切ったヨハンに、ロジェは呑気に返した。
「サディコ。先行きましょ」
『ん。やっぱり北の国だから冷えるねぇ』
「ひんやりしてるわよね。凄く」
庭から宿の廊下に戻ると、風が当たらないというだけでとても温い。キッチンからはコンソメの匂いがして、食堂からはシルバーが食器と当たる音がしている。
エントランスまで戻ると、今日は父親の姿が見えない。ヨハンが捌いていたから、まだ狩りに出かけているのだろうか。
玄関を抜けると昨日は薄暗くて良く見えなかった村と城下が一望出来る。空はどこまでも青く、城も突き抜けて高い。入口の広い階段に一人と一匹は腰を下ろした。
『ほらロジェ、あれ見える?』
「あれね。城の後ろにそびえ立ってる、あの山……」
『そう。あれがグランツヒメルなんだよ』
グランツヒメルと呼ばれたその山は、無機質な石造りの城よりも遥かに高く、頂上には雪が積もっている。裾野はこの国の城壁を優に超え、尾根はどこまで続いているか分からない。
「あの山の頂上に、『マクスウェルの悪魔』が住んでるギムレーっていう神殿があるのよね」
この世界に住んでいる者なら誰しも当然の様に知っている、『灼熱神殿 ギムレー』。現界していても巨大な神力を持っているが故、『マクスウェルの悪魔』が住むギムレーには熱が篭もりとてつもなく熱いのだという。
「サディコは『マクスウェルの悪魔』が住んでるっていう
『見たことないよ。あんな険しい山登れない』
でも凄いよねぇ、とサディコは目を伏せた。その瞼の裏には情景が浮かんでいるのだろうか。
『天をも貫く大きな大きな桜の下に、白亜の宮殿が建ってる……凄いよね』
「『マクスウェルの悪魔』はまだ生きているのかしら……」
『何千年か前に活動を停止してから、意識と神性は天に昇ったと聞くけど……人間だった時の抜け殻だけが、十字架の結晶の中に閉じ込められてるんだって』
びゅう、と風が吹いた。ギムレーの頂上は霞んでいる。雪が降っているようだ。
『抜け殻だけでも凄い神力が宿ってるから、ギムレー周辺では生き物も多いとか何とか……』
「それ本当なのかしらね。まだ教科書には『現界してる』って書いてあったわよ」
『じゃあロジェが書き直さなきゃね』
確かにね、と少女が言い返す前に、遠くから可愛い幼い声が響いた。
「アイリスおねえちゃーん!」
肩で息をしながら、幼女はロジェの前できょろきょろと辺りを見渡している。
「あれ!アイリスお姉ちゃんは?」
「お姉ちゃんは今お仕事中なのよ」
「……あ。昨日の……」
「こんにちは」
幼女はどこかに隠れようとしたが、その場所はなく。おずおずとロジェに口を開いた。
「……こん、にちは。……あの。わんちゃん、撫でてもいい?」
「この子は犬じゃなくて……その……」
『わん』
サディコがえらくいい声で鳴いた。ロジェが制止する前に、幼女は魔獣に声をかける。
「いい?」
『わんわん』
「……えぇ……」
いっつも犬って呼ばれるの嫌な癖に、とわしゃわしゃ頭を撫でられてご機嫌なサディコを一瞥して、毛並みを堪能する幼女に尋ねた。
「貴方、アイリスに会いに来たの?」
「うん。アイリスお姉ちゃんにはおべんきょうを教えて貰ってるんだ。わたし、まだ計算が出来なくって。いっぱいあるとダメになっちゃうの」
「あの子、多才なのね」
「お姉ちゃん、優しいよ。とーだいのよりしろさま?なんだって」
「依代様……?」
「皆そうよんでるの」
『依代』、という言葉にロジェは顔を顰めた。思い出すのは御稜威でのこと。また化け物か何かが出て来るのかしら。続けて聴こうとすると、背後から扉が開く音がした。
「待たせたな。行こうか」
「おとこのひと……けーせー様じゃない……」
ヨハンとロジェの顔を交互に見比べて、幼女はそっと耳打ちする。
「……お姉ちゃん、あんなあぶない人に騙されちゃだめだよ?」
「いやいや!あの人は同行人って言うか……」
「な、なんかね。アイリスお姉ちゃんが見せてくれたんだけど、女の人はちょいワルの男の人に酷いことされちゃうんだって!」
「幼女になんつーもん読ませてんだあのガイド」
「ち、違うの?」
違うよ、とヨハンは声音を優しくして。
「そういう奴もいるが、俺達はそうじゃない」
「けーせー様みたいにけーはくじゃないの?」
「なんかこの子が計算ダメなの何となく分かってきたわ」
『ステータス国語力に全振りしてるよね』
ヨハンは幼女にしゃがむと、手に持っていた『やさしいさんすう』の教科書を見た。
「算学が分からないのかい」
「う、うん……」
「俺達は暫くここにいる。助けになるよ。いつでも部屋に来るといい」
「連れ込みだわ……」
『連れ込みだね』
「連れ込みじゃねぇよ」
はぁ、とため息一つして。
「行くぞ。俺も観光したい」
ふわりを吹く風と陽光は、ヨハンの白衣を翻して、明るくした。さっきの風景とそれがダブる。なんと言うか、こうやって学者然とするよりも、さっきの返り血のほうが似合っている気がする。
ロジェは幼女に軽く別れの挨拶をすると、先に歩いていたヨハンに早口で尋ねた。
「あんたって人殺したことあるの」
「なんだよ急に。らしくないな」
「聞いてみただけ。……失礼なことを聞いたわ。聞かなかったことにして」
食い気味で返す。好奇心で失礼な事を聞いてしまったのかもしれない。
「……俺が兵士だと言ったから、聞いたのか?」
「そうよ。もう忘れて」
宿屋の前には小さな林があった。丁寧に手入れされていて、空からは光が落ちてくる。木漏れ日と風が揺らす音に紛れ、呟いた声が流れて来た。
「……一人」
先を歩いていた男は、何かそこにある様に止まった。
「一人だけ、忘れられない殺しがある」
視線は下を向いているのが、俯いた首の動きから分かる。
「命の恩人だった。助けを求めるのを無視して、ドッグタグだけ変えて、逃げた」
森は静寂に包まれた。抜け切った先の村がずっと遠い。
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