【アップ】男山教会2023年9月10日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2023年9月10日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MVzh0q-GvHQ&feature=youtu.be


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12820498422.html



前奏

招詞 イザヤ書55章8~11節

頌 栄

たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り(週報裏面)

十戒・祈祷(週報裏面)

子ども説教

子どもと親のカテキズム問52

「信者の子どもたちの洗礼」

こどもさんびか

あいの主イエスは[改124(1節)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 154番

聖書

使徒言行録17章16~21節(新約P248)

詩編22編23~32節(旧約P853)

説 教

「イエスと復活

~新奇な教えに聞こえた福音」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 502番

みことばの交読文

ペトロ一1章3~5節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄 542番

祝 祷

報 告



讃美歌~♬


讃美歌154番 Satomi&Noriko

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=RP6b9jM078s


 1)地よ 声たかく 告げ知らせよ

   きょうイェス君は よみがえれり

   いのちの君は あまつ園に

   われらを召して 入れたまえり


 2)とこよのひかり てりかがやく

   みくらにいます 君を仰がん

   あめより漏るる かちうたにぞ

   地なるわれらも 声をあわせん


 3)あめよ よろこべ つちよ うたえ

   ものみなともに ほめたたえよ

   イエス君きょうぞ よみがえれる

   ああかぎりなき さかえの日よ


讃美歌502番(歌詞付)54年版「いともかしこし」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=onEFfE9pcLg


いともかしこし イエスの恵み

つに死にたる 身をも活かす。

主よりたまわる あめの糧に

飢えしこころも 飽き足らいぬ。  

世にあるかぎり、きみのさかえと

いつくしみとを  かたりつたえん。

すくいのめぐみ 告ぐるわれは

たのしみあふれ うたとぞなる

ほろびをいでし このよろこび、

あまねくひとに えさせまほし。

世にあるかぎり、きみのさかえと

いつくしみとを  かたりつたえん。

くすしきめぐみ あまねく満ち、

あるに甲斐なき われをも召し、

あまつ世継ぎと なしたまえば、

たれか洩るべき 主のすくいに。

世にあるかぎり、きみのさかえと

いつくしみとを かたりつたえん。



2023年9月10日 礼拝説教 中心聖句


その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。

使徒言行録17章18節


地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。

詩編22編28,29節


はじめに

人生と道徳を哲学的に探求していたアテネ伝道から、経過の一端を知る。

「パウロはアテネ(アテナイ)で二人を待っている間に」とは、べレアでもテサロニケのユダヤ人たちに追われたパウロが、べレアに残ったシラスとテモテを、一人で待っていた時。パウロは、港から通り沿いに数々の祭壇や偶像があるのを目の当たりした。実に、「この町に偶像が満ちているのを(注意深く)見たとき」、パウロは、自身の内に憤りを感じた(エレミヤ20章9節、エゼキエル36章18節)。聖なる霊によって、偶像の支配する町の不潔を認め、パウロは、清い熱情を抱いた。「会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場(アゴラ)では居合わせた人々と毎日論じあっていた」。アテネはマケドニアの総督の監督下に置かれていながら、地方の独立が認められていた。パウロは、安息日における会堂では、聖書(モーセの律法・預言者・詩編:ルカ24章44節)に基づいて話すこと(説教)以外に、広場で毎日福音を語り続けることができた。それは、「論じ合う」との言葉のとおり、居合わせた人びとの質問を受けながらの、パウロからすれば、弁証的な説得であったと思われる。

「また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論した」。エピクロス派は「肉体に苦痛がなく、魂に悩みのない」快楽の一種を追求し、ストア派は、世界のすべては神とし、「自然に従え」「理性に従え」と教えながら、恐れや悲しみのない平静の心を哲学的に追求した。この点、偶像を見て、パウロの憤りも、パウロの伝えた「イエスの苦しみ」は、蔑視され得る理由となる。後に、パウロ自身、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とコリント教会へ書き送ったように、「十字架につけられたキリスト」を伝えることに徹した(コリント一1章18~23節)。「パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせてい」ながら、その哲学者たちの「中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろう』と言う者もいれば、『彼は外国(異国の)神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた」。一部の者たちは、取り合わなかった。

「そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なこと(なんだか珍しいこと)をわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味(なんの事)なのか知りたいのだ。』」多分、パウロと討論した者たちの中に議員もいた。パウロを議会に連れて行った理由は、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国(異国)人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」からであった。パウロは、逮捕されたのではなく、公式の会議の場で弁明の機会を与えられた。それは、暇をもてあましていたとも、好機を得たとも言える、会議の者たちにとっては、絶好の福音を聞く機会を備えることになった。

おわりに

詩編22編は、全人類が主を礼拝する時が来ることを預言する。十字架の苦しみと死と、復活において成し遂げられた、キリストの御業。「塵に下った者」たちが、心揺さぶられるような感動の中で、主をほめたたえる日を共に待ち望みたい。



(Mynote)

二〇二三年九月一〇日(日曜日)、今日も兄弟姉妹達と共に礼拝を守れるこの環境を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム 問五二』

