恐怖の新人教育

 初鹿野君の仕事場のイメージはとにかく怖いに尽きるだろう。まず無駄口を一切叩かない。そういうタイプは仕事人間にいるけど、無駄口を叩く人間をこれでもかと敵視して、睨みつけて黙らせてしまう。


 初鹿野君に睨まれたら抵抗できるのはいないだろ。ボクだって無理だ。それぐらいの迫力は余裕である。仕事場ではニコリともしない怖い顔しかしないものだから、営業先でのギャップを見て驚くのも多い。初めて初鹿野君と営業を回ったやつなんて、


「主任が笑うのですよ。雑談だってあんなに盛り上がって・・・」


 当たり前だろうが! やってるのは営業だぞ。あんな怖い顔で契約なんて取れるはずがないだろうが。でも気持ちはわかる。ボクだって初めて見た時に驚いたからな。それだけ営業が出来るから主任になってるし、あそこまで出来るのなら係長どころか、課長になっていても良いぐらいだ。そうなっていないのは社内事情もあるから置いとかせてもらう。


 とにかく優秀としか言いようがなく、大きなプロジェクトを幾つも成功させているし、難しそうなプロジェクトがあれば初鹿野君は欠かせない。そんな初鹿野君にはいくつかのあだ名や異名はあるけど一番インパクトがあるのが、


『アンゴルモアの恐怖の大王』


 これは二十世紀末にもてはやされたノストラダムスの百詩篇第十巻名七十二番、


『一九九九年、七か月、

 空から恐怖の大王が来るだろう、

 アンゴルモアの大王を蘇らせ、

 マルスの前後に首尾よく支配するために』


 二十一世紀もだいぶ過ぎて来たから忘れかけられてるけど、最後に盛り上がったのは二千年問題の時だったかな。で、この詩の解釈だけど、恐怖の大王とアンゴルモアの大王は別人と解釈するそうだ。


 素直に読んでみれば恐怖の大王がアンゴルモアの大王を蘇らすのだからそうなる。それとアンゴルモアの解釈もあれこれあるそうだ。字面だけを見ているとキリスト教の悪魔の眷属みたいに感じるけど、そうではなく地名とする説が有力らしい。そこを踏まえるとアンゴルモアの恐怖の大王は正しくないのだけど、初鹿野君の異名としては妙にはまってる気はする。



 初鹿野君も新入社員の教育係もするのだけど、これがなかなかのものなんだ。良く言えば社内の風物詩みたいなものだけど、見てるだけで身の毛もよだつとも言えるとして良いと思う。初鹿野君が新人教育の担当になっただけで、


「心配するな。骨は拾ってやる」


 こう励まされるのが恒例行事になるぐらいだ。とくにちょっと生意気とか、鼻っ柱が強そうなのを担当した時には文字通り凄惨なものになるとして良いだろう。とにかく初鹿野君は容赦なんて言葉が辞書にないから、それこそ徹底的に叩き直されてしまう。新人教育を受けた連中はまず、


「メシの味もしなくなりました」


 新人教育中は昼食も一緒に取るのだけど、そもそも初鹿野君と業務中に一緒に昼食を取るのだけでも余裕で怖いと思うんだよな。だけど怖いだけで済むはずもない。それこそ箸の上げ下ろしどころか、食べ方、食べる順番、食べるペースまで徹底監視される。


 さらに食事中のどのタイミングで相手に話しかけるか、その内容、口調、話し方、話す時間まで徹底的に叩き込まれる。もっともこれは必要な教育なんだよな。ビジネスで一緒に食事をしながら商談をするのはいくらでもある。そこでの失敗談もテンコモリあるぐらいだ。一緒にメシを食うのもある種の技術なんだ。


 ボクも新人の頃にあれこれ教えられたけど、あそこまで徹底的にやられたらメシの味なんてしなくなると思う。そもそも空腹とか、満腹なんて感覚すらなくなると思うぞ。言うまでもないけど新人教育中は連日のように続けられる。


 教育中は休憩時間など皆無で良いだろう。空き時間が少しでもあれば営業の心得的なものを聞かされる。タメになる話なのは間違いないと言うか、それしか話をしないのだけど、それを一つでも聞き落としたり、覚えてなかったら・・・どれだけの目に遭うかは想像もしたくない。覚えていたって実行できなかったら同じで、


「半殺しで済んでくれたら、その温情を泣いて神に感謝します」


 その気持ちはよくわかる。新人教育は業務手順を覚えるのもあるけど社会人としてのマナーや礼儀作法も含まれる。これは新卒採用なら絶対だし、転職組だって問答無用で行われる。これが出来ていないのは多いんだよな。


 これもまた厳しいなんてものじゃない。とにかく少しでも浮ついたりしたら、まさにピシャリどころか往復ビンタが無限往復状態だとか。もちろん実際にビンタを炸裂されるわけじゃないけど、


「あれならビンタされる方がよほど嬉しいです」


 ボクもそう思った。あれで精神衰弱にならないのが不思議だよ。頭の下げかた、その角度、時間、その時の表情の作り方、頭を上げた時の振舞方・・・少しでも気に入らないところがあると、無限じゃないかと思うほどやり直させられるぐらいは序の口だものな。


 他にも余計な口を挟んだり、横着などしようものなら・・・口にするのも怖いよ。他にも歩く姿勢、服装から持ち物、髪型までの身だしなみすべてに徹底チェックが入るから、新人教育を受けている間は、どれだけ神経をピリピリさせても足りないぐらいで良いと思う。だから、


「毎朝、今日もまた始まるかと思うと・・・」


 会社の前に信号があるだけど、あれが永久に赤信号ならどれだけ嬉しいかとこぼすぐらいだ。また会社に入るには階段を登るのだけど、絞首台の十三階段より恐怖を感じると言ってたのもいた。


 軍隊が天国に見えるのじゃないかと思うぐらい厳しいのだけど、今までに逃げ出したり、脱落した者は信じられないかもしれないけどゼロなんだ。明日にも会社に来なくなるのじゃないかと思っていても、泣きそうな顔をして出社してくる。ボクも声をかけたことがあるけど、


「主任の教えを必ず身に着けてみせます」


 幽鬼のような顔で答えるんだよ。そんな新人教育も終わる日が来る。その頃には一人前のビジネスマンの顔になって、


「主任の御恩は一生忘れません」


 表情はまさに一つの目標をついに成し遂げたの達成感が満ち溢れていると言えば良いのだろうか。あいさつの後に感激のあまり涙どころか、号泣するのだっているぐらいだ。ここも不思議すぎる点だが、おそらく初鹿野君は冷たくて、怖い人だけではないのが伝わるからだと思ってる。



 ある時に取引先を怒らせてしまったのがいる。そいつは優秀ではあったが、プライドが余分に高くて、スタンドプレイに走る傾向があったんだ。危ういと思いながらも成績は挙げていたし、いずれ経験を積めば解消していくとボクは見ていた。


 そいつの失敗は、取引先との間で起こったトラブルをすべて自分で解決しようとしたことになる。誰かに助けを求めるにもプライドが許さなかったのだろうし、部長であるボクやましてや主任である初鹿野君に知られるのを・・・怖かったんだろうな。


 こういう事はしばしば起こるのだが、リカバリーに走り回れば回るほど相手の不信感を高め、さらなる怒りを買ってしまう悪循環に陥ってしまっていた。ボクのところに直接の抗議が来て発覚したのだけど、初鹿野君は、


「営業の基本はチームプレイ。それを無視して暴走をした結果だ。この責任は直接的には君にある。だがここは会社だ。君が責任を取れば済む話じゃない。営業部全体の責任になり、会社の損失は全社員が被ることになる。そんなこともわかっていないのか」


 字で書けば平静そうだし、口調だけなら氷のように冷ややかなんだけど、その怒りは烈火より激しいのが部屋中にビンビン伝わってくる恐ろしいものだった。そいつは青菜に塩どころか、十年ぐらい塩漬けにされたぐらい土気色になってたものな。


「部長、わたしにお任せして頂けますか?」


 初鹿野君は青菜の塩漬け状態のそいつの首根っこを引っつかんで、事態の収拾に走り回ってくれた。怒り狂っていた向こうの担当者をなんなく宥め込み、その頃にはゾンビ状態のそいつに、


「わたしがしばらく見ます」


 アンゴルモアの恐怖の大王による再教育だ。この再教育の恐ろしかったこと。横で見てるだけで生きているのが不思議なぐらいだったもの。ようやく再教育が終わると、


「業務での失点は業務で取り返すしかない」


 一緒に回っていくつもの新規の契約を勝ち取り、


「これは君の功績だ」


 あっさり譲って何事もなかったような顔をしてんだよ。骨の髄まで叩き直されたそいつは初鹿野君の猛烈な信者みたいになっていた。そいつだけじゃない、初鹿野君の教育を受けた連中はみんなそんな感じになってるものな。あれは不思議な人徳だと思う。



 ホントに不思議で、怖がられてるのは本気で怖がられているが、決して嫌われてはいないんだよ。嫌われるどころか慕われてもいる。どれだけ慕われているかだが、これは初鹿野君がリーダーとなったプロジェクトを見ているだけでわかる。


 メンバーの気合の入れようが異様なんだ。これは初鹿野君が怖いのもあるだろうけど、怖いだけであれだけ気合が入るものか。それこそ初鹿野君のために寝食を忘れて全身全霊で取り組んでいるとしか見えなかった。


 言ったら悪いが、なんかどっかのカルト団体を見てるかのようなんだよ。あれは崇拝する教祖様に熱狂する信者だろ。まるで生き神様に仕えるとしか見えないぐらいだ。とは言え誰とも馴れ馴れしくはしないし、グループを作るようなことも無い。


 それどころか、周囲に誰も寄せ付けないオーラがある。とにかく不思議な人なんだよな。ボクも何回も一緒に仕事をしたけど、その優秀さだけでなく、献身性に驚かされたもの。

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