第25話 幕間 さよなら、私のおうじさま

※メリッサ視点




 ――たいてい誰もが一度はお伽話の中の皇子様に夢を見る。私だって、そうだった。



 寝室へと続く扉をノックをしてから声を掛ける。すぐに中から返事が聞こえてきたのを確認してから、扉を開いて足を踏み入れた。きっちりと扉を閉めてから、ベッドの上に半身を起こしている主人へと歩み寄った。


「アルフェンルート様、ご朝食をお持ちしました。お加減はいかがですか?」

「ありがとう、メリッサ。随分楽になったよ」


 昨日まではベッドから出られないほど苦痛に顔を顰めさせていた。今日は笑顔を向けてくれる。

 顔色はまだ悪いものの、様子を伺った限りでは随分と回復に向かっているようだ。生理痛は日にち薬だとわかっていたけど、ホッと胸を撫で下ろした。


「先生からはお薬を貰っていますけど、飲まれますか?」

「もう大丈夫そうだからいいよ。熱まで出るなんて、こんなに重いとは思わなかった」


 アルフェンルート様が倒れられてから早5日、月のものが降りられたこともあり、侍従であるセイン・エインズワースには入室禁止を言い渡してある。

 個人的には入室を禁じている理由はそれだけではないけれど、今のところあの男は大人しく従っている。

 その為、いま部屋には私と二人だけの状態である。アルフェンルート様は気を抜いて愚痴を零された。


「近頃は気忙しくされていましたから。元々お体の方にも負担がきていらっしゃったのではないかと先生は言っていましたけど」

「そうだね。これだけ色々重なれば仕方ないか」


 食事の用意をする私の傍らで、アルフェンルート様が「予定日はもう少し後だったのに……ホルモンバランスが崩れてるのかな」と小さく独り言を呟かれる。

 時折よくわからない単語をお使いになる。私とは知識量が違うこの方のことだから、きっと何かしら思い当たる節でもあるのだろう。それに関しては聞き返すことなく流しておく。

 それにしても、本当に大事にならなくてよかった。

 この方が今までと変わらず自分の前に存在していることに、心から安堵の息が漏れる。


(本っ当に、あの男は役に立たない……!)


 そして思い返す度に、腸が煮えくり返りそうになる。

 つい先日、アルフェンルート様は侍従のセインに連れられて初めてお忍びで街へと降りられた。

 事前に主治医と私には、彼から街に行くと聞かされてはいた。護衛が奴一人ということに不安しかなかったけれど、アルフェンルート様のお気持ちを考えて渋々頷いたのだ。

 一時期は本当に生きるおつもりがないのではないかと思えたアルフェンルート様が、外に興味を示してくれた。

 せっかく生きることに意識を向けてくれたことが嬉しくて、そう望まれるのならば叶えて差し上げたいと思ったのだ。

 それに城から数刻で往復できる距離の城下街なら、私も何度か一人で行ったことがある。人で賑わう大通り、それも昼間であればそれぐらい治安は悪くない。警備兵も多い。

 だからこそ、大丈夫だろうと反対もしなかった。

 本当はもっと私が強ければ、私がお連れしたかった。でもいくら治安が良いとはいっても、万が一何か起こった時に私では守れない。

 そう思ったからこそ、多少はマシな人間に仕方なくその役を譲ったのだ。一抹の不安はあれど、スラットリー老にも許可を得ていたからこそ下手は打たないと思った。

 それなのに。

 まさか熱を出して倒れられた挙句、第一皇子シークヴァルド殿下の近衛騎士であるクライブ・ランスによって主治医の元に運び込まれたと聞いた時には、全身が凍り付いた。

 なぜアルフェンルート様の敵の代表みたいな人が、アルフェンルート様をお連れするなどという状況に陥っているのか。

 なかなか帰っていらっしゃらないアルフェンルート様を心配していたところ、主治医から呼び出されて心臓が竦んだ。熱を出して苦しんでいるお姿を見た時は息苦しくなった。

 どうしてこんなことになっているの。私はこの方が少しでも羽を伸ばして来られることを願っていただけなのに。なぜこんな状態になって戻ってくるの。

 むしろ、こうして戻ってきてもらえたこと自体が奇跡に思えた。

 元々セイン・エインズワースは侍従という役割を与えられていて、護衛が主ではない。けれどそれにしたって、どうしてこんなことになってしまったのか。脳内で何度胸倉を掴んで問い詰めたかわからない。