「信者の子供達にも洗礼を授けるのはどうしてですか?」

「信者の子供達も、神様の恵み深い契約に従って教会の一員だからです。親と教会には、その子が自分の口で信仰を告白するまで導く責任があります。」

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第一七章一六〜二一節)

『詩篇』(第二二章二三〜三二節)

『使徒行伝』のこの箇所は、パウロ達一行がアテネの街に行った時、その街中に夥しい偶像が飾られ、建てられて在るのに気付いた。そしてそこに住んで居た様々な外国人と論議を交わし、特にパウロ達が人々に教え広めて居た「イエス様の事」に就いて聴きたいと願い出て来た。しかしそれは人ならではの興味から訊いたのであって、信仰に目覚めようとして、自分を悔い改める機会を得、その為に神様の側に立ち返ろうとして聴こうとしたのではない。向学心の果てに自分達の論議とパウロ達を戦わせようとし、一瞬の優越に浸ろうとして居た者も多かったのではなかろうか(その雰囲気からそう見える節もある)。その証拠に偶像が沢山並べられて在り、この様に偶像が飾られて居る理由は「人夫々の神々が論証と共にそこに在る」訳で、神様に仕えるのでなく、自分達がその神々の主(あるじ)と成り、自分達(人間)が様々な神殿や供物を用意する事で、初めてその神々(偶像の神々)が生きる事にして居た。この事に就いては次節(『使徒行伝』第一七章二二章後半)からパウロの言(ことば)により示されて居る。

「アテネの人達よ、あなた方は、凡ゆる点に於いて、頗る宗教心に富んで居られると、私は見て居る。実は、私が道を通りながら、あなた方の拝む色々なものをよく見て居る内に、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのに気付いた。そこで、あなた方が知らずに拝んで居るものを、今知らせてあげよう。この世界と、その中に在る万物とを造った神は、天地の主(しゅ)であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。又、何か不足でもして居るかの様に、人の手によって仕えられる必要も無い。神は、全ての人々に命と万物とを与え、又、一人の人から、凡ゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、夫々に時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出せる様にして下さった。事実、神は我々ひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。我々は神の内に生き、動き、存在して居るからである。…(『使徒行伝』第一七章二二章後半から三二節までを参照の事)

パウロはこの様に語り教える上で、そこに住む人々が好い加減な「人間の神々(偶像であり邪教)」を教え広め、それを信じる事に抵抗なく良しとして居たのを見、信仰の薄い者達であり、神様とイエス様を馬鹿にして、人間の教えのみを自分達の愉悦欲しさにし続けて居たのを見て、心に憤りを感じたのではなかったか。

アテネには、エピクロス派、ストア派の人達など、多くの哲学好きな者達も居た。また「何か耳新しい事を話したり開いたりする事のみに、時を過ごして居た」外国人達も滞在して居た。詰り自分の興味を埋める為、人間の理知・理解・感情の範囲のみにて納得出来る、解釈出来るものを(パウロ達の)その教えに求め、神様の啓示により霊的にイエス様の事、聖書理解を説くパウロ達とは、その議論の土台がまるで違った。土台が違う為、殆ど論議に成らなかった事も窺える。云わばこのアテネで盛んに興って居た様々な宗教は、日本で言う処の八百万の神々に似て居たろうか。何にでも人間の理解と感覚の内から様々な神々を見付けて創り出し、それを時が経つにつれ習慣で本当だと知り、中にはそれで商売をして居た者もあったかも知れず、他の神を信じなかった。その「他の神」とは例えばキリストの真実であり、自分達にとって都合が合わない宗教(もの)ならばそれを弾き、ほぼ無感覚・無関心の状態で居た。この無感覚・無関心とは究極に於いて罪であり、信仰に生かされる上では神様の教えに反するものと成るのだろう。その事に就いては、例えばパウロが語った「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見出せる様にして下さった」(『使徒行伝』第一七章二七節)という言葉が諭して居る。全ての人に神様から平等に与えられた自然を見て知り、その上で信仰に生かされる努力と気付きを得、真剣に追い求めれば誰でも唯一の真実である神様の存在を知り、キリストの真実を信じる姿勢(信仰の姿勢)を保(も)つ事が出来る。この機会がそれ迄にも与えられて居るに拘らず、そこでパウロ達にただ論議を持ち掛け、優越・愉悦に浸ろうとして居た人々は敢えて気付かない様に努め、やはりただ論議を愉しもうとして居た(耳新しい事を話したり聞いたりする事のみに時を過ごして居た)。その証拠に又そこに住んで居た他の者達には、ただ愉悦欲しさに論議を持ち掛けようとして居た者に反する形で、パウロ達の言う事を信じた者達も何人か居た(『使徒行伝』第一七章三四節)。

パウロ達を信じた者達がそこに居た事は、愉悦欲しさに論議を持ち掛けて居た者達が自分の興味でそれをして、救いの契機を見逃して居た、或いは追い求めないから気付かぬままで居た事を明かして居るとも言えよう。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw&list=PLsm9yO2iPJwbdJksJGAKNxpg1NbzEP7W9&index=19


「神は人をご自身のかたちとして創造された」

THE DAILY with Arthur Hollands 2023/09/14

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=YLF8W8xoncY


天河伝説殺人事件

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=xCIB74-iYDU


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)




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