ゾンビになったアツシ
岡本圭地
第1話…アツシ、復活!
——おい、凛! 今、何時だと思ってるんだ!
——うっさいわね、ハゲ! デブ!
——な、なんだとっ!
大学から家に帰った谷岡祐介が、ベッドの上でスマートフォンをいじっていると、部屋の外から口論が聴こえた。
祐介の兄アツシと、妹の凛の口喧嘩だ。
やれやれ、またか……。
祐介がウンザリしていると、ドカドカドカッと、激しい音がした。
驚いた祐介は、ドアを開けて、部屋の外を確認する。
左側、四メートル先に、制服を着た妹の凛がいた。
凛は、両手で口元を押さえている。
ふと祐介と目が合うと、凛は泣き出しそうな顔になった。
「お兄ちゃん。やばい、やばい……どうしよう」
「どうしたんだ?」
「アツシが、階段から落ちたの」
「えっ!」
「ムカついて股間を蹴ったら、フラフラして……」
「えっ、股間……?」
祐介は、手すりから階段の下を覗いた。
うつ伏せで倒れている男が見える。
あの薄い頭と、太った身体、悪趣味な金色のパジャマ、間違いなくアツシだ。
180センチを超える長身の裕介が、二段飛ばしで階段を駆け降りる。
そしてアツシに近づくと、その身体を仰向けにした。
彼は息をしていなかった。
「ひっ……」と、小さく悲鳴を漏らす祐介。
階段の途中で座り込んだ凛に、ゆっくりと顔を向ける。
「し……死んでる……」
——ついに、この日が来たか。
祐介は、そう思った。
高校二年の凛は、自由奔放に育ったせいか、度々兄達を心配させる行動を取るようになった。
不良ではないのだが、遊びたい時は、いつまでも街をブラブラしているような子だ。
今日みたいに、夜八時を過ぎて家に帰ると、決まって兄のアツシに注意され、口喧嘩が始まるのだ。
それは次第にエスカレートしだし、いつかどちらかが怪我でもするんじゃないか、と危惧していた。
予想は的中する。
いや、予想以上の形となった。
まさか、アツシが死ぬとは……。
アツシこと谷岡篤司は、今年で四十歳。
ふた回りも歳の離れた、義理の兄だ。
祐介と凛が小学生の頃、母親が五十代の男性と再婚をした。
その男性の連れ子が、アツシだ。
アツシはその時、三十歳だったが一度も職に就いた事がなく、ただ親の脛をかじるだけの遊び人だった。
その後、家族五人での生活が始まった。
だが、新しい父親が交通事故で亡くなると、母親も病死してしまう。
今は、兄弟三人で暮らしているが、それでもアツシは仕事をしなかった。
なぜなら祐介達の母親も、交通事故で亡くなった父親も、元プロゴルファーで、沢山の賞金を稼いでいたからだ。
家も大きく、遺産もかなりある。
親の脛を、かじりながら生きてきたアツシが、今さら仕事をするわけがない。
そればかりか、夜な夜な麻雀仲間と卓を囲んだり、呑み歩いては何十万円も散財する始末だ。
おまけに、覗きや下着泥棒の常習犯でもあるから困る。
今まで一度も警察沙汰にならなかったのは、アツシが被害者の女性に大金を積んで、口を封じたからだ。
もとは親の金なのに。
そう、彼は、ろくでもない男だった。
まさにクズ。
まごう事なき、クズ中のクズ。
キング・オブ・スーパークズなのだ。
そのくせ父親づらで、偉そうに説教までしてくるのだから堪らない。
だが、アツシが威張ったところで、別に怖くはない。
口だけで達者で、実は臆病な男だと知っているからだ。
そんな子供のような義理の兄を、祐介と凛は、いつしか『アツシ』と、呼び捨てするようになった。
それは、アツシ本人も気にしていなかった。
「警察を呼ばないと! いや救急車か!」
祐介がスマートフォンを取り出すと、凛が鬼の形相で、階段を駆け下りてきた。
そして乱暴に、スマートフォンを蹴り飛ばす。
「な、何するんだよ! 壊れるだろう!」
「嫌よ! 私、捕まっちゃうじゃない!」
凛は、激しく首を左右に振った。
ポニーテールも連動して、左右に揺れる。
「ねえ、お兄ちゃんがやった事にしてよ!」
「ふざけんなよ! 何で俺が罪をかぶらなきゃいけないんだよ! お前がアツシの股間を蹴るからだろ!」
「お願い!」
「お願いじゃねえよ!」
