記憶が無いのに勇者様に結婚を迫られました。恋人だったのですよね?
雨露 みみ
恋人……だったのよね?
「ティアーナ。俺と結婚して欲しい」
私の両手を握り、結婚を申し込んでくる男性。短めに揃えられたサラリとした美しい銀色の髪に、闇夜のような黒の瞳。凛々しくてキリッとした精悍な顔つきの年上成人男性に、つい見惚れてしまったが。……何やら体がスースーするような気がして自分の体へと視線を移すと。
「──ッ!? ひ、ぇっ!」
纏っているのは薄い透け感のあるヒラヒラしたネグリジェだけ。そんな自分の姿に驚き声にもならぬ悲鳴をあげてしまった私は、焦りつつ周囲を見渡す。
──見知らぬ薄暗い部屋。天蓋付きの寝台の上。更に記憶に無い名前も知らぬ男性からの求婚。
三拍子揃えば誰だって混乱してしまうだろう。
(待って……待って!? 誰かこの状況を私に説明して!?)
どうして自分がこんな場所にいるのか分からない。今からどんな目に遭うのかも分からない。恐怖心に支配され思わず目に涙を浮かべて、その銀髪の彼を見上げた。
「あぁ、ティアーナ……それほどまでに俺と結婚出来るのが嬉しいのか? 俺も嬉しいよ。嬉しすぎて心臓が止まりそうだ」
そう言いながらその男性は、私の目尻に口付けるようにして涙を吸い取っていく。その瞬間、私の理性というストッパーも吸い取られ、外れてしまったような気がした。
「いやあぁぁあぁッ!」
手を振り解いてその男性の頬を平手打ちする。──パァンッと良い音がした。その直後に寝台から飛び降り、全力で部屋の出入り口のドアに向かって駆け出す。ガチャガチャと飾りノブを動かすが、鍵がかかっているのか開く気配はない。鍵を外して……と思うが、通常扉の内側にあるはずの錠は見当たらない。
「可哀想に……ティアーナは混乱しているんだな? 俺が三十路前の良い男になったら結婚してくれるって約束だったのに」
「や、約束?」
三十路前の良い男? 結婚の約束? 何が何やらさっぱり分からないが、とにかく今の私には……寝台からユラリと立ち上がってこちらに向かってくるこの男性が、危険人物だということだけは理解できる! 私は背中を扉につけて、必死の思いで叫んだ。
「私、結婚なんてしません!! そんなことよりも、もっと大切な使命が……、使命?」
私には、大切な使命があった気がするのに。それが何だったのかすら思い出せない。大事な部分にモヤがかかってしまったようで……頭の中がスッキリ晴れない。
「……ティアーナ」
「違うの、忘れてない。忘れてないのだけど……とにかく結婚なんてしている場合ではなくて」
そんな事を言っている間に、その男性は私のすぐ目の前まで迫って来ていた。私は目をぎゅっと瞑って叫ぶ。
「恋人でもない私を無理やり寝室に連れ込むような変態は、こっちに来ないで! 私を愛してもいない人に触れられたくない!」
「……その言葉は少々堪えるな。変態扱いは構わないが、俺はティアーナをちゃんと愛している。足指の爪先から頭のてっぺんの少し跳ねた髪まで──余す所なく全て」
「えっ?」
まさかの発言に、私は瞼を上げてその男性の顔を見つめる。悲しみの色を浮かべたその表情は……嘘には思えなかった。
◇
「どうぞ、ティアーナ」
「……ありがとう、ございます」
その男性は『ジークフリート・ハーリッツ侯爵』という、歴とした爵位持ちのお方だった。そんな立派な位を持った男性の部屋に何故私が居るのかという疑問は残るが、私が羽織る用のバスローブを貸してくれた上、手ずからお茶を入れてくれている。
寝台の淵に座った私に手渡されたティーカップ。そこに注がれたお茶からは、私の好きな香りが漂っていた。
「良い匂い……」
「ティアーナはハーブティーが好きだったから。特にこの茶葉に少しラベンダーを混ぜたブレンドが好きだっただろう?」
私はもう一度お礼を言って、カップに口をつける。ほんのり香るラベンダーが私を優しく包み込み、ホッと吐いた吐息からも穏やかな香りが広がった。
(美味しい……。私、よく考えれば自分の名前以外、ろくに何も覚えていないわ。もしかすると本当に、この人は恋人だったのかもしれない)
落ち着いて考えれば。どうしてこの場にいるのかも分からないのに、勝手に人を変態扱いして引っ叩いてしまったのは良くなかったし……この人は私の好みも名前も知っている。恋人だったかどうかはさておき、以前より私と交流があった人間に間違いない。
「私混乱してしまって……叩いてごめんなさい。痛かったですよね?」
「大丈夫、ティアーナは悪くない。記憶が曖昧になっている可能性を考えずに、突然結婚を迫った俺が悪かったんだ」
「えっと……ジークフリート様は、私の恋人だったのですか?」
私の質問に苦笑しつつティーポットをテーブルの上に置いた彼は、そのままの表情で私の横へ並び座った。
「様、と呼ばれるのには慣れないな。今まで通り俺のことは『ジーク』と呼んで欲しい」
「じゃあジーク……様」
「だから、敬称は不要だ」
「だって侯爵様を呼び捨てに出来るような身分では無い、ような気がするのです。私……」
あくまでも「なんとなく」だが。私はそんな高貴な身分のご令嬢ではなかったように思う。
「俺は元々伯爵家の三男坊で、家が継げないから幼少期よりせっせと剣術に励んでいた、ただの騎士団員だ。むしろティアーナの方がこのフローシオン皇国を……いや、世界を救った唯一の聖女で救世主だ」
ジーク様曰く。私は『聖女』だったらしい。そしてその概要はこうだ。
