妻と弟の仲が良い

結城暁

第1話

 どうしよう、胃が痛い気がする。

 ロヴァッティ家の若き当主、オッターヴィオ・ロヴァッティはちくちくと痛みを訴える腹を押さえた。

 医者にかかった訳ではないが、痛みの原因はストレスだろう、とオッターヴィオは考えている。そして、それはおそらく外れていない。

 そのストレスの原因は当主の代替わりをしてすぐに迎えた妻のロゼッタにあった。

 別段、ロゼッタが性悪だとか、浪費家だとかいうわけではない。体は少し弱いが、温和で社交的で謙虚で、と家族からも使用人達からも評判がいい。

 反抗期だった弟のエヴァリストが懐くくらいなのだ、そんな妻になんの不満があろうか。オッターヴィオもロゼッタを好ましく思っているし、このまま良好な関係を築いて、円満な夫婦関係を続けていきたいと思っている。

 では何が問題かと言うと、エヴァリストと仲が良すぎるのだ。もちろん、家族になったのだから仲が良くて悪いことはない。だが、いささか仲が良すぎるのでは? とオッターヴィオが少なからず疑念を抱いてしまうくらいには仲が良かった。

 代替わりしてする前から引継ぎや顔見せで仕事が忙しくなることは分かりきっていたし、実際そうなったがロゼッタにもエヴァリストにも話していたし、使用人達もよくオッターヴィオを助けてくれた。それに胡坐あぐらをかいて帰宅時間が遅くなったり、泊りがけになったり、なんてことも頻繁だった。

 ようやく仕事も落ち着き、久しぶりに休みが取れたというのにオッターヴィオの気は重い。

 十五も年が離れているせいか、エヴァリストは兄であるオッターヴィオには何かと遠慮をしていた。しかし、オッターヴィオよりも年の近いロゼッタには気軽に話しかけられるようで、今日も二人でお茶会をするのだと先ほど終えたばかりの朝食の席で楽しそうに話していた。

 オッターヴィオはため息とともに押さえた腹をさすった。仕事で積み重なった疲労も相まって、最近は嫌な考えばかりが浮かんでしまう。

 ロゼッタは十八で、オッターヴィオは二十八、エヴァリストは十三で、年はエヴァリストのほうが近い。

 ロゼッタの趣味もエヴァリストの趣味も読書だが、オッターヴィオは家にこもっているよりも、観劇に行くだとか、乗馬だとか、外へ出るほうが好きだ。

 そもそもロゼッタとはほとんど政略結婚のようなもので、お見合いで初めて顔を合わせ、その後も交流がほとんどなかった夫より、身近にいて気軽に話せる家族と仲が良くなるのは当然ではないか。

 そこまでつらつらと考えて、オッターヴィオは腹の痛みに小さく呻き、壁へ寄りかかった。ロヴァッティ家の当主になったというのに、このような無様は誰にも見せられない。

 なんとか持ち直して、疲れているから悪い考えばかりが浮かぶのだ、今日は一日睡眠に当ててしまおう、と自室へ歩き出す。

 そこへ、ひとりの使用人が近付いてきた。最近雇ったばかりの使用人のひとりだった。

 オッターヴィオはうんざりとした気分を隠さすことができずに、眉根を寄せた。顔つきからして色仕掛け目的だと分かる。


「ご当主さまぁ、顔色がすごく悪いですぅ。ご休憩なさったらどうですかぁ? そこの空き部屋は掃除したばかりですから、きれいですよぉ。もちろんベッドメイキングも完璧ですぅ」


 意識して出された甘ったるい声を出して、蠱惑的に見えるよう使用人が微笑する。不躾に腕を絡められ、胸を押し付けられたオッターヴィオは苛立ちながらいつも携帯している筆記用具で手早くメモ帳に執事への伝言と現在時刻とを書いてそれを破り取った。


「このメモを執事に持っていくように。今から三分以内に届けられたら退職金を弾むよ」

「え」


 ぽかん、と口を開けた使用人の腕を振り払って、オッターヴィオは歩き出す。その背中に慌ただしく廊下を走って行く音が聞こえた。

 愛人狙いなのかロヴァッティ家の情報目当てなのか、それともそれ以外なのかは知らないが、人が落ち込んでいるときに話しかけてこないで欲しかった。

 使用人の採用には気をつけるよう言ってあるが、巧妙に入り込む人間はいるものだ。これでまた新しい人員を募集しなくてはならない。とはいえ、募集したばかりであるからもう少し期間を開けるべきなのだろう。