 しかし実際には、口すら聞きたくもなくて部屋から叩き出した。

 最低限の仕事一つまともに出来ない相手の言い訳なんて、聞くだけ時間の無駄にしかならない。


「メリッサ? 心配かけてごめん」


 二人きりの状況に私も気が緩んでしまったのか、険しい顔をしてしまっていたようだ。

 不意にアルフェンルート様に覗き込まれた。もう何度目かわからない謝罪と、申し訳なさそうに眉尻を下げた情けない顔をさせてしまった。慌てて首を横に振る。


「とんでもありません。アルフェンルート様の傍でこうして心配できることが、私の特権なのですから」

「特権っていうのかな、それは」

「特権ですとも。アルフェンルート様付きになりたい侍女は多いのですよ」

「私はメリッサひとりで十分すぎるのだけど……メリッサには負担をかけてしまって申し訳ないけれど」


 笑顔で言った私に対し、アルフェンルート様は肩にかかる金髪をさらりと揺らし、困ったように微笑む。

 結んでいる髪を下ろしているだけで、いつもの少年めいた姿が遠のく。今は本来の少女らしさを強く感じさせる。寝間着の白いシャツに肩掛けを羽織っただけの姿が、いつもより華奢に見せているせいもある。

 この方は私が気づいた時にはもう、一人で着替えも入浴もされるようになっていた。たぶん体を見られたくないのだと薄々感じていたから、こういう時でもなければ寝室には立ち入らないようにしている。

 こうして改めて見ると、本当にこの方は皇子ではなく皇女なのだと思い知らされる。

 そんなこと、誰よりもわかりきっていたことだけれど。


「負担になんて思っていません。それに、アルフェンルート様にはそれ以上にたくさんのものをいただいていますから」


 微笑んで言えば、アルフェンルート様は何のことかわからないと言いたげに困惑した表情を見せた。私はそれにただ微笑みを返す。

 口にするつもりはないけれど、私はあなたにたくさんの夢を見せてもらっていたのです。


(私の皇子様)


 女の子なら、たいてい誰もが一度はお伽話の中の皇子様に夢を見る。そして自分がその相手のお姫様になることを夢に見る。

 だけど実際は、お姫様になんてなれやしない。夢は所詮、夢で終わる。現実になることなく、淡い憧れで終わる。


 ――だけど、私は違った。


 この方の特異な生まれから、私はこの方のお姫様になれた。

 性別を偽っているという事情から、あまり周りに人を置けないアルフェンルート様の傍に、乳姉妹である私は生まれて間もない頃からいられた。

 子供の頃は、この方が本当は女の子であるということをよくわかっていなかった。小さい頃はお互いの性別なんてあまり拘らない。ただ服装から、男の子なんだろうとぼんやり思っていただけだ。

