屑と暴君(後編)





 東京都を管轄する警察組織、警視庁。

エレベーターの前で待っていた田城は、刑事になってから初めて、下層行きのボタンを押した。

 周りの視線が煩く、ヒソヒソと小声で噂されているのが分かったが、屑なだけあり田城は強い男だった。全く気にする様子もなくエレベーターに乗る姿は、さながら戦に赴く武士の如く、背筋を伸ばしていた。


 

 地下の3階でエレベーターのドアが開いた。目の前には美しい女性が百合のように佇んでいる。その女性が由羅だと分かった田城は、まるで犬のように駆け寄る。そんな田城の姿を見て由羅はふんわりと、花のように笑った。


 

「田城様、お待ちしておりました」

「由羅さん!」


 

 鼻の下を伸ばしながら由羅の胸元に目がいく田城は、まさしく戦の真っ最中だった。



 それは由羅と約束した[優秀な成績]に関係していた。


 

「戀川様の相棒となり、大きな事件を1つ解決すること…忘れていませんよね?」

「勿論です!見事こなして見せましょう!」


 

 田城は第8係の黒い噂も、戀川水仙の悪い噂も、頭の角の更に遥か彼方に消えていた。田城は完全に性……恋の奴隷であった。


 

「ふふ、頼もしい限りですわ。早速行きましょうか」

「はい!いやあ、楽しみですね!」


 

 田城はまるで羽が生えたような足取りで、由羅の後を追う。ダンボールがあちこち廊下に置かれている事など気にせず歩いていると、奥のドアから男女が揉めている声が聞こえた。仲裁に入った方が良いかと進もうとするが、田城は後ろからスーツの裾を引っ張られた。


 

「彼方は大丈夫ですので、此方の部屋にお入りください」


 

 ドアを開き、部屋に入るよう促す由羅に僅かな疑問を抱くも、それ以上にやはり、面倒なことに関わりたくないという気持ちが強かった。

 田城はいまだに揉めている男女の声に耳を塞ぎ、部屋に入った。


 部屋はホワイトボードと机、椅子のみの質素な会議室だった。適当な椅子に座るよう由羅が促す、田城はとりあえず真ん中の椅子に座った。

 すると、由羅はわざわざ田城の隣に座る。少し大きめの太ももが、椅子に座ることによって、よりムチムチに見える。ほぼストッキングのような薄いタイツから見えるそれに、田城は思わず凝視した。言わずもがな、田城は何処に出しても恥ずかしい変態だった。

 


「では今から、必要書類を書いていただきますね」

「あ、はい!」


 

 必要書類って何だ?と思ったが、それ以上に由羅の行動に目がいってしまう。書類についての説明をしながら、何故かYシャツのボタンをゆっくり、外している。


 

「田城様、聞いておりますの?」

「はい!勿論!」

「ちゃんと聞いてて下さいませ、大事なお話ですのよ?」

「はい!勿論!」


 

 大事な話なら、その破廉恥極まりない行動の意味を田城は問いたかった。だが、それ以上にもっと見たかった。由羅がシャツの第二ボタンまで外したら、今度は黒のレースを見せつけてくる。


 

「……説明は以上です。何か質問などはございますか?」


 

 どうやら、自分が黒のレースの更にその奥にある、見えそうで見えない至宝へ夢中になっている内に、説明は終わっていたらしい。由羅は「では、ここにサインを」と書類を田城に近付ける。

 これは何のサインだ?と頭にクエスチョンマークが降り立ったが、まるでせかすように、由羅が田城の腕に絡みつく。そして、主張の激しい乳房を押し付けてきた。


 田城の思考はショート寸前だった。


 とりあえず目の前にある書類に手を付けなければと、震える手でサインしていく。


 

 書類のサインを何とか終わらせると、由羅はにっこりと田城の手にある書類を回収しようとする。


 しかし、突如、大きな物音が田城たちを襲った。

田城は物音の方へ身体を向ける。すると、会議室のドアを乱暴に開けた若い男が、まるで化物から逃げてきたかのような顔をし、尻餅をついていた。


 

 ーもしや、痴話喧嘩の末に女が包丁でも持って、追いかけているのか?


 

 そんな昼ドラみたいな事が警視庁で起きてるとは思わないが、田城は由羅を庇いながら、ドアの向こうにいる人物を警戒する。


 

 しかし、現れたのは包丁を持った女でも、ましてや化物でもなかった。トイプードルみたいなふわふわした長い髪を靡かせ、オオカミを彷彿させるような顔立ち。いかにもネオン街でヒールを鳴らしながら歩く、キツめ美人の典型例のような女が、そこに居た。



「…お話し合いの最中に、逃げてんじゃねえよ」



 そう言いながら、女は若い男にゆっくりと近付いていく。それに対し若い男は情けない悲鳴をあげながら、震える声で叫ぶ。


「あ、あ、あああんたの欲しい情報を渡しただろうが!?そ、それの一体何が悪い!?」


 若い男の唾が出るほどの叫び声に、田城は思わず顔を顰める。何があったかは知らないが、どうやら女と捜査する際に、何か不手際があったらしい。


 田城は若い男の左胸にある階級章を見る。どうやら巡査らしい。対して女は階級章を身に付けていなかったが、あの若い男の態度を見るに、恐らく巡査部長よりは上であることを予想する。


 

「それは、あたしが欲しい情報じゃねぇよ」

「え…い、いや、だって、あんたが言ったんだろ!?被害者の親族をあたれって……!!」


 

 男は近付いてきた女から逃れようと必死に逃げるが、等々、壁の隅にまで追いやられた。


 

 女は若い男を見下し、そしてー


 

 逃げ場のない若い男が縋った壁を、無情にも長い脚で、蹴り付けたのだ。


 

 若い男は何も言わなかった。否、何も言えなかった。

泡を吹きながら、失神していたからだ。その無様な姿に田城は酷く同情した。それと同時に、女の脚癖の悪さに引いていた。


 

 ……脚癖が悪い?


