第2話 迷いの森
<ラルゴ>
ドアに手をかけた瞬間、僕の口から自然と女声の呪文が流れ出た。この世界では、男声と女声で使える魔法が異なる。そして今、僕の口から発せられたのは、明らかに女声魔法だった。幼い頃、僕はボーイソプラノだった。高い声で歌うことが得意だったし、女声魔法のコツもなんとなく覚えていた。それが今になって役立つとは思ってもみなかった。
呪文が完成し、遠くにあるドアがゆっくりと開いた。僕はホッと胸を撫で下ろす間もなく、背後で冷たい声が響いた。
「声が出なくしてやろう」
魔女の声だ。瞬間、喉が締めつけられるような感覚に襲われた。僕は叫ぼうとしたが、何も声が出ない。魔女が呪いをかけたのだ。どうやら、僕の声を奪ってしまったらしい。
「ついでに筆談できない呪いもかけてやる」
その言葉に僕はゾッとした。魔女は、僕が何かを書いて助けを求めることさえできないように、紙に触れたら燃える呪いまでかけてきたのだ。僕が紙とペンを使おうとする可能性を、彼女はあらかじめ封じたのだ。何をしても、助けを呼ぶ手段はない。
絶望感が胸に押し寄せ、どうやっても言葉で助けを呼ぶことができないという現実が僕を打ちのめした。必死に屋敷の外へ逃げ出そうと駆け出したが、その矢先、魔女が再び呪文を唱え始めた。
「捕まえておしまい。あいつを」
その声に応えるように、目の前に巨大な男の姿が現れた。彼は僕に向かってゆっくりと歩み寄り、その声は低く響く。
「承知しました、ご主人様」
恐怖が僕を駆り立てた。声を出すこともできず、助けを求めることもできない。悲鳴が心の中でこだまするばかりだった。僕の足は全力で動いていたが、それでも逃げるには不十分だった。女の身となった僕は、圧倒的な非力さを嫌というほど味わっていた。
森の中に足を踏み入れると、すぐに冷たい湿気が肌にまとわりついてきた。夜露に濡れた葉が、微かに揺れるたびに光を反射し、不気味な影を森のあちこちに作り出している。木々の間を通る風が、囁くように低い音を奏で、まるで森そのものが生きているかのような錯覚を抱かせた。
僕は走り続けるが、足元の枝が乾いた音を立てて折れるたびに、心臓が跳ね上がる。周囲の木々は巨人のようにそびえ立ち、彼らの無言の視線が僕を追い詰めるかのようだった。闇が濃くなるほどに、森の奥から何かが迫ってくるような感覚が、僕を一層怯えさせる。胸の中にあるのは、純粋な恐怖と焦燥だけだった。
「お嬢さん、逃げても無駄ですよ。お待ちなさい」
魔人の声が背後から響き渡る。僕は必死に逃げた。足がもつれそうになるたび、心臓が爆発しそうになるたび、前へ、ただ前へと走り続けた。しかし、森はますます暗く深くなり、どこへ向かっているのかもわからなくなっていた。木々の間を抜けるたびに、無数の枝が僕の服を引っかけ、まるで「逃がさない」と言わんばかりに僕を捕まえようとしているかのようだった。
「こんなところで捕まったら……」
暗闇に包まれた森の中、僕はただ一つの目的地を思い描いた。子供の頃、フォルテと一緒に遊んだ秘密基地。それが唯一の逃げ場だと思った。小屋が見えるまで、足を止めるわけにはいかなかった。
ようやく、前方に見慣れた小屋の輪郭が浮かび上がった。その瞬間、少しだけ安堵が広がる。しかし、それはほんの一瞬のことだった。僕はすぐに、再び追手が迫っている現実を思い出し、急いで小屋へ駆け込んだ。
中に転がり込んた。ドアがバタンと閉まり、南京錠をかける。外から叩かれる音が響いたが、とりあえず安全な場所に入ったことにホッとした。
「明かり、明かりを……」
僕は壁に手を伸ばし、古びたランプを見つけた。指先がかすかに震えながらも、ランプに火を灯す。淡い光が小屋の中を照らし出し、無数の影が揺れる。荒れ果てた小屋の中には、埃っぽい空気が漂っていたが、その中で一際目を引くものがあった。
隅に置かれた木箱が、ランプの光に照らされて浮かび上がる。僕はゆっくりと近づき、箱の蓋を開けた。中には見慣れない楽器――テナーサックスが収められていた。
「これが……」
このサックスには聞き覚えがあった。フォルテの父親、アキラさんが異世界の日本から持ち込んだものだ。そして、フォルテの母親、エリーゼさんの手によって、男声魔法の効果を発揮できるように改造された特別な楽器だということも。
ドアが再び激しく揺れた。時間がない。ドアが破られる前に、このサックスで魔法を使うしかない。無力感に押しつぶされそうな僕の中に、わずかな希望の光が差し込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます