青竹物語

yakuzin.

前節

 「うわっ、寒」


 火照った体で店を出ると、湯槽から上がったような、身体の先から芯までじわじわと寒波が襲う感覚に襲われる。


 同時に、一気に頭が覚めていくような音がした。自分が今までやっていた事が今考

えればとても恥ずべきものであったのだと認識させられる。俗にいう「賢者タイム」

ってやつかもしれない。なにしろ、俺にとってこのような感覚は初めてだった。


 俺は今日、大人の階段をまた一段、いや一段飛ばしくらいには登ってしまったのだ

から。


 「そういや、お前は初めてだったんだな。どうだ、調子は」

 「いやぁ、すっげえ気分いいです。でも、めちゃくちゃ寒いですね」

 「そこは『うまかった』とか言えよ。でもまぁ、普通は初めてで上手く感じる奴は

少ないからなー。そこそこに良い反応かもしれんな」

 「なんか、そういう言い方してたらいやらしく聞こえるからやめましょうよ。酒飲

んだだけなのに」

 「酒は人をいやらしくするぜ?例えば俺みたいにな!だっはっはっはっはっは」

 「先生は酔いすぎです…… 」


 冬も半ばに滑り込む一月の中頃。

 雪は暗黒の闇にちらついて、何処か落ち着かない様子にも見える。


 というのも時の流れは早いもので、あくせく勉強やら試験やらを日々こなしていく内に俺はいつの間にか二十歳を迎えていた。

 もっとやりたい事、やるべき事があったのでは無いかとも考えるが、最難関大学を目指していた俺にそれは愚問に違いない。


 今日はそんな流れ過ぎ去った時を懐かしむ集会、同窓会が行われた。大学に行って

いる奴、自分の道を進み続ける奴(そういう奴は来ない奴の方が多かったのだが)、未だ浪人生である奴など様々だ。

 人間は人生が一度きりしか無いが為に最終的に一つだけの道を歩んでいくことになるが、そういう点で違う道を歩んだ者の話を聞くというのは、きっとどの時代、身分、立場においても面白いものなのだろう。

 これまた多種多様な話を聞いてはくだらないと笑ったり、本気で泣きそうな話に肩を叩き合ったりした。先生が言ったことではないが、どうやら酒は人を感情的にさせる効果があるようだ。俺は味や香りより、酒のそんな性質に舌鼓を打っていたのも

しれなかった。


 「もうみんな帰っちまったなぁ。…… 寂しいなぁ」

 「それは先生が悪いんすよ。昔変な授業ばっかりしてたから」


 同窓会が終わり、俺は恩人の清水先生と二人きりで盃を交わしていた。

 さっきまでみんな、二次会に行ったり帰路についたりしながらもこの辺の周りをたむろしていたのだが、今では同級生や先生は一人もいない。


 理由は単純で、清水先生が変人だからである。

 清水先生は国語担当の教師だったのだが、生徒に文章で書いてあることをわかりやすくするために「清水の舞台」なるものを領域展開していた。

 どういうことかといえば、要は「具現化」するのだ。

 よく百聞は一見にしかずというが、この場では百読は一見にしかずである。

 実際に文章に書かれていることを実行するために変なものを持ってきたり(いつだ

ったろうか、ワインを教室に持ち込んだ挙句、授業中に飲み干してしまった事があっ

た)、奇行を繰り返していたりした。

 当時は中、高校生(言い忘れていたが、俺の通っていた学校は中高一貫の男子校で

ある)の感性に刺さるものがあったのか、中々に人気があったのだが、大人になれば「社会的な目」というものが働いてしまうのだろうか。清水先生は彼らの目には「近づいてはいけないオーラ」がおどろおどろしく漂っているのかもしれず、みんな自然と清水先生を避けてしまっていたのだった。