 ようやく自室の近くまで辿り着いたオッターヴィオは深くため息をはいた。

 ひとりで悩んでいるくらいなら、ロゼッタとエヴァリストに問いただしてみるべきだろうに。二人を疑うのか、不貞を働く訳がないだろうと責めてくる自分がいる。真実を知りたくないと耳を塞いでうずくまる自分もいた。

 ロゼッタにたったひとこと、自分を愛しているかと聞けない自分がひどく情けなかった。


「オッターヴィオ様、少々お話が……どうかされましたか? なんだかとてもお疲れのご様子で……ああ、ずっとお仕事をしていらっしゃいましたものね……」


 項垂れていたオッターヴィオに、また新入りの使用人が声をかけてきた。たしか、ロゼッタ付きの侍女になった一人だ。

 その侍女がどこか痛むのですか、と背中をさする。痛むのは背中ではなく胃だし、当主相手にここまで気安く接触するのはどうかと思ったが、疲れ切っていたオッターヴィオは返答するのもおっくうで、とりあえずそのまま部屋に入ろうとした。

 頭の中では見た事もない晴れやかな笑顔でロゼッタとエヴァリストが手と手を取り合い結婚の約束をしている。

「あんな仕事一徹の面白味もない趣味も合わない年上の男とはさっさと離婚するわ!」

「兄上と離婚したら僕と再婚してくださいね!」

なんて、悪夢のような光景もうそうに眩暈を覚えた。

 これからはちゃんと定時で帰るから離婚しないでほしい。やっぱり花を贈るだけじゃだめだったのか。


「気をしっかりもってください、オッターヴィオ様。溜まった疲労には癒しが一番です。今のオッターヴィオ様にぴったりの癒しをご紹介いたします。さあ、こっちですこっち」


 歩く気力もなくなってしまったオッターヴィオは、ぐいぐいと仕立ての良い服に皺が寄るのも気にせず自分を引っ張る侍女に連れられていった。

 どこにつれていかれるのかと思えば、行先は中庭がよく見える部屋だった。そう、妻と弟がお茶会をすると言っていた部屋である。

 それに気付いたオッターヴィオは途端に狼狽えた。しかし時すでに遅し、侍女は元気よく扉を開ける。


「奥様、エヴァリスト様、オッターヴィオ様をお連れしました!」

「ようこそお出で下さいました、あなた」

「ささ、座ってください、兄上!」

「ロゼッタ? エヴァリスト? これは、いったい……?」


 なぜか部屋に置かれている移動式黒板と紙束を持った妻と弟の姿に、オッターヴィオは困惑を隠せず問いかけるが、ロゼッタもエヴァリストも侍女も笑顔を浮かべるだけで答えようとしない。


「さ、あなたはここにお座りになって! あなたのために用意した特等席です!」


 ソファに座らされ、ロゼッタが淹れてくれたお茶を渡されてしまえば、立ち上がることは困難だ。困惑しっぱなしのオッターヴィオを置いて侍女が空咳をひとつ、高らかに宣言する。


「それでは第一回『オッターヴィオ様のここがすごい! 説明会』、はじまります!」

「はい、一番手エヴァリスト、参ります!」


 元気良く手を上げたエヴァリストが持っていた紙束を各々に配っていく。ただの紙束だと思っていたそれはどうやら冊子のようで、表紙には題が書いてある。


「『厳選! 兄上のすごいところ初級編!』……?」

「はい! 記念すべき第一回目ですから、どうしても気合が入るでしょう? 気合が入り過ぎて時間超過をしすぎるのは、ということになりまして」

「とはいえあなたのすごいところを順位付けなんてできないでしょう?」

「うん……?」


 どうしよう、二人の言葉が理解できない。

 オッターヴィオはとりあえず微笑んでみて、それから紅茶に口をつけた。おいしい。


「だからあなた初心者にも分かりやすいポイントを厳選して、最大五つまででまとめることにしたの」

「私初心者……?」

「初級編とはいえ、五つに絞るのは大変でした!」

「初級……? そう……か……、大変だったのか……」


 オッターヴィオは笑顔きらきらしい弟になんと返答したものか、考え、助けを求めようと妻を見て──やはりきらきらしい笑顔だった──そして沈黙を選んだ。


「ではまず、お配りした資料の一ページ目をご覧ください。兄上初心者にも分かりやすいという点から、まず──」


 そうしてエヴァリストは配った資料片手に、立て板に水を流すような滑らかさでオッターヴィオの長所をあげていく。時には黒板にオッターヴィオの素晴らしさ書き出して説明し、さながら講義のようだ。

