第2話 謎の紅い女

 最悪なことになった。軽い気持ちから闇バイトに手を出したせいで、知らん地方の田舎道でゾンビに囲まれている。


 ゾンビに喰われた警察官。そして仲間を助けようとした巡査も、あっという間にゾンビに囲まれて見えなくなった。絶叫とともに、ゾンビの群れから血飛沫が上がっている。


「あ、あ……」


 夜道で完全に腰を抜かした俺は、尻餅をついたまま失禁していた。そりゃそうだろう。こんなおぞましい光景を見たら、誰だって漏らすに決まっている。


 恐ろしい「食事」を終えたゾンビが徐々にこちらを振り返る。うわ、死ぬ……!


 逃げようにも足がすくんで動かない。迫り来るゾンビ。どうする? どうすればいい?


 先頭のゾンビが目の前に来た。腐った顔。人間の面影など、どこにもない。おぞましい呻き声を上げながら倒れ込んだ俺に喰ってかかる。


 その時、風を切るような音がした。刹那、目の前まで迫っていたゾンビの首が飛ぶ。


「へ?」


 思わず間抜けな声を出しながら、飛んだ首が地面に落ちるのを眺めていた。ゾンビとはいえ、明らかに戦闘不能となっていた。一体何が……?


 俺の理解が追い付かない内に、目の前を信じられないスピードで紅い何かが通り過ぎていく。それは次々と迫り来るゾンビの首を刎ねていく。ゾンビはパニックに陥ることもなく、次々と戦闘不能へと陥っていく。


「なんだ? 何なんだ?」


 戸惑う俺をよそに、なおも紅い何かは高速で移動してゾンビの首を刎ね飛ばす。あっという間に数十体が戦闘不能になった。


「やっぱり。数が多過ぎるわね」


 言葉を発したことで、紅い何かが人間なのだと分かった。


 細い体つきの女を背後から見つめる。モデルのように長い手足で、イスラム教徒の紅いスカーフを思わせるフード付きの服をまとっていた。その長くヒラヒラした服はマントのように風で舞い、細い両腕には小太刀のようなものが握られている。


 ――なんだ君は?


 喉元まで出かかった質問が音声になることはない。あれだけ恐ろしいゾンビを次々と斬殺するのだから、ゾンビ以上に危険な存在であるのは間違いない。


 当の女性はこちらを一瞥すると、目の前の死者の行進へ向かって扇子らしきものを差し出した。何かをブツブツと呟いているが、お経とも違う何かを詠唱しているようだった。


鬼葬業火きそうごうか!」


 女が扇子を振ると、巨大な火の玉が中空に現れ、ゾンビの群れへと飛んでいく。火の玉がボーリングのストライクよろしく群れの中央を直撃すると、轟音とともに激しい爆発を起こした。


「うわあ!」


 あまりにも激しい爆発であったこともあり、軽く吹っ飛んだ俺はその場に伏せた。また漏らした。お前のせいだ、紅い女。


 凄まじい爆発音が鳴りやむと、恐る恐る顔を上げた。耳がジンジンする。


 この世の光景とは思えない光景。巨大な火の玉は周囲の木々を吹き飛ばし、焼け野原のようになった地面には苦しみのたうつゾンビの体が燃えていた。


 ここは地獄なのか? これは夢なのか? 理解が追い付かない。


 燃え上がる炎の前に女の背中が見える。細い胴体からモデル並みに長い脚が人の字に別れている。こんな華奢に見える女性が一瞬でゾンビたちを壊滅させたのかと思うと、なんだかタチの悪い3D映画でも見せられている気分になった。


 女が振り返った。黒いマスクで鼻から下が覆われているものの、かなり整った顔立ちであることは容易に想像出来た。燃えるような紅い瞳は、見ているだけで吸い込まれそうになる。


「あなたが、クズオ?」


「え? あ、ああ……」


 時間差で呼ばれていることに気が付いた。クズオは本名だ。漢字表記だと葛尾になるが、それをカタカナ表記にするといかにも偽名っぽくなるのでそのまま使っていた。


 どうせ本名バレしたところでダメージはない。俺に失うものなど何もないのだから。


 だが、彼女が俺の名前を知っているということは……?


「あんたが、依頼人の……」


「佐藤一郎よ――本名は、篠森しのもりレイ」


 目の前の超武闘派くノ一は裏稼業の仕事を依頼してきた人物だった。


「本名を名乗るなんて、ずいぶんと不用心なんだな」


 自分のことは棚に上げて言った。それぐらいの開き直りは息を吸うようにやっている。葛尾粕光くずお かすみつ35歳。俺だって伊達に長くクズをやっているわけじゃない。


「今まで色んな奴に出会ってきたけど、君みたいな女性に会ったのは初めてだよ」


 さっきまでウンコを漏らしていたのに、まるで大物風に驚いて見せる。


 こういう時は舐められてはいけない……と自分に言い聞かせる。


 だが、すぐにこの状況下で虚勢を張るような物言いしか出来ない自分が嫌になった。彼女の機嫌を損ねてみろ。俺なんてすぐに三枚おろしにされる。この女が本気を出したら、一秒の間に二桁以上の回数殺される自信があった。


 虚勢を張った上に自己嫌悪へと陥った俺には目もくれず、彼女は燃え盛る炎を見ながら答える。


「どうせ私の名はこの世界に存在しないから」


 その言葉の意味が分からなかった。


 この世界に彼女の名前が存在しないというのはどういうことだろう?


 やはり彼女は偽名を使っているのか?


 ゾンビといい、突如現れた極悪くノ一といい、情報過多で俺はキャパオーバーになっている。……って、そんなことはどうでもいい。


「た、た、助けてくれ!」


 女性に助けを求める。大の男が若い女性に助けを求めるのはどうなんだと思いつつも、そうも言っていられない現実があった。


「ええ、私もそのつもりで来たの」


 紅い女は棒手裏剣のようなものを取り出すと、慣れた手つきで投擲する。爆発と斬撃を免れたゾンビが額を打ち抜かれ、バタバタと倒れていった。


 強いなんてレベルじゃない。明らかに生き物として違う。そんなことを思った。


「行くわよ。道は私が案内する」


 呆気にとられる俺に構わず、レイは俺に車へと乗るよう促した。


 あれだけの爆発が起きた中で、車は無事に残っていた。火加減を調整したかは知らないが、それすらも計算してゾンビを焼き殺したようだ。


 ハンドルを握ると、慌ててキーを回して車を走らせる。こんな所に一秒でも長くいたくなかった。冗談じゃねえ。ゾンビに噛まれて死ぬとか、ホラー映画のモブキャラか!


 俺は車を走らせる。助手席には紅いローブをまとったくノ一。明らかに異様な客人を乗せて、俺は深夜の田舎道を飛ばした。

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