 そんなある日、アルフェンルート様が私の着ていた服を見て「私もメリッサみたいな服が着たい」と口にした。

 その時に乳母である母は泣き崩れて、何度も何度も謝罪を口にしながらアルフェンルート様を諭した。

 まだ話がわかるかわからないかという年齢の子供相手に、貴方にドレスを着せて差し上げるわけにはいかないのだと、涙ながらに鬼気迫る様子で言い聞かせた。


『貴方がドレスを纏うということは、貴方の死を意味するのです』

『どうか二度とそんなことを口になさらないでくださいませ』


 傍で見ていた私は、普段は気丈な母の尋常ではない態度に戦慄した。あの時のことは、今でもはっきり思い出せるぐらい脳裏に焼き付いている。

 言われたアルフェンルート様にとっては、もっと忘れられない記憶になっていると思う。あれ以来、一度もドレスを着たいと言っているのを聞いたことはない。

 年齢を重ねるにつれ、アルフェンルート様も私も徐々に置かれた状況を理解していった。母の言葉の重さも、嫌というほど理解した。

 そして誰に言われるまでもなく、アルフェンルート様は皇子としての立ち居振る舞いをされるようになっていった。

 主治医の配慮で体が弱いことにして、剣術や武術からは遠ざけられていたけれど、服装は勿論、口調も少年らしく。挨拶の仕方も、ダンスだって男性として習った。

 私はそんなアルフェンルート様を、ずっと傍で見てきた。そして必死に皇子らしくあろうとするあの方の練習相手は、いつも私だった。


『メリッサ。ダンスの練習の相手をしてくれる?』


 似た年頃の子供は私しかいない。いつも付き合わせてごめんと言わんばかりに少し眉尻を下げて、それでいて甘えるように小首を傾げて窺われる。

 生まれた時から後宮で侍女見習いとして育った私は、上流階層と使用人との格差をよく理解していた。上に立つ人間の中には、使用人を人とも思わない態度を取る者も少なくない。

 そんな中、この方はいつだって私と同じ目線に立ってくれた。私のことを気遣ってくれるし、やってもらったことにちゃんとお礼を言ってくれる。同じ人間として接してくれる。

 私はそんなこの方が本当に大好きだった。だから迷うことなく、いつだって差し出された手を喜んで取った。


『もちろんですとも。私でよろしければ』


 頷くと、嬉しそうに微笑まれる。その笑顔が大好きだった。

 練習とはいえ、自分がこの方の相手を務められることが嬉しかった。

 この方が女の子だとは知っている。だけど、アルフェンルート様の態度を見ていると、本当に皇子様にしか見えなくなることがよくあった。性別のわかりにくい子供の頃なんて、特に。

 事情故に、侍女は増やせない。だからいつしか、私はアルフェンルート様を独り占めしている形になっていた。

 そうしてその内、自分はこの方のお姫様のようだと錯覚をした。

 性別をわかっていても尚、ほんの一時、この方は私だけの王子様だという夢を見た。

 向けられる微笑みも。気遣う優しい声も。壊れ物のように扱ってくれる手も。

 全部が私だけの特別だった。

 そんな夢のような時間を、たくさんもらった。

 誰もが憧れる王子様の、特別な人の役。人生において、いったいどれだけの人間が大好きな人のお姫様になれるんだろう。


 多分これは、初恋だった。


 それでも、夢の時間はいつしか終わりがくる。

 数か月誕生日の早い私が10歳、アルフェンルート様は9歳の頃に乳母である母が後宮から去ることになった。そして入れ替わる形で、エインズワース公爵家から公爵子息であるセイン・エインズワースが侍従としてやってきた。

 娼婦の子だとか、スラム街育ちだとか、そんなことよりも、その顔を見て息を呑んだ。

 髪の色は違えど、アルフェンルート様に本当によく似ていたから。

 影武者として使えるという触れ込みだった。

 髪の色は染料で変えられるから、本当は女の子であるアルフェンルート様の体のことを考えれば、いざというときに多少の入れ替わりが出来る人間がいるのは助かる。

 だけど本当にそれだけなのか、という疑いが拭えなかった。


(だってわざわざ影武者なんて立てるよりも、本当に入れ替えてしまった方が、簡単じゃないの)


 アルフェンルート様は秘密を守るために人とは極力関わらず、城内ですらあまり出歩かれない。家族である王や妃殿下、異母兄の第一皇子とすら、年に1、2度挨拶を交わすだけ。

 誰もアルフェンルート様をちゃんと覚えているとは思えない。入れ替わったって、誰も気づかないかもしれない。気づいたとしても、エインズワース公爵家の力をもってすれば、ねじ伏せることだって出来てしまうだろう。

 そして入れ替わった後、セインという人間が消えても誰も困らない。

 公爵子息という立場ではあるけれど、エインズワース公爵には既に子供が二人、世継ぎである長男と妃殿下である長女がいる。娼婦の母を持つスラム街育ちの子供なんて、いなくなっても誰も困らない。きっと探さない。