 容姿に始まり、所作や努力家なところであるとか、人当たりの良さだとか、果てにはこぼれ話として子どものころのささいな思い出まで頬を紅潮させながら話した。


「それでですね、兄上は──」

「はい、十五分経ちました。そこまでです、エヴァリスト様」

「あっ、はい、ええと総括しますと、やはり兄上はすごい、ということです。では義姉上、どうぞ」

「はい。素晴らしい発表でした。次回も楽しみにしていますね」

「ありがとうございます、義姉上!」


 時計を見ていた侍女に時間切れを告げられたエヴァリストが発表の座をロゼッタに譲って下がる。

 やりきった顔がすがすがしいが、そんな表情で見られてもオッターヴィオはどうすればいいのかわからない。学生時代よろしく、真面目に聞いていたがちょっとよく分からなかった。話し続けて喉が渇いただろう、と紅茶を勧めるしかできなかった。


「では続きまして、二番手をわたくし、ロゼッタが務めさせていただきます」


 ロゼッタが恭しく、大げさにも思えるほど丁寧にお辞儀をして資料を配る。エヴァリストの配ったものと同じような冊子にやはり題字が書かれていた。


「『必読! だんな様のここが素晴らしい』……?」


 どうしよう、やっぱりわからない。

 その時オッターヴィオは思い出した。学生時代、学園の裏庭にいた野良猫に餌をあげたときのことを。

 家にいる猫と比べて痩せているように見えたから、オッターヴィオはたくさん食べて大きくなれよ、という願いを込めておやつをたくさんあげたのだ。

 そんなおやつの山を見て困惑した様子を見せた猫の表情を今思い出した。学友には「おやつを一度に山になるほどあげるやつがあるか。しかもこの猫は標準体型だ」と怒られたのもいっしょに。

 山とはひどい、たしかに小さくて痩せた猫が早く大きくなるようにとシルエットが猫と同じくらいになるくらい盛ったけれど。

野良猫と同じ背丈になった餌の塊を思い出して、やっぱりあげすぎていたのかもしれない、と当時の自分の行動をオッターヴィオは反省した。

 オッターヴィオが過去を思い出している間にも、流れる大河のごとくとうとうと夫の良い所をぶちあげまくるロゼッタの話は続いていた。

 やはりエヴァリストと同じよう黒板に書いて説明していく。オッターヴィオの物腰の柔らかさだとか、言葉遣いのきれいさだとか、いつだって冷静なところだとか、気遣いを忘れないところだとか、そしてこぼれ話を話すところも同じだった。


「だんな様が起きたばかりの挨拶がときどき裏返ってしまうときがあるのですけれど、そのときの照れ顔がかわいくて!」

「義姉上、素人質問で恐縮ですが、それは惚気ではありませんか?」

「あらやだ、だんな様がかわいすぎて、つい。とにかく、わたしのだんな様は理想の夫ということです」

「はい、十五分経ちました。終了です、奥様」

「ええ、ご清聴ありがとうございました」


 満足気に席に戻ったロゼッタがエヴァリストとうなずきあっているが、もうオッターヴィオはそれを見ても目を逸らさなかった。

 妻と弟が自分を大好きだと二人の演説でよくわかったからだ。というか、それしかわからない。

 家具のように気配を消していた侍女が一歩、歩みを進めたのでまさか君までも?! とオッターヴィオは身構えた。


「では三番手を……と、言いたいところですが、私は奥様推しなので」

「そうか、それはよかった。心から」


 弟と妻の褒め褒め波状攻撃に瀕死であったオッターヴィオは安堵した。もうやめて、私のライフはとっくにゼロだ。


「というわけで、第一回『オッターヴィオ様のここがすごい! 説明会』、無事閉会でございます」


 一礼した侍女が満面の笑みでオッターヴィオに問いかける。


「どうですか、オッターヴィオ様。ばっちり癒されましたでしょう?」


 慣れていない褒められで羞恥マシマシ、二人の関係を疑っていた罪悪感バリバリで震えていたオッターヴィオは深く頷いた。

 侍女には特別手当を支給し、弟と妻には本屋に一緒に行くことを決意しながら。


 それからのオッターヴィオは定時で帰り、有給も取るようにして家族との時間をよりいっそう大切にするようになったとさ。めでたしめでたし。

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妻と弟の仲が良い 結城暁 @Satoru_Yuki

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