くださらんか
マキノゆり
くださらんか
これは私がまだ大学生だった頃の話だ。
地方の美大で油絵を専攻していた私は、毎日毎日課題が無くとも暇な時は何かしらスケッチブックに描きなぐっていた。友人達と遊びに行くこともあったが、それよりも、とにかく描くことが楽しくて楽しくて仕方なかった。小さなアパートの部屋いっぱいにスケッチブックやイーゼルを置いていたので、寝る場所なんて殆ど無かった。だから描きためてた中から良さげな作品だけを残して、定期的にゴミ回収に出していた。まあ、あの時期は無意識といっていいくらい描いていたから、捨てるのも気にはならない。仕方ないだろう、毎日毎日絵が増えていくのだから。
この時期、描いていてよく周囲から言われた言葉がある。「お前の絵は、時々はまる」と言うのだ。こちらとしては「時々」と言われても、そう嬉しくないのだが、そう言われた時の絵は、自分自身でも何か突き抜けたものを持っていたと思う。なぜ「思う」なのかって? そりゃ、その時に描いた絵がもう無いからだ。「はまる」と言われた絵は、必ず貰い手や買い手が付いた。なので、そんな傑作は今となってはインスタントカメラで撮った写真が数枚残っているだけだ。
大学1年の9月、最初の日曜日だったと思う。
その日は山にスケッチに行きたくて、登山が趣味の友人に頼みこんで、近くのそう高くない山のハイキングコースに連れて行ってもらった。
私は登山については詳しくない。夏の終わりの涼しい時期に、紅葉になる手前の晩夏の山を描きたかっただけで、だから、本当なら山の麓の神社や仏閣の境内にでも行けばよかったと思う。
ただ、どうしても山の緑を描きたくて、またその日はとても美しい晴れた日だったので、私は大満足だった。
山道をしばらく登っていくと、中腹辺り、近隣の山々を一望に見晴らすことが出来る開けた場所に着いた。遠くに見える山々の間から、光を伴って水のような流れを作りながら風がさあっと吹きこんでくる。ここから見えるその山々には、割と大きな川の源流があるそうだ。風の中に水の甘味を感じるくらいで、あんな風にあったことはあの時だけだ。上に被さる木々の枝からは木漏れ日が落ち、その一帯がとても明るく
東屋などは設置されてなかったが、山腹沿いに2~3人掛けの石のベンチが3つほど設けられており、常に数人の登山客が思い思いに休憩していた。
私はその休憩場所が気に入ったので、早速そこでスケッチすることに決めた。友人はその間ハイキングコースを一周し、戻りにまた合流することになった。
しばらくスケッチをしていると、何人かの登山客に声をかけられた。山に登るでもなく絵を描いている人間は珍しいのかもしれない。そういう時は気が散らないでもなかったが、とにかくその日はとても気持ちよくて、私は山の空気や光、風の動きにのめり込んでいた。
こんな感じにのめり込んでいる時ってのは、目の前がとてもよく視えるものだ。視えたままを思う存分描けるのは、とても気持ちが良い。スケッチブックの上に木漏れ日がかかり、まるで絵の一部のようで幻想的だった。視点を上げると、目の前の山の連なりの間から、涼しい風のリボンがうねりながら飛んでくるようだ。私はこころが昂るのを抑えつつ、夢中になって描き続けていた。
ふとスケッチブックが陰ったような気がして、空を見上げた時だった。私の左横から男が覗き込んでいたのに気が付いた。
「何だか良いの描いてるねぇ」
その男は中年ぐらいの年齢で、皺のあまり無いのっぺりとした顔をしていたのを覚えている。いや、顔立ちなんてよく覚えていないと言うべきだろうか。ずうっと笑いが張りついたような表情をしていたから、そう思ったのかもしれない。
いつの間にか、私のすぐ横に立っているものだから、気味が悪い。身体を離そうとして横にずれたけど、男はまた側にくっついてくる。私は少々腹が立ってきた。
「すいません。影になるので」
「ああ、ごめんね。急に」
謝りつつもまた私のスケッチブックを覗き込んでくるので、露骨かな、と思いつつも胸元に抱え込んだ。
「色が無いのに、綺麗じゃないか。何を描いたんだい?」
「いや、別に。ただの風景ですよ」
答えたくなかったけど、そこは答えないとまずいような気がして答えたよ。そうしたら、男はにたぁっと笑って「ごまかすなって」と急にぞんざいな態度を取り始めたんだ。
「とても良いもの描いてたじゃないか。もう一度見せてくれよ」
そういうと、こちらに寄こせと言わんばかりに手を伸ばしてくる。反射的にかわして、私は立ち上がった。周りに登山客が居れば助けを求めようとあたりを回したが、
「……どうぞ」
誰もいないところで、普通じゃない人間と争う事ほど私も馬鹿じゃない。しぶしぶではあるが、もう一度この中年男にちらりとスケッチを見せた。