 そう考えて、ゾッとした。

 考えれば考えるほど、やってきたセイン・エインズワースという人間は信用できなかった。


 この男は、アルフェンルート様に成り代わるつもりで遣わされたに違いない。


 そうとしか思えなかった。

 そして私だけでなく母も、険しい顔をして私にそう示唆していた。

 ただ乳母というものは、その立場を利用して王族に付け入って利用することが出来ないよう、主人が十歳を過ぎたらお仕え出来ないことは最初から決まっていた。

 だからアルフェンルート様の元には、たいして力のない私しか残ることが出来ない。

 それでも最初はいくら何でも、アルフェンルート様を大事にしているように見えたエインズワース公爵が、入れ替えた後で孫を弑するまではいかないだろうと思っていた。

 そんな私に、母は重い秘密を授けていった。

 アルフェンルート様にお仕えする以上は、知っておくべきことであると。



 ――エインズワース公爵家の娘であり、第二王妃であるアルフェンルート様の母君であるエルフェリア様。

 この方は王妃になる前、愛する婚約者がいた。


 そう、正式に婚約していたのだ。

 相手はエルフェリア様の兄の親友である、伯爵子息。公爵家の娘が嫁ぐには少し身分が低いとはいえ、相手は近衛騎士になる予定で将来有望。容姿も性格も申し分ない。

 エインズワース公爵家は元々王すら脅かしかねない権力があったので、あえて他家との繋ぎを作る政略結婚も必要なく、その婚約は歓迎されていた。

 相手が正式に近衛騎士になったら結婚する予定になっていた。

 しかしその矢先に、第一王妃が第一皇子を生んですぐに身罷られてしまった。

 そこでエインズワース公爵は、娘を王妃に、という欲が擡げたらしい。

 元々そういう欲はあったのだろうが、それまでは公爵夫人が抑えていたのだという。けれど運悪く、第一王妃が亡くなられる少し前に公爵夫人も亡くなっていた。

 とはいえエルフェリア様もその兄であるオーウェン様も、第二王妃になることを大反対したらしい。

 王の第一王妃への寵愛は誰の目にも明らかだったし、第一皇子は生まれたのだから二番目の妻など必要ない。

 公爵も最初は納得したという。エルフェリア様たちは正式に婚約も交わしており、結婚も間近。何より二人は愛し合っていて、誰もが祝福する間柄だった。


 けれど、悲劇は起こる。

 ……いや、起こされたというべきか。


 エルフェリア様の婚約者が、訓練中に両目を潰されたのだ。それだけでなく、片腕までもが使えなくなるという不運に見舞われた。

 勿論、故意ではなく事故ということになっている。

 しかし訓練相手はすぐに除籍されて、その後どこにいったかもわからない。生きているか、死んでいるかすら不明。

 それはどう考えても、仕組まれて起こったとしか思えないものだった。

 そしてそんな状態となった婚約者は、騎士を続けられるどころか普通の生活すら難しい。エルフェリア様との婚約は破談となった。


 エルフェリア様は、それが父親の指図だとすぐに気づかれてしまった。


 自分が我儘を言ったせいで、愛する人をそんな目に遭わせてしまった。そう自分を責めて心を病まれた。

 それでも婚約者を支えたいエルフェリア様だったが、そんなことを言おうものなら今度は彼の命すらも奪われかねない。激しい葛藤に板挟みになるエルフェリア様を想ってか、婚約者は表舞台から完全に姿を消した。

 何もできなかったエルフェリア様は自分を責め続けた。そしてその状態が改善されないまま、エインズワース公爵はエルフェリア様と王との婚姻を強引に進めてしまったのだ。

 ……だがせめて嫁がれた先で、王がエルフェリア様を愛してくださればよかった。

 しかし、王も最愛の妻を亡くしたばかり。かつ無理矢理押し付けられた上に、心を病まれていたエルフェリア様を愛せるはずもない。


 それでもなんとか授かったのが、アルフェンルート様だった。


 アルフェンルート様の出産時に、乳母となる母も立ち会っていたという。

 そしてアルフェンルート様が女の子だとわかった途端、元々壊れかけていたエルフェリア様は発狂された。

 せめて男の子だったら報われた。それなのに、生まれたのは女児。

 もう耐えられないと、完全に病んでしまわれた。


『あんなにもおやつれになって、狂ったように泣き叫ばれたエルフェリア様のお姿はとても見ていられなかった……』


 母はそうぽつりと零した。

 元々母は、結婚前からエルフェリア様の友人だった。男爵令嬢だった母がなぜ公爵令嬢であるエルフェリア様と友達だったのかと、不思議に思って聞いたことがある。

 貧乏貴族だった母は、移動の為に自分で馬を駆ることが出来た。それを知ったエルフェリア様から、お声をかけてもらったのだという。


『好きな方と一緒に遠乗りに出かけたいから、私に馬の乗り方を教えてほしいと仰られたの。内緒で特訓して驚かせたいと言って笑う顔がお可愛らしくて、公爵令嬢と言っても、この方も普通に恋をする女の子なんだって、そう思ったわ』


