第26話 21 だいじなひと
初めてのお忍びから既に5日。
ベッドの上に体を起こしながら、メリッサが運んできてくれた朝食を呑気に食べている自分が存在していることに首を捻り続けている。
街からの帰り道、熱を出して倒れた私はクライブによって主治医であるアル爺の元へと運ばれたらしい。ぼんやりと覚えているけれど、今考えても不思議で仕方がない。
(私はあんなこと言ったのに)
どう考えても、私の立場ではアウトな発言だった自覚はある。
それなのにあのクライブが、どういうつもりで私に何もしなかったのか謎でしかない。それどころかご丁寧にアル爺の元にまで運ぶなんて、どういうつもりなのか。
あの時言われた誓いは、まさか本当に本当だったのかと脳裏を過る。
(いや、でも相手はあのクライブだから)
信用できるわけがない。
クライブを判断する基準はゲームの中の2年後のクライブだけど、人の根本的なところなんてそうそう変わらないと思う。やっぱり素直に信用は出来かねる。
ちなみに熱を出した原因は疲労と、その翌日に生理が来たことから、日本だったらPMSと月経困難症あたりの診断をされると思う。
これだけ精神的ストレスにさらされれば、生理不順にもなるしホルモンバランスも崩れるに決まっている。
不幸中の幸いは、街にいる時に生理が来なかったことだ。あの時に来ていたら終わっていたと考えるだけで身の毛がよだつ。これからは本当に気を引き締めて気をつけていかねばならない。
(クライブに突っかかったのも、生理前だったせいだろうな)
何度思い出しても後悔しかない。
(なんであんなこと言ってしまったんだろう)
やけに苛立って、言わなくてもいいことまで言ってしまった。我ながらなんて馬鹿なの。
納得なんてできなくても、あそこは笑って「ありがとう」と受け入れたふりをするべきだったのに。その方が後々どれだけ楽になったかわからない。
しかし言ってしまった言葉は口に戻らない。紙に書いた文字のように、消しゴムで消すこともできない。
今更遅いけれど、次にどんな顔してクライブに会えばいいかわからなくて途方に暮れている。運んでもらった手前、御礼をしないわけにもいかないのがネックだ。
いっそクライブを闇討ちしてしまいたい。後ろから頭を殴りつけて、記憶喪失とかにしてしまいたい。
どう考えてもその前に反撃されるから出来ないけれど。
「アルフェンルート様、こちらはシークヴァルド殿下からのお見舞いの品です」
うんうんと頭を悩ませていたところで、メリッサがデザートを手に戻ってきた。ガラス鉢いっぱいに入ったさくらんぼを笑顔で差し出してくる。
「兄様から?」
受け取って、つやつやと宝石のように輝くさくらんぼを見つめる。傷一つなく大ぶりなそれは一目で特級品だとわかる。
私が倒れたことは、当然クライブから報告されているとは思う。だから見舞いの品が来ること自体はわかる。
わかるけど、どうしてさくらんぼ?
今年はもしかしたら1度も食べられないかと思っていたそれが、目の前に山盛りにあることに驚きが隠せない。
(そういえば前にクライブにさくらんぼの話をしたから、それでわざわざ?)
しかしこんな上質なものをこれほどの量、短期間で手に入れるのは大変だったに違いない。私が前にいた世界と違って、ネット注文で即日届く便利な時代じゃない。
なんだか自分がものすごく気に掛けられていると思えて、嬉しいのを通り越して気恥ずかしい。
素直に喜ぶよりも慄いていると、メリッサに「こちらが一緒にお預かりしたカードです」と封筒を手渡された。受け取った封筒を開いて取り出したカードに目を走らせる。
『あまり無茶はしないように。
無理せずゆっくり休むといい。
さくらんぼは正当な報酬だから礼は不要だ。』
最後まで読んで、三行目で目を瞠った。
(報酬って、なんの?)