 それではかくいう俺はというと、そんなのは感じない。むしろ輝くようなオーラ

が、今も昔も彼の周りに神々しく光ってすら見える。

 最近自覚してきたが、やはり俺も変人なのだろう。俺はいつしか、彼の授業、身振

り手振り全てにカリスマ性を感じてしまっていたのだ。

 俺は常に彼の背中を追い続け、それは今も変わらない。

 そして俺の夢は、遂にもう直ぐ現実になろうとしている。


 「まだ飲み足りねぇぞぉ…… 」

 「はいはい、そんじゃ二軒目行きますか」

 「おー!」


 我ながら変な人に憧れてしまったものだと苦笑してしまったが、その感情は決して

嫌なものではなかった。

 むしろ、尊敬していた人に頼られて心地良い、そんな感覚だ。


 「らっしゃーい」

 「二人で」

 「カウンターね」


 俺たちは丁度そこにあった、それでいてどこにでもありそうな、何の変哲もない飲

み屋に足を運んだ。

 どうやら店は一人で切り盛りしているらしく、店の人は一人しかいない。店長はサ

ングラスにたらこ唇で、阪神〇イガースの試合を観ている、ぶっきらぼうな口調。と

てもわかりやすくキャラの立ったおやじさんだ。


 「じゃあ、とりあえず、この焼き鳥セットの塩味と、枝豆とキャベツと…… 」

 「ビールだビール!」

 「はいはい、それじゃ生ビール二つで、取り敢えずこれでお願いします」

 「あいよ」


 そう言うと店長は無愛想な顔を変えずに、ズカズカと店の奥に入って行った。


 そして、突然静寂は始まった。

 かろうじてテレビはついているが、それも外で店の前を通過していくバイクのよう

な環境音であって、店にいる客は俺と先生の二人しかいないはずなのに明らかに気ま

ずい雰囲気が流れる。

 先生は酔っていて羅列が回らないのか頭が働いていないのか、何も喋ってくれな

い。結局俺は仕方なく、遂に所在なさげに、年季が入っているシミだらけの机に腕を組み、そこに顔面を突っ伏して料理を待つしかなくなってしまった。まるで飲み過ぎて吐きそうになっている人のようだが、実際俺は気分が悪くなっている。

 脳が飲み過ぎを感知して、危険である事を知らせるように、俺はズルズルと現実に

引き戻される感覚を覚える。

 現実はこれから素晴らしい事も楽しい事も何億通りと存在しているのに、たった一

つの現実の「闇」から一生逃れてしまいたい。


 これも、今までに無い感覚。

 「誰かが何とかしてくれる」事がない、と現実を突きつけられる、この気持ち。


 「大人になるって、何なんですかねぇ…… 」


 思わず俺の口から、心の奥の吐瀉物が吐き出される。

 二段飛ばしで大人の階段を登った俺は、後方に続いている「登った痕跡」を振り返

って見る。

 思えば、「大人」になるまで、俺はこんな事をした事がなかった気がする。

 きっと、忙しすぎてそんな暇はなかったのだろう。

 そう、毎日がとても綿密で、繊細で、それでいて力強い。そんな青春だった。

 彼のいた、あの日常は。


 「あいつ今頃、何してるんだ…… 今日、来てなかっただろ?」


 先生は俺の質問には答えず、察したかのように「彼」のことを尋ねる。


 「さぁ…… 」

 「しらばっくれんな。知ってるだろ」


 やけにはっきりした口調で、先生は俺を問い詰める。

 先生は、水を被ったかのように真剣に、本気になっていた。

 本当は知っていた。…… あいつがどこにいて、どうなったのか。

 でも、知らないのも本当だ。

 あいつが去った理由は分かっている。でも、一体あいつが「今」、どこにいて、どうなったのかは分からないのだ。


 ただ、俺が言えることはこれだけ。


 「あいつはとうの昔に、自分探しの旅に出ちまいましたよ。もう二度と、会えない

と思いますけど」


 そして俺たちの脳は、記憶を子供でも大人でもない境目の時期へと蘇らせ始めた。            あいつ− 須天羅すてら輝惺きさと− に振り回された、あの彗星の如く過ぎ去った日々に。

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