屍んだ世界にしあわせの毒薬を

柿月籠野(カキヅキコモノ)

一章 屍者の世界

第一話 毛髪磯巾着化毒薬

 どおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!


「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……!」

 辺り一帯を揺さぶる爆発音と共に、特に緊張感のない叫び声が遠ざかっていく。


 かつらはまたかと溜息ためいききつつ、朝食の芋煮を返していた菜箸を置き、かまど焚口たきぐちの戸を閉めてから、走って土間の勝手口を出る。


紫音しおん?」

 桂が狭い裏庭へ出ると、借家の北の壁に大穴がき、そこから赤とも緑とも紫とも言いがたい色の煙がもうもうと立ち昇っているのが目に入る。――腐った卵と新鮮な烏賊いかと半日床に落ちていた沢庵が混ざったようなにおいがする。


 爆発は、入居初月の今月だけで五回目だ。

 ――そろそろ強制退去か。

 と、桂は家の損壊についてはその程度にしか考えていないので、大穴の前はさっさと通り過ぎて、大穴から飛んでいったはずの弟を探す。


「しおーん。紫音しおん、どこだーっ」

「こーこぉーっ」

 弟の方も爆発には慣れているので、桂が呼べばすぐに返事が返ってくるが――。


「ここってどこだーっ」

 いくら毎度のことであるとはいえ、今回は特に煙が多く、視界が悪いのでそう簡単には見つからない。

 桂は手で煙を払いつつ、へいに囲まれた裏庭を歩き回って目をらす。


「うーえーっ」

「上?」

 飛んでいくとすれば大抵上であるし、紫音の声はずっと上から聞こえているので、桂は最初から上を探している。


「めのまえーっ」

「目の前?」

 目の前のすすまみれの塀は何度も探している。


かつらにいちゃん、もう見てるーっ」

「え?」

 もう見てる?

 桂は、煙の中を塀に向かってぐに歩いていき、手を伸ばしてみる。


「あ」

 いた。

 指先に触れた柔らかい感触のある場所をよく見ると、煙と同じ気味の悪い色の煤を被った紫音が、煤塗れの塀の上部に引っ掛かってぶらんぶらんと揺れている。


ろしてーっ」

 ――仕方ねえな。

 桂が両手を上げて紫音の脇の下を掴むと、紫音も手を伸ばして桂の腕に掴まってくる。


 紫音の手が桂の腕を掴む位置は、日に日に肩の方へと近付いている。

 ――紫音、いくつになるんだっけ。

 元々小柄だった紫音の成長を感じるたびに、桂の頭にはその疑問が浮かぶが、最後にはいつも、数字などどうでもいいか、というとても退屈な答えに行き着くのであった。


「怪我は」

 たずねつつ桂は、地面に下ろした紫音の煤を手で払い、肌を出そうとするが、一向に出てこない。


 紫音の趣味は、毒薬作りだ。


 この煤は毒薬作りの実験に失敗して付いたものであり、その毒薬の原料は大金草だいきんそうの粘液を発酵させたものだったり、平角牛へいかくぎゅうの肝のしぼかすだったり、不凍虫ふとうちゅう糞汁ふんじゅうだったりするものだから、手で払った程度では落ちないのも無理はない。