 そんなエルフェリア様を、実の娘であるにも関わらずエインズワース公爵はそこまで追い詰めたのだ。


『エインズワース公爵は壊れてしまわれたエルフェリア様を見て、アルフェンルート様を男児として育てると決められた。……でも本当はあの時、私はこの身を呈してでも反対すべきだった。今なら心からそう思うわ』


 苦渋に満ちた顔で、母はそう告白した。


 ――これが、アルフェンルート様が男児として育てられることになった真相だ。

 これはアルフェンルート様の耳に入らないように秘められてきた話だ。私も一生お伝えするつもりはない。



 しかし娘にすらそんな真似をするエインズワース公爵ならば、孫であるアルフェンルート様だって、その代わりが手に入れば邪魔に思えば簡単に処分してしまうかもしれない。

 エインズワース公爵は、元々王位には並々ならぬ執着があったらしい。

 そもそもエインズワース公爵家の成り立ちは、数代前の王が若くして王位を退き、弟に王位を譲って臣民に下ったことによって出来た家だ。

 その王が王位を退いた理由は私達には知る術もないが、公爵へと下る際に王都へと至る重要な街道を有する広大な土地を領地として得たことを考えれば、何かしらの取引はあったのだろう。エインズワース公爵家が絶大な権力を持つのも、当時その王を取り巻く環境が今も残っているせいもある。

 つまり元を辿れば、エインズワース公爵家は正当な王家の血筋だ。

 本来ならば自分こそが正しく王なのだという気持ちを捨てられないのかもしれない。だからこそアルフェンルート様を、最悪の場合、自分と血の繋がっているセイン・エインズワースを王にすることは、一族の悲願だと思っているのだろう。

 自分の娘を、孫を犠牲にしてでも、勝ち取りたいと望むほどに。


 そしてそんなエインズワース公爵から、王妃という立場となったエルフェリア様もアルフェンルート様を守ってはくださらない。


 ――たった1度だけ、エルフェリア様にお会いして直にお話しさせていただいたことがある。

 アルフェンルート様が初潮を迎えられた時に、万に一つの期待を持ってご報告に上がった時だ。

 13年も経てば、エルフェリア様のお心も当時よりは遥かに落ち着かれたと聞いていた。それでもアルフェンルート様に関して、エルフェリア様が関心を向けられることは一度もない。

 エルフェリア様のお心を考えれば、どうしようもないことだったのかもしれない。私などにはその心情は計り知れない。

 けれどご報告に上がった際、驚いたことにエルフェリア様は私を見て喜んでくださった。


『まあ、貴女はメアリーの娘ね? 会えて嬉しいわ。その瞳、とてもよく似ているのね』


 夢見る瞳で、少女のように無邪気に笑った。

 その姿を見て、彼女はまだ夢の中にいるのかもしれないと思った。そうしないと生きていられないのだと、そう思えた。

 それでも拒否されるどころか歓迎されたことで、僅かに希望が湧いた。もしかしたら、今ならアルフェンルート様の味方になってくださるかもしれない。


『ありがとうございます、妃殿下。こうして妃殿下に拝謁を賜り、身に余る光栄にございます。この度は、ご報告があって参りました』


 出来るだけ優雅に見えるように礼をする足が震えてしまうのが自分でも感じ取れた。けれど取り繕う余裕もない。

 逸る気持ちを必死に抑え、声を絞り出すのに怖い程の勇気がいった。


『アルフェンルート殿下に、月のものが降りられました』


 その先に賜る言葉を聞き逃すわけにはいかないのに、自分の耳にはドックンドックンとうるさく鳴り響く自分の心音だけがやけに大きく聞こえた。

 期待と不安に張り裂けそうな胸を抱え、緊張で血の気が引いていくのを感じながらエルフェリア様のお言葉を待った。


『……なにを、いっているの?』


 ――アレは、男の子でしょう?


