06:夜道、照らす光は

長谷はせ広宣ひろのぶ? え、もしかして天才少年?」


 あぁ、失敗した。

 大学に入ってしばらくして、新歓コンパなんかも一通りこなして。だから、油断してしまった。

 飲み会の中盤、席替えの過程で蹴り飛ばされた俺の鞄から、出し入れが面倒で素のまま突っ込んであった学生証が飛び出していた。


 当然、そこには俺のフルネームが書いてある。同じ年代のヤツならほぼ確実に何度も目にしたであろう俺の、名前が。


 幼少期から与えられた全てを暗記し、愛読書は図鑑と辞書。文系方面に特化しているかといえばそうではなく、小学生の時に算数オリンピックでメダルを取ったりもした。

 大人からはやされて調子に乗って、友達が離れていくのにも気付かずバカみたいに。それを自覚してなお走り続けられれば良かったのだと思う。

 けれど俺のメンタルはそこまで強くなくて、だから自分の周りに自分を持ち上げる人間しかいないことに気付いた時、逃げた。


 逃げて、そして、“普通“であろうとした。狙って偏差値50近辺を取り続け、何もかも間違えていると知りながら、大学に入って。今度こそ“普通“に、キャンパスライフを送ろうと、思った。


 なのに。


「すごーい! 天才くんじゃん!」

「なんでうちの大学来たん? 暇つぶし?」

「やば! 一緒に写真撮ってよ、ママに自慢する!」

「あっ、俺も俺も!」


 あっという間に囲まれて、全部過去のことなのに昨日あったことみたいに蒸し返されて、それは。

 酒も飲んでいないのに吐きそうになる。身体はあの頃よりずっと大きくなったのに、心は小さなままで。

 だけど“普通“でい続けるために拒否することもできず、作り笑いを貼り付けてスマホのカメラにVサインを。


「なーにぃ、人気もんじゃーん」


 俺を中心とした人集ひとだかりにパカリと割れ目が出来て、そこから一人の男が顔をのぞかせた。刈り上げにタトゥー、ダボダボのシャツとパンツを引きずって近寄ってきた男は、隼人はやと先輩と呼ばれていた。


「長谷くん? ちょっと俺と遊ぼー」


 隼人先輩は銀の指輪でいっぱいの手で俺の腕を掴み、立ち上がらせると、誰の言葉も無視して居酒屋の出口へと歩き出した。途中で他の先輩が隼人先輩に俺の鞄を手渡して、店を出ていく俺たちにヒラヒラと手を振った。


 掴まれたまましばらく歩いて、駅前の喧騒けんそうがほとんど聞こえなくなった頃、ようやく先輩の足が止まる。くるりと振り返った先輩は無邪気に笑って、俺に鞄を差し出した。


「ほい、気を付けて帰んな」

「え?」

「ん?」

「いや、え? 帰っていいんですか?」


 想定外の発言に思考が停止する。言われた通りにしてもいいのか、“普通“はどうするのか分からなくて立ち尽くした。


「いいよ? だるかったっしょ?」

「だるかっ……、まぁ、そうっすね……」


 俺の混乱など気付きもしないみたいに、あっけらかんと先輩は言う。あけすけな物言いは彼の優しさなのかもしれないがそれにしたって、何故。


「なんで助けたのか、不思議に思ってる?」


 急にそんなことを言うものだから、思わず後ずさる。カラコンでも入っているのかと思うくらいに大きな黒目が俺を射抜いて、そして先輩の顔に見覚えがあるような気が、して。

 そして俺の記憶から、幼い頃の先輩が姿を現した。


「天才少年、天野あまの隼人……」

「お、あったりぃ。よく分かったな」


 きっちりとした七三分けで、のりのきいたワイシャツを着て、大人に混じって討論していた頃とは似ても似つかぬ今、よく結び付けられたと自分でも思う。

 でも、どこかで感じていたんだろう、自分に似た部分を。

 彼は、俺より早くメディアに取り上げられていた、天才の先輩だった。そういえば、俺が彼より大きく新聞にった時、母は勝ち誇った顔をしていたっけ。


「その、タトゥーとかは」

「えー? ただの反抗。もう俺の好きに生きまーすって宣言的な?」

「効果ありました?」

「父ブチ切れ、母卒倒。実家なんてもう近寄んないから知らんけど、会いに来ないってことは効果あったんじゃねーかな」


 先輩は、家を出たのだ。

 そのことがひどうらやましかった。


『お前も父さんみたいに出ていくんでしょ。母さんのことなんか無視して、いなくなるんでしょ』


 母の声がする。スマホが何度も何度も小刻みにメッセージが届いたことを知らせていた。


【いまどこ】

【まだ帰らないの】

【連絡しなさい】

【何してるの】

【ひろくん】

【勉強しなくちゃ】

【高校受験が控えてるんだから】


 着信画面に切り替わっても、俺は動けなかった。家を出れば、開放されるのだろうか。俺のせいで狂った母を、置いていけるのだろうか。


 先輩の手が俺からスマホを奪い、通話ボタンをタップする。途端とたんに響いた金切かなきり声をものともせず、先輩はヘラヘラ笑ってこう言った。


「ひろくんの大学の先輩でーす。これからサークルの合宿なんでぇ、しばらく連絡取れませーん」


 返事を待たずに通話を切り、電源まで落としたスマホを俺の手に握らせる。そのまま俺の腕を引いて無言で歩く先輩の背中は、さっきよりも、大きかった。

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