おおよそ百年前。この世界に現れた『魔物』という名の生物。人を食い、殺し、まるで人間を滅するために生まれてきたかのようなその生物は……『魔王』を絶対的君主として、統率性のある動きで次々と各国を滅ぼした。
しかし我々人間も、ただやられっぱなしというわけにはいかない。魔王を倒すため、各国から沢山の人間が立ち上がっては──敗れ去っていった。
そんな中我々が住んでいる『フローシオン皇国』は魔王に立ち向かう『勇者』を、お告げにしたがって約十四年前に選定。それと同時に、回復や補助に精通した聖職者の中から選んだ『聖女』や、魔術に特化した『魔術師』など複数の人間を伴わせて、魔王の元へと向かわせた。
その結果、フローシオン皇国から旅立った勇者一行は、見事魔王を封印。世界に平穏と平和をもたらしたらしい。
──そして、その聖女こそ私であり……勇者がジーク様なのだという。
「魔王討伐の功績が認められて、俺は爵位を賜った。いや、要らないと言ったのに押し付けられたという方が近いか」
確かに言われてみれば貴族らしいドレスシャツの上からでも逞しい筋肉が良くわかる体つきをしているし、その袖に留められているカフリンクスには、フローシオン皇国のマークであり皇帝から認められた者しか使えないはずの蓮模様が入っている。
「待ってください。今の説明だと世界を救ったのは聖女ではなく、勇者であるジーク様だと思うのですが」
「でも実際に魔王を封印したのは聖女であるティアーナだ。当時十九歳と若かった俺は、魔王戦ではあまり役に立たなかった。旅の途中に年上のティアーナに怒られることも多かったな」
そう言われても全く実感が湧かないし、記憶も蘇らない。
(ジーク様には申し訳ないけど。やっぱりここは、はっきりと……全く思い出せないと伝えて置いた方がいいわよね)
もちろん、僅かに残っている記憶もある。例えば、フローシオン皇国のマークは蓮だということは覚えていたし、好きなお茶の香りも分かる。基本的な日常動作も問題無い。しかし、どうにも人物関係は脳内から抜け落ちてしまっている。
「ジーク様、ごめんなさい。私、ジーク様のことも含めて過去の出来事を全く何も覚えていないのです」
──悲しませてしまう。私はそう覚悟して伝えたのだが、予想に反してジーク様は微笑みを返してくれる。
(えっと。私とジーク様は、恋人……だったのよね? そんなあっさりと受け入れられちゃうの?)
「……怒らないのですか?」
カップを手に持ったまま、隣に座る彼を上目遣いで見上げる。
「むしろ何に対して怒る必要が?」
「だって普通、恋人に自分のことを忘れられたら悲しいでしょう?」
「別にティアーナが過去を覚えていようがいまいが、俺と結婚するのは決定事項。過去を失ったなら、今から二人の思い出を増やしていけばいいだけだ」
……ジーク様は、問答無用押し付け愛タイプであった。
しかしながら、ジーク様の言うことにも一理ある。一緒に暮らしているうちに、ひょんなことから記憶も戻ってくるかもしれない。
それに初めこそ混乱して頬を叩いてしまったが、ジーク様は実に私好みの精悍で年齢相応の渋さが加わってきたくらいの年上男性。……このまま彼と結婚してしまうのは、悪くない手だと思った。
「そう……ですね。わたし──っ、クチュンッ!」
「ティアーナ、大丈夫か? あぁ、こんな格好だから寒いのか。この屋敷には生憎女性用のドレスは無くて……下着なら用意していたのだが」
ジーク様は、小さなくしゃみを一つした私を心配しつつ「少し待っていてくれ」と言い残して、部屋から出る。その瞬間カチャリと音がしたので、見た目上分かりにくくしてあるだけで、ドアにはやはり鍵がかかっていたようだ。
(……何か服を持ってきてくれるのかな?)
そんな事を考えながら私は、飲み終わったお茶のカップをテーブルに置くために立ち上がる。カップをテーブルの上に置いて部屋の中を見渡すと、一枚の姿見があった。腰下まである紫の長い髪に、同じ色の瞳。まるでお人形が歩いているかのようで、自分の姿なのに若干の気持ち悪さを感じる。
(自分の姿なのに気持ち悪いだなんて、変なの)
私は抱いた違和感に疑問を感じて……首を傾げた。
「あれ? なんだか、年齢がおかしくないかしら……?」
ジーク様は見るからに年上の男性だ。鏡に映った私の外見年齢を考えても間違いないし、私の自覚年齢は二十三歳。
しかしジーク様は先ほど「魔王戦の時は十九歳だった」と発言していたし、私が年上とも言っていた。……つまり、ジーク様の外見から考えれば。魔王戦から現在までは十年以上経っている計算になるのに、私のこの外見は明らかにおかしい。
しかも私は、気がついた時には既にこの部屋でひらひらの薄いネグリジェ一枚だった。なのに「私が着てきたはずの服が無い」のはどうしてなのだろう? 汚れて洗濯してくれているのだとしても、「下着は用意していたがドレスは用意していなかった」なんて状況、おかしくないだろうか?
顔からサッと血の気が引いていくのを感じた。私……もしかすると、都合よく騙されているかもしれない。
慌てて先ほどジーク様が出ていったドアに走り寄る。今度は鍵がかかっておらず、廊下へと続くドアは簡単に開いた。
(どうしよう……逃げた方がいいのかしら?)
といってもどこへ逃げればいいのかもよく分からない。しかし、このままあの人を信じていいのかも分からない。
そんな気持ちのまま私は廊下へと、一歩足を踏み出した。
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