「おお」
中年男はまるで崇めるかのような身振りで絵を手に取ろうとする。顔をちらりと見たが、笑いに形どられた口から食いしばった歯と
「……じゃあ。それ、くださらんか」
一瞬、何かの名前を言っていたようだが聞き取れなかった。
その部分だけ、くぐもったような声になってまるで獣の唸り声のようだった。
もちろん、私は断ったさ。
「その絵、くださらんか」
「いや、これは単なるスケッチだし」
「その絵、くださらんか」
私とその中年男は、ちょっとの間「いや、これはあげられません」「その絵、くださらんか」の押し問答をしていた。
助けを求めて周囲を見てみたが、これまた全く人がいない。着いた時はベンチの利用客はひっきりなしだったから、そういうタイミングだったんだろう。
座ったまま対応するのが嫌だったからベンチから立ち上がったが、いつの間にか崖側にじりじりと押しやられている。私は怖さと同時にとても面倒臭くなった。
「判りました。じゃあ、これね。このスケッチ貴方にあげるから、もう俺の側から離れてくれ」
「ああ、ああ、早くこちらに。早く、早く」
貰う立場なのに、ひどい言いぐさだろう? 私も苛立っていたから、スケッチブックからそのページを破って男の方にぱっと渡したよ。男は慌てて両手を上げてスケッチを掴み取った。で、急に強くなった風にあおられて、両手でこう、ドジョウ
その時、さらに強い風が吹いてきてね。吹き抜けるって感じだったが、風が木の枝葉をざあっと揺らして、木漏れ日がキラキラっと光って。あの水の甘味を含む風だった。山の風って木の香りがしそうだけど、近くに川があるとあんな風が吹くんだろうか?
「ああっ」
中年男の両手から、あのスケッチは吹き飛ばされてしまった。「ああ、飛んじまったじゃないか、この間抜け!」と中年男が怒鳴る。まったく酷いよなあ?
そしたら、どっかから笑い声が聞こえてきたんだよ。多分若い男の。振り返ったら、山道からこの休憩所に入るところに、背の高い若い男が立っていた。
その手には飛んだスケッチブックのページを持っている。ああ、良かったと中年男の方を振り向いたら、もうそいつは居なかったのさ。
その若い男は、黒いTシャツと白い作業着を身に着けていた。
私の描いたスケッチブックのページをじっと見ていたが、視線をあげ私のほうへ顔を向けた。
「良い絵だな。君が描いたのか?」
あ、はい、と間抜けな返しをしてしまったが、男は笑ってこちらに歩いてきた。
「その絵、さっきまでここにいたおじさんに渡したんですけど。いなくなってる」
「ああ、足が速いからなぁ」
そう言って若い男は笑った。同年代か少し上に見えたし、さっきまでの変な空気も消えて、とても安心したのを覚えている。でも不思議なことに、この若い男の顔もよく覚えていないんだ。
「地元の方ですか? えっと、さっきのおじさん知ってる?」
若い男は面白そうに私を見た。手に持った絵を丁寧に丸めて、ポケットから出した紐のようなもので結んでいる。
「まあ、そんなところだ。……この絵は私が預かる。持っていったらさっきの男はまた付きまとう」
「ええ?! それは嫌だな。じゃあ、申し訳ないけどその絵は君に頼むよ」
ああ、と頷くと、若い男は私の顔をまじまじと見てふぅむと呟いた。
「君は、その小さな穴からしか見通せないのなら、私が預かろう」
「え? 何の話?」
若い男は答えず、無言でその右手を私の両目の辺りにかざし、何かを取る仕草をした。理由は判らない。前髪に虫でも付いていたのかも知れない。
「この山の
「ああ、駐車場から入口があった」
「毎年この時期に、絵を描いてくれ」
そう言い放つと、男は私の側を通り過ぎて、上り方向へ山道を進んでいった。意味が判らなくて私は彼を呼び止めようとしたが、後ろから「すいません、通ります」と声を掛けられた。振り向いたら、登山客が数名立っている。私はちょうど山道の真ん中に立っていたようだ。
すいません、と謝りながらもう一度あの若い男の姿を探したけど、下ってくる登山客に紛れたのかもう見えなくなっていた。いい人のようだったし、もう少し話したかったねえ。
その後?
その後はハイキングコースから戻ってきた友達と合流して、予約していた旅館に泊まって翌日帰った。もちろん、下山した時と帰る時、
しかし、奇妙な体験だった。
私と友人が入山したのは朝の9時頃で、お昼過ぎには
狐に化かされた? まさか。そんなんでは無いと思うけどねぇ。
まぁ、それから毎年9月の第一土曜日、この山の
さあ、これで話は全部だ。
そう言ってじいちゃんは笑った。
くださらんか マキノゆり @gigingarm
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