てっきりお忍びで街に出かけたお叱りとか、体調を気遣う内容かと思っていた。謎な文を寄越されて目を白黒させる。いったいなんの報酬なの。
考えたところでメッセージからは何も読み取れない。とにかく貰ってしまった以上、返せないので食べることに変わりはない。
「メリッサも一緒に食べよう」
とはいえちょっと怖いので、共犯者は欲しい。
隣に控えていたメリッサに声を掛ければ、驚いた顔をされる。
「よろしいのですか?」
「一人では食べきれないし、一緒に食べた方がおいしいでしょう」
おいで、と手招くとメリッサが嬉しそうに「失礼します」とベッドの脇に腰掛けた。遠慮をされる方が淋しいというのをちゃんとわかってくれていて、人目がなければメリッサはよく付き合ってくれる。
「思ったよりもずっと甘いんですね」
「もっと甘酸っぱいのを想像してたよ」
口に含むと自然と顔が綻ぶ。季節ごとにしか食べられない果物は贅沢だ。
おいしいものを食べて、うっかり気が緩んでしまっていたのだろう。
「そういえば、さくらんぼのへたを口の中で結べる人は、キスが上手な人なんだよ」
「……え?」
だからうっかり、本当にうっかり、これまでのアルフェンルートならば口にしない発言をしてしまっていた。
驚愕に目を見開いて、メリッサが食い入るように私を見る。失言だったと気づいた瞬間、顔が熱くなるのを感じた。
(待って、これってセクハラじゃない!?)
13歳の女の子相手に……いや、メリッサは私の数か月前に生まれているからもう14歳だけど、どっちにしろ今のはセクハラになるんじゃない?
これまで皇子として振る舞ってきた私が、いくらメリッサは私の本当の性別を知っているとはいえ、今のはとても際どい発言だったと思える。しかもメリッサとはそういう話なんて、今までしたこともなかった。それなのに。
「……そう、本に、書いてあったのだけど」
しどろもどろで付け加えるだけで精一杯だった。
勿論、そんなことは今まで読んだ本には書かれていない。前世で聞いたどうでもいい雑学のひとつだ。なんとなく思い出して、つい言ってしまっただけ。
「そうなのですね。試してみましょうか」
けれどメリッサは疑問には思わなかったらしい。
そんなはしたないことを言うなんて、と咎めるでもなく、さくらんぼのへたを躊躇いもなく口の中に放り込む。そしてもごもごと口の中で動かして、しばらくしてから取り出した。
「意外に難しいのですね」
「結べてるだけすごいと思うよ」
眉を顰めていたけれど、端がなんとかぎりぎりひっかかって輪の形になっている。すごい。
というか、こんなことに付き合ってくれたことに感動している。
「アルフェンルート様も挑戦されてみたらいかがですか?」
「いいの?」
「私しかいませんから」
悪戯を仕掛ける子供みたいか顔をして、メリッサが肩を竦めた。
こういう時、こちらとの距離を感じさせないでくれるメリッサの存在に救われていると感じる。
……結局、さくらんぼのへたは結べなかったのだけど。だよね。アラサーまで生きた前世でも何度やっても駄目だったのに、そうそう舌の動きが発達するわけもなかった。
(できても私の場合、誰かとキスする状況になることもないだろうし)
そもそも女の子とすることになるのか、男性とすることになるのか、それすら全く予想もつかない。どころかキス一つしないまま人生を終える可能性だってある。
そこまで考えて、怖くなったのでその思考は放棄した。
それよりさくらんぼの御礼はいらないと書かれていたけれど、そういうわけにもいかない。また何かお返しするものを考えなくてはならない……。
「あ。そういえばメリッサ。私が街に着ていった服のポケットに紙袋が入っていなかった?」
「はい、ございました。机の上に置いておきましたが、お持ちしましょうか?」
「うん。お願い」
色々あって寝込んでいてせいですっかり忘れていたけれど、メリッサにお土産を買っていたのだった。
セインにもお返しをしておかなければならない。リボンとメリッサのお土産を買ってもらったのに、何もしていなかった。