 言外に、そう言われたように聞こえた。

 無礼だとわかっているのに弾かれたように顔を上げれば、柔らかく口端を吊り上げるエルフェリア様と目が合った。

 アルフェンルート様と同じ深い青い瞳。宝石みたいに美しいのに、そこに一切の輝きはない。微笑んでいるのに虚ろなそれは、まるで淀んだ闇を嵌め込んだかのようだった。

 そ見ていると心配になってくる夢見る瞳と違い、見つめられただけで背筋が震える。


(もしかして……この方は本当は、もう狂ってなんていないのかもしれない)


 その瞳の奥に見えたのは、紛れもない憎悪だった。

 アルフェンルート様に向けてなのか。それともエインズワース公爵に対してなのか。もしくはご自身そのものに対してなのか。それはわからない。

 きっとこの方は、エインズワース公爵家など滅んでしまえばいいと思っている。ご自身も含めて。

 どうしたってこのままではうまくいかないことなんて目に見えてわかっている。それでも、救うつもりはないのだと言われた気がした。突き放されて、突き落とされた心地だった。


 アルフェンルート様は、見捨てられたのだ。


 あの方は、ただここに生まれ落ちただけだというのに。それだけで憎まれて、利用されて、そして誰の助けも得られることなく切り捨てられてしまうかもしれない。

 それ以上、何も言えなかった。私ごときが何を言ったところで、エルフェリア様のお心を覆すことなんて出来ない。

 この方には頼れないのだ。元々そこまで期待をしていたわけでもなかったけれど、それが決定打になった瞬間だった。



 アルフェンルート様には、エルフェリア様にご報告したことは告げた。言わないわけにもいかない。


『…………妃殿下は、なんと?』

『アルフェンルート様には、恙なくお過ごしになられますように、とのことでした』


 血の気を失った青い顔で、憔悴しきった表情で問われて、本当のことなんてとても言えなかった。それでもアルフェンルート様は、察されたんだろう。


 自分が見捨てられた、ということを。


 それからのアルフェンルート様は、とても見ていられなかった。

 笑顔は消えて、私を気遣って無理に笑顔を作ってくださることはあったけれど、そこには痛々しさしか感じられなかった。食事もまともに取らず、毎日、死に向かって歩み進めているかのように見えた。部屋から一歩も出られなくなって、一晩中泣かれているのだろうことは赤くなった目を見ればすぐにわかった。