 

 どこかで聞いたことのあるフレーズに、思わず息を呑む。そして自分の中にあるパズルのピースが、1つずつ嵌められていく。


 

「やはり、あのお方も駄目でしたか」


 

 背後から由羅の溜息が聞こえた。田城はブリキの人形の様にギギギと首を捻りながら、背後にいる由羅へ尋ねる。


 

「あの女の人って、もしかして」

「もしかしなくても、戀川水仙様ですわ」

「ですよね〜」


 

 やはり、自分の推理は正しかった。田城は噂通りの暴虐君主の脚癖最悪な上司に、ストレスで思わず口角と瞼がひくつくのを感じた。


 

「けれど、仕方がありませんわ。誓約書を破ってしまったんですもの」


 

「残念ながら、あのお方はマグロ漁船行きですわ」と頬に手を当てながら、とんでもない事を言う由羅に、それはジョークであって欲しいと田城は切に願った。そして、ふと疑問に思った。


 

「誓約書?」


 

 田城が書いた誓約書は確か、制服についての誓約書だった。その誓約書も要約すると、制服はよく駄目になるから支給しないけど、代わりに制服手当をあげるよ、という前代未聞のものだったが。


 

「ええ、田城様にも、こちらにサインして頂きましたわ」

「…それ、制服についてのやつっすよね?」

「いいえ?これは、第8係に所属する際の誓約書ですわ。制服のこと以外も記載されております」


 

 自分の言い分と由羅の言い分の食い違い。書類関係のいざこざは、割とよくある話なのに、田城は何故か嫌な予感がした。そして、その予感はコンマ1秒で的中した。

 由羅が「あら私ったら、剥がすのを忘れていましたわ」と、誓約書の下方にあった謎の空欄を指で捲ると、紙がぺりぺりと綺麗に剥がれ落ちたのだ。

 そして、見えていなかった文面が顕になる。そこにはシンプルな文章が、つらつらと並べてあった。



 

・戀川水仙と捜査するにあたり、戀川の見えているものを信じ行動すること

 

・戀川水仙の命令は基本遵守すること

(例:戀川水仙が発砲せよ、と言ったら迷わず従うこと)

 

・戀川水仙が死亡した場合、必ず遺体を回収すること

遺体は刑事部裏殺人犯対策本部代表へと提出すること


・戀川水仙が刑事部殺人犯捜査第8係としての適性がないと判断した場合は、由羅四葉が提示した職業に再就職すること


・刑事部殺人犯捜査第8係で見たこと、聴いたこと、行った行為を第三者に公表しないこと

※上記を破った場合は、貴方と第三者の命の保障は出来ません



 

「なんすか、この日本国憲法に真正面から喧嘩売ってるような誓約書は」

「ふふ、ご安心くださいませ。ちゃんと、総理の押印もあるでしょう?」

「え?」



 たかだか、一警察官の誓約書に?

そんな馬鹿なと田城は誓約書を見る。書面の右下には現総理大臣の署名が記載されていた。



 田城は冷や汗を滝の様に流しながら由羅を見る。由羅は変わらず、花のように笑う。すると、誰かに肩をポンと叩かれた。誰かと言っても、この部屋には泡を吹き倒れている男を除けば3人のため、誰かは直ぐに分かった。


 

「よお、てめえが官房長官の娘に手を出した屑か?」

「そうよ〜、水仙ちゃんの新しい相棒♡」


 

 そう言って由羅は戀川に声を掛けている。仕事モードの雰囲気から一転し、まるで友人に話しかけるように、戀川と接している。それを見て、ああ、自分はこの美女2人に嵌められたのだと、田城は悟った。


 

「田城蓮也、ねぇ……じゃあ、しろだな」


 

 誓約書を手に取り、戀川は呟いた。犬のようなあだ名を命名された田城だが、口は縫い付けられたように動かせないでいる。誓約書の内容を見て、下手に話せないのだ。


 しかし無常にも、それは戀川の琴線に触れてしまう。

眉間に皺を寄せ、田城の肩にあった手に力を入れながら、顔を近付け、睨み付ける。


 

「あ?無視かよ」

「よ、よろしくお願いしますー!戀川先輩!!」

「……先輩ぃ?」

「大変失礼しました、戀川さん!詫びに何かするっす!

 何しましょーか?!」

「ああ?…コーヒー淹れろ」

「喜んでー!!!」

「あと、その泡吹いてるゴミをどうにかしろや」

「喜んでー!!!」


 

 しかし、戀川の一言で田城はすぐに口を開いた。

そうしなければ物理的か社会的にか、どちらにせよ首が飛ぶと脳内が警告したからだ。


 

 田城は生存能力が高い男だった。機嫌を損ねないように、既に戀川へ適応してる。戀川と会って、まだ数分も経っていないのにも関わらずだ。


 

 その光景を見て由羅は、やはりこの男は正解だと安堵する。きっと、水仙ちゃんとも上手くやっていける、そんな予感がした。



 

 屑と暴君は、こうして出会った。


 

 

そして、田城が刑事部殺人犯捜査第8係として働き始めてから1週間後、上層部から指令が下った。




 

《あさなわ町で怪死事件発生、直ちに捜査せよ》

《危険度:中の可能性あり、注意せよ》


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