というか、寝込んでからセインの姿を見ていない。今更気づくのもどうかと思うけど、一昨日までは熱に魘されていたし、昨日までは起きられないほどの生理痛に悩まされていたのだ。
生理中には会わないので気にしていなかったけど、あれ以来姿を見ていないのはかなり気になる。
(責任を感じて合わせる顔がない、ってところかな)
そんなことを考えているうちに、メリッサが袋を持って戻ってくる。
「こちらですか?」
「そう、ありがとう。それはメリッサへのお土産なんだ」
手渡そうとしてくるので、微笑んでそのままメリッサの手の中に包ませる。
「せっかく街に行ったから。たいしたものではないのだけど、よかったら受け取ってほしい」
「ありがとうございます……!」
驚いた顔をして、すぐにメリッサが破顔する。ぎゅっと大事にそうに手に包まれた。そんな風に喜んでくれることが嬉しい。
「とはいっても、買ってくれたのはセインなのだけどね」
「え……?」
しかしそこまで言ったら、メリッサの顔が見るからに強張った。嬉しいと示されていたのが、一瞬で石のように固まって能面みたくなる。
「選んだのは、私なのだけど。街に行くと知らなくて、お金を用意していなかったから」
打って変わった態度に狼狽えて、咄嗟に付け加える。するとメリッサは笑おうとして、しかし失敗して引き攣った複雑な表情になった。
たぶん、私が選んで贈ったこと自体は嬉しいのだけど、買ったのがセインということが気に食わないと見える。
(でもここまであからさまな顔をするなんて)
メリッサは元々、セインを好きではない。
というより、警戒している。エインズワース公爵の息が掛かっていると考えて、初めて会った時からずっと厚い壁を作って警戒していた。
確かに髪色は違えど、私とよく似た顔の人間が現れたら、色々なことを想像するだろう。そしてメリッサはきっとその中で最悪と思われる事態を想定して、警戒している。
「……アルフェンルート様は、あの方を信用しているのですか」
ぎゅっと袋を握りしめ、メリッサは今までずっと秘めてきたであろう疑問を口にした。
可愛らしい外見からは想像できない意志の強さを示す大きな榛色の瞳が、睨む強さで私を見据える。
「アルフェンルート様を守り切れず、こんな目に遭わせたのに……っ」
「私が倒れたのは、私の不摂生のせいだよ?」
「だからって、どうしてランス卿に連れられて帰られるようなことになったのですか。セイン様は一体何をしていたのです!」
それに関しては、返す言葉もない。ただよりによって相手がクライブだったということで、本当に運がなかったというか、相手が悪かったとしか言いようがない。
勿論、セインの立場ではそれは言えない。言い訳にもならない。
「私はあの方が信用できません。もしかしたらあの方は、いつかアルフェンルート様をっ」
「メリッサ」
伸ばした指先で、メリッサの唇に触れる。
それ以上は、だめ。
そう口にする代わりに、名前を呼んで言葉を遮る。
(セインはいつか私に成り代わるつもりだと、言いたいのでしょう)
わかってる。私だって考えなかったわけじゃない。
むしろ最初にセインに出会ったときに、そう考えた。
髪色なんてどうとでもなる。入れ替わってしまえば、すべてが丸く収まるのだと。いっそそれが一番いい手段なのかもしれないと、そう思ったこともある。
そしてある意味それは、私の逃げ道でもあった。それでも選べなかったのだ。
「セインの性格上、それはないと思うんだ」
理由は、これに尽きる。
セインの意志を無視して無理矢理押し付けられた状況と、本人の性格を考えれば、この厄介な役割を押し付けることを良しとは出来なかった。
そんな理由で? と思われるかもしれないけど、案外これは侮れない理由だ。
「勿論、本人の意思とは関係ないところで、どうにもできないことはあるだろうけれど。だけどもし本当にそうなった場合、間違いなくセインは逃げ出すと思うよ」
「逃げ出す、ですか?」
ありえないことを聞いたとばかりに愕然とするメリッサに、馬鹿みたいな理由だとは思いながらも頷いてみせる。