 そしてその内、泣くことすら諦めてしまわれた。人形のように虚ろな瞳でただぼんやりと過ごす。

 私は、何もできなかった。

 ただお傍で、少しでも気が紛れるようお茶を入れたり、好んで読まれていた本を差し出したり。そんなことしかできなかった。


 ――アルフェンルート様が第一皇子のシークヴァルド殿下を庇われて毒矢を受けたあの日も、そうだった。


『アルフェンルート様、庭のお花がとても綺麗ですよ。お天気もいいことですし、今日は庭でお茶にされませんか?』


 少しでも元気になってほしくて、そう声を掛けた。アルフェンルート様は躊躇われた。とてもそんな気分ではなかったのだろう。

 それでも私を気遣ってか、『そうだね。そうしようか』と頷いてくれた。


『ありがとう、メリッサ』


 お礼を言われて、泣きたくなった。

 こんな時でも、あなたは私を気遣われる。誰よりもお辛いのは、アルフェンルート様でしょう。

 きっと助けの手がないと知って、心配したのはまずは自分の命じゃなくて、周りにいる私達のその後の処遇だったはずだ。

 私にとってアルフェンルート様が大切な妹であり、友人であり、そしてかけがえないの主であるように。

 アルフェンルート様にとっても、きっと私は姉であり、友人であり、そして守るべき臣下だった。

 そんな優しい主を、守ってあげたかった。救ってあげたかった。私にもっと力があれば、一緒に連れて逃げてあげたかった。

 だけど私に出来たのは、寝室のテラスから降りられる中庭に連れ出してあげることだけ。


 そこでお茶を入れたところで、庭に一匹の猫が飛び込んできたのだ。

 城ではネズミ捕りの為に正式に飼っているわけではないが、何匹か猫を放っている。それはその内の1匹だったのだろう。

 喧嘩でもしたのか、その猫が怪我をしていることに気づいたアルフェンルート様は猫を追いかけた。元々、猫が大好きな方だ。放っておけなかったのだろう。

 私も一緒に追いかけたけれど、その猫は王と王妃、そして第一王位継承者しか入ってはいけない区域の庭へと飛び込んでいった。

 アルフェンルート様は暫し躊躇われた。それでも『すぐに戻ってくるから、メリッサはここで待っていて』と言い置いて追いかけていかれた。アルフェンルート様だけなら、見つかっても少し怒られる程度で済むと判断されたに違いない。

 それでもこのところのアルフェンルート様の体調にも心配があり、結局はすぐに追いかけた。

 なぜ自分も最初から一緒に行くと言わなかったのだろうと、あれほど後悔したことはない。

 追いかけた先で、アルフェンルート様は刺客に狙われていたシークヴァルド殿下の姿に気づいた。そしてその身を呈して庇い、毒矢を受けられたのだ。

 心臓が、凍り付くかと思った。

 悲鳴すら出なかった。咄嗟に自分でも驚くほどの力でアルフェンルート様を奪い返し、気丈に立たれるアルフェンルート様をお連れしてなんとか部屋に戻った。

 左肩に受けた傷自体は、大したことはない。いや、痕は残ってしまうだろうけれど、その傷そのものが致命傷になることはない。

 問題は毒矢であったことと、アルフェンルート様の元々少なかった体力が更に削られた状態であったこと。

 数日間、アルフェンルート様は生死の境を彷徨われた。

 あの期間は、本当に生きた心地がしなかった。

 でもアルフェンルート様は、本当はそこで死んでしまってもいいと、考えていたのかもしれない。自分が死んでしまえばすべてが丸く収まると、考えていたような気がする。

 だからこそ、あんな無茶をされたに違いない。

 それでも毒の量が僅かだったこと、元々毒に耐性を持たされていた体はなんとか一命を取り留めた。



 そしてお元気になられてからのアルフェンルート様は、変わられた。

 一度死ぬ思いをされて、生への執着が出てきたようだった。近頃では、なんとかして生き延びようと必死に足掻いておられるように見える。

 簡単にうまくいかないだろうことは、事情を知っている私は誰よりもわかっている。けれど諦めずに生きようとされるその姿を見られることが、今は嬉しくて仕方がない。

 急に馬に乗りたがったり、街に行きたがったりされたのも、その一環なのだと思う。多くを語る方ではないけれど、時折ぽつりぽつりと胸の内を零してくださるようになった。

 私はそれが何よりも嬉しかった。

 そうして変わったのは、アルフェンルート様だけではない。

 それまで敵だと認識されていたシークヴァルド殿下が、アルフェンルート様を気に掛けてくださるようになった。

 一命を取りとめたとはいえ、毒矢を受けて苦しまれている状態の時に見舞いと称して寝室まで強引に乗り込まれた時には、もう終わりかと思えたけれど。けれど苦痛と高熱に魘されるアルフェンルート様を気遣う姿は、ただの少し不器用な兄の姿に見えた。

 あれから毎日送られてきた花も、アルフェンルート様から少しだけ聞いたシークヴァルド殿下のお話も、もしかしたらあの方がこの方を救ってくださるかもしれないという期待が湧いた。

 アルフェンルート様は性別を偽っていることもあって、素直には喜べないようだ。浮かない顔をされていたけれど。


『……兄様は、まだいいのだけど』

 

 シークヴァルド殿下との内密な話し合い以来、図書室に行かれる度にやけに疲労して戻られるようになった。

 ただアルフェンルート様は私に心配させまいと、何があったのかはけして深く話されない。それでも胸の内を零されたいのか、比喩を混ぜてぽつりぽつりと語られる。


『私は犬がとても苦手かもしれない』

『確かに野犬は危険ですから、見かけてもお近づきにならない方がいいでしょうね』