「ケガ、無いよ」

 紫音は煤やら謎の液体やらで汚れた顔で全身を見下ろして、うんうんと頷く。

「なら、良かった」

 桂は煤を払うのを諦めて、身体からだを起こす。

 ――怪我が無いのであれば、お説教の時間だ。


「紫音。爆発しそうな実験は、もっと少ない量からやれと言ってるだろう。今回は偶々たまたま平気だったが、次は大怪我をするかもしれないし、死ぬかもしれないんだぞ」

 しかし、紫音に、桂の真剣な説教など効かない。

 紫音は爪の隙間に入った謎の緑色の物体をほじくりながら、屁理屈へりくつを言う。


「桂兄ちゃん、『今回は』じゃなくて、『今回も』だよ。つまり、ぼくはいつでも失敗しないってこと」

 ――まったく、こいつは何を言っているんだか。

 桂は内心で酸欠になるほどの深い溜息を吐きながらも、見るも無残な爆発の跡を指差し、説教を続ける。

「紫音。屁理屈ばかり言ってないで、起こったことを見ろ」

 桂は紫音の兄として、紫音が危険なことをしたときには、叱ってやらねばならないのだ。

 しかし――。


「お前は、この危険な大爆発が失敗じゃねえってのか」

「うん」

 紫音は、年に数度の無雲の空のように澄みきった返事をする。


「失敗は成功のもとって言うしね、そもそもぼくは今、全身の毛が磯巾着いそぎんちゃくになる毒薬を効率的にらす実験をしてたんだよ。失敗なわけないでしょ。いくつか改善の余地も見つかったし、大成功だよ」

 言いつつ紫音はもう桂に背を向け、軽快な足取りでぴょんぴょんと、大破した毒薬部屋に戻ろうとしている。


「こら紫音!」

 桂は怒鳴どなって紫音の襟首えりくびを掴み、自分の前にり戻す。

 いつ崩れるかも分からない家に、紫音を入れさせるわけにはいかない。

 爆発した毒薬部屋からは煙だけでなく、鮮やかな橙色だいだいいろをした謎の液体も、床下を伝ってどろどろと裏庭に流れ出している。――毒薬部屋は床にも大穴が開いているらしい。

 こんな状態では、桂がいくら修理と掃除を急いでも、何とか家が使えるようになるまでに、どれだけかかることやら――。

 しかし、突っ立っていても何も始まらない。


「朝飯の前に、そのすす流しな」

 桂は脳内で、できる限りの即席修理と掃除の計画を立てつつ、勝手口の外の、蓋付ふたつきのかめあごでしゃくる。

 この島国には、海の外の遠い国にあるような、水を管で各戸かっこに届ける仕組みや、管を通る水を沸かす仕組みはないので、生活に必要な水は、近所の共用の井戸から冷たいものをんでくるほかない。

 しかし、今日は暖かいので、身体を少し流す程度なら冷水でも構わないだろう――。


「ん」

 ん?

 ――桂が首をかしげつつ見ると、紫音が桂に向かって腹を突き出している。ついでに何故なぜか、唇も突き出している。

「んー」

 ……はいはい。


 桂は内心でやれやれと首を振りながらも、かがんで、紫音の子供服の上衣の付紐つけひもほどきにかかる。

 普通の子供なら、とっくに着替えなど一人でできるようになっていて、勉強が難しいだの誰それが好きだのといったことに悩み始める頃だろうに、紫音は違う。


「ほらよ」

 紐を解き終えた桂が背中を軽く叩いてやると、紫音は服をぽいぽい脱ぎ捨てながら、裸足はだしで甕の前まで走っていき、甕の脇に掛けてあるおけを掴む。


「水を掛けるだけじゃなくて、ちゃんとこするんだぞ」

 桂は、毒薬部屋の大穴の外に脱ぎ捨てられた服を回収しにいきながら、弟に忠告する。

 ――服は上も下も、また焼け穴だらけだ。今度はどこからぎの布を調達するか――。


 ところで、紫音からの返事がない。

「紫音、聞いてるか。ちゃんと擦れよ」

「はばばばばばばい」

 遠くから届いた兄の再三の忠告に、紫音は桶の水を口にじゃばじゃば注ぎながら、適当な返事をする。


 紫音の口からあふれた透明な水が、踏み固められた地面を流れ、桂のいる壁の大穴の前で、毒薬部屋の床下から出ている橙色の液体に接近する。


「桂兄ちゃん、目を閉じて息を止めて服を脱いで」

 目を閉じて息を止めて服を脱い――。

 ん?

 桂がそう思ったときには遅かった。

 足元の地面で水と合わさった、全身の毛が磯巾着になる毒薬が、巨大な鬼の屁のような音を立てて爆発し、全裸の桂を襲った。

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