「セインはこの堅苦しい世界がとても嫌いだから。少なくとも自ら進んでどうこうなりたいと思ってるとは考えられない。祭り上げられたところで、逃げ出して終わりでしょう。それでは本末転倒になる」
エインズワース公爵はきっと、数代前に歪められた王位を、本来ならば正当な王の血筋の自分達の手に取り返したい。
しかしセインを王に据えたところで、その性格上、即座に王冠など投げ捨てて王位を放棄することが目に見えている。
ましてや嫌々祭り上げられた結果となれば、今までの復讐もかねてエインズワース公爵の計画を根本からひっくり返しかねない。
今のセインに逃げ出す力などなくとも、お飾りとはいえ王ともなれば、ある程度の力を得ることは出来る。逃げ出すことが不可能とは言えない。元々スラム街育ちであるし、市井に降りても逞しく生きていけるだろう。
そしてもしそんな反抗的なセインを薬でいいように操ろうとしても、傍から見れば明らかな愚王など誰もがすぐに見限る。民はそこまで愚かではない。ましてや現在の王家を簒奪した相手がお飾りの王では、すぐに奪い返される。
だからこそ私がセインに強くなってほしいのも、もしもの時に逃げ出すことが出来るようにだ。勝てとは言っていない。ただ逃げられればいい。それがセインの未来を守る保険になる。
そしてそんなにすぐに逃げ出されては、セインを王に据える意味がない。それぐらい、エインズワース公爵だってわかっているだろう。
だから、私に成り代わるのは、あくまでも最後の手段と考えた方がいい。
それならば私にも同じことが言えると思うかもしれないけれど、少なくとも私の場合は王位を投げ出して逃げることは出来ない。
自分が存在したことで起こった混乱を、見て見ぬふりは出来ないだろう。自分の性格上、それぐらいの責任感は持っていると自負している。
お飾りの王にしかなれなくても、少なくともただ操られるだけでいるつもりはない。勿論、今でも王など出来る気はしないし、絶対に無理だと思う気持ちもある。けれどだからといって、いざというときに何もしないわけではない。出来る限りの手は尽くす。
それが王族として生まれた者の意地と誇りだ。
きっとそうとわかっているからこそ、エインズワース公爵は私を手放さない。
とはいっても王などやりとおせるとは思えないし、女の身で不可能に近いこともわかっている。
その最悪ルートだけは全力で回避したいわけだけど。
「メリッサがセインを信用できないなら、それでもいい。無理強いはしない。ただ私は、セインを信用したい」
本当は、セイン一人だけなら今でも逃げ出すことが出来るんじゃないかって気がしている。
セインが自分を取り巻くこの環境が本当に嫌なことぐらい、見ていればわかる。それでも尚ここに留まっているのは、きっと自惚れではなく私達を心配してくれているから。
私と、そしてメリッサのことも。
甘い考えかもしれない。ただの自分のそうであってほしい希望を口にしているだけかもしれない。
それでも。
「それに疑うよりも、味方だって思ってる方がずっと幸せだから」
単純に、それだけのことなんだけどね。
苦く笑って言えば、メリッサが泣きそうな顔になって私の手を取った。強く強く、握り締める。
「それでも私は、まだ信用できません」
「うん」
「疑わないあなたの代わりに、これからも疑うと思います」
「うん。ごめん」
「……だけどアルフェンルート様のそのお気持ちを、否定したいわけではないのです。それだけは、忘れないでください」
それがメリッサの最大限の譲歩だと、わかった。嫌な役回りをさせてしまっていると思う。
「うん。ありがとう」
だからせめてもの、私も返せるだけの感謝の気持ちを笑顔に込めて応える。
頼れる私の姉。優しい私の友人。私は貴方の重荷にしかなれない、情けない主人だけど。
「私はそんなあなたが大好きだよ、メリッサ」
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