拝むように掌を合わせる凛。
祐介は、ふうっと吐息を吐いて、やや慰める様に言う。
「別にわざと、殺したわけじゃないんだろ? それにお前は未成年だ。ちょっと少年院に入るくらいで、済むんじゃないのか?」
「やだやだ! 絶対にやだ!」
ほとほと呆れた祐介が、肩をすくめる。
その時、凛が目を見開き、何か思いついた顔でアツシを指差した。
「人工呼吸!」と、凛が叫ぶ。
「えっ?」
「お兄ちゃん、早く人工呼吸して! 生き返るかもしれないよ!」
「ええっ! 嫌だよ、ヒロシとなんか! 酒臭いし、気持ち悪い!」
顔を歪める祐介。
だが凛は、問答無用で祐介の頭を掴んで、ヒロシに人工呼吸させようとした。
「うわっ! やめろ!」
ブチュッ。
「やめろって!」
ブチュッ。
凛は兄の唇を、何度もアツシの唇に押し付けた。
「どう? 生き返った?」
「生き返るわけないだろっ! これただのキスだろ!」
祐介は着ているスウェットの袖で、唇を拭きながら、凛を怒鳴った。
「だいたい殺したのは、お前だろ! お前が人工呼吸しろよ!」
今度は祐介が、凛の頭を掴んで、アツシの顔に近づけた。
「イヤー! 何で、こんな汚いオッサンとキスしなきゃいけないの!」
凛は激しく暴れ出し、祐介の股間をドスッと蹴り上げた。
「はうぅ……」
股間を押さえて、うずくまる裕介。
腹痛の様な、キリキリとした痛みが押し寄せる。
なんて事をするんだ、このクソガキ……。
祐介は、怒りと憎しみに満ちた顔で、凛を見上げた。
そんな兄を、仁王立ちで見下ろす凛。
「ほらっ、早く人工呼吸して!」
「……クソッ、分かったよ!」
涙目の祐介は、仕方なく人工呼吸をする事にした。
また凛に股間を蹴られたら、堪らないからだ。
祐介は昔、高校の授業で教わった人工呼吸のやり方を、思い返した。
「や……やるぞ」
深呼吸をして、覚悟を決める。
祐介はアツシの鼻を摘んで、口に何度も息を送り込んだ。
アツシの口臭は、この世のものとは思えないほど酷かった。
例えるなら、腐ったミカンと、腐った牛乳と、腐ったミンチを混ぜ合わせたような悪臭だ。
まさに、地獄以上の地獄。
汚物以上の汚物だ。
だが祐介は、ひたすら我慢して、人工呼吸を続けた。
その様子を見ていた凛は、引きつった顔で口元を押さえた。
……見てはいけない、目の毒だ、視力が下がる、眼球が破裂する。
そう自分に言い聞かせるが、やはり気になって見てしまう。
その度に「うわぁ……汚い」と、何度も小声を漏らした。
祐介は息を送るだけではなく、心臓マッサージも試みた。
だが、とうとうアツシが目覚める事はなかった。
しばらく繰り返した後、ついに祐介に限界がくる。
「おえぇぇ……! もう無理!」
祐介は気持ち悪くて、仰向けで倒れた。
咳や吐き気、悪寒、めまい、頭痛、しびれ、呼吸困難……ありとあらゆる体の不調に襲われた。
祐介は、このまま自分も死ぬんじゃないかとさえ思った。
「……そうだ!」
また、何かを思いついた凛が、キッチンへと走った。
戻って来ると、手には小瓶が握られている。
具合の悪い祐介が、半身を起こした。
「……なんだよ、それ?」
「これ、アツシが買ってた精力増強剤」
「はあっ? そんな物で、人が生き返るわけないだろ!」
「でも、これ見てよ!」
凛が、小瓶に貼られたシールを指差す。
「蘇る、みなぎる、奮い立つ。マカの力で復活、最強の皇帝降臨だって!」
「いやいや、無理だって! 皇帝って何だよ!」
しかし、一度思いついたら、絶対にやらないと気が済まないのが凛。
蓋を取ると、瓶ごとアツシの口に中に、ねじ込んだ。
「おいおい、溢れてるだけじゃないか! やめろって」
祐介が、アツシの口から小瓶を取り出した時、凛が驚いた顔をした。
「あれっ? 今、アツシが目を開けたよ!」
急いで祐介が、アツシの顔を確認する。
しっかり閉じている。
「開いてねえよ! お前の願望だろ?」
「あれ、おかしいな……」
おかしいのは、お前の頭だ。
祐介は、そう言いたかった。
「そうだ! 復活ソングを聴かせようよ!」
また凛が、馬鹿な事を言い始めた。
いい加減にしてくれ、と祐介はきつく目を閉じた。
「ねえ、『愛しい人よグッドモーニング』って歌、知ってる?」
「……知らないし、知りたくない」
脱力した祐介が、投げやりに答える。
対照的に凛は、目をらんらんとさせていた。
制服のポケットから、スマートフォンを取り出すと、画面をタップし始めた。
その歌を、聴かせるつもりなのだろう。
「今、大人気のガールズバンドだよ。イカレポンチーズっていうバンド。この『愛しい人よグッドモーニング』が凄い話題になってるの。死んだハムスターが、この歌を聴いて生き返ったって、ネットニュースになったんだよ!」
「……それ、ハムスター死んでなかったんだよ。ビックリして動かなくなったのを、死んだと思ったんだよ。そしたら、また動きだしたんじゃないの? その時、テレビでその歌が流れてたとか……どうせ、そんなところだろ」
「とにかく、やる価値はあるよ」
「ねえよ、時間と電波の無駄! そもそもアツシは、ハムスターじゃないぞ」
何を言っても、聞く耳を持たない凛。
さっそく、音楽を再生した。
スマートフォンから、軽快なイントロが流れ出すと、パンチの効いた女性ボーカルが歌い始める。
(Aメロ)
誰かが食べたうどんの残り汁
それが私の主食なの
幼稚園児にカツアゲされる俺様
逃げると三輪車で轢かれ重体
(Bメロ)
あたいのメガネ 何処にある?
今バキッと何かを踏んでしまったわ
マジでキレる五秒前
コロス、ウメル、クサル、ルルル
(サビ)
ラブ・イズ・オーバー 愛のはじまり
アイル・キル・ユー 長生きしてね
お願い起きて 起きろコラ
愛しい人よグッドモーニング
「何だよ、このふざけた歌詞は。こんなものが流行るとか、世も末だな」
祐介が呆れかえっていると、ウウゥ……と不気味な声がした。
祐介が怪訝な顔で、凛を見る。
「変な声を出すなよ、凛。気持ち悪いな」
「私、何も言ってないよ」
凛が音楽を止める。
今度はハッキリと、ウウゥ……と、地を這うような呻き声が聴こえた。
祐介と凛は、同時にゴクリと唾を飲み、アツシの顔を覗き込んだ。
すると突然、アツシの目が、カッと見開いた。
「うわっ、ビックリした! アツシが生き返った!」
「ほらねっ! やっぱり、この歌は復活ソングなんだよ!」
「とにかく良かったぁ!」
祐介と凛は、心から歓喜した。
しかし、アツシの様子が、どうもおかしい。
身体を小刻みに震わせている。
目は充血しているし、口からは泡を吹いているではないか。
「うがぁぁぁ!」
突然、アツシが凛に襲いかかる。
「キャア!」
悲鳴を上げて転がる凛に、アツシは馬乗りになって、嚙みつこうとした。
慌てて、アツシを押しのける祐介。
「やめろよ、アツシ!」
「アツシ、どうしちゃったの?」
二人は後ずさりして、アツシから距離をとった。
「むがぁぁぁ!」
また襲いかかってくる。
完全に、狂人と化していた。
恐怖を感じた祐介と凛は、近くにあるトイレへと逃げ込んだ。
便器が一つある、狭い個室。
祐介は素早く、内側の鍵を閉めた。
ドスン! ドスン!
外からはアツシが、開けろと言わんばかりに、何度もドアを叩いてきた。
「ねえ、アツシおかしいよ。どうしたんだろ?」
前髪の乱れた凛が問い掛ける。
しかし、裕介には見当もつかない。
「分からねえよ……」
アツシはドアを叩きながら、狂ったように「うがぁ、うがぁ!」と、凶暴な声を出し続けている。
「お兄ちゃん、あれって、もしかして……ゾンビじゃないの?」
「ゾンビ?」
「小学生の時、お兄ちゃんとゾンビを撃つゲームをやったよね。あれにそっくりなんだけど」
まさか、そんなわけ……。
祐介は考えた。
確かに一度死んでいたし、蘇った後の変貌ぶりは、まるでゾンビのようだ。
祐介は顔をしかめて、凛を見た。
「認めたくないけど……もしかしたら、本当にゾンビかも……」
祐介がそう言うと、凛はウンウンと頷いた。
ピンポーン!
その時、家のチャイムが鳴った。
こんな時に、一体誰だ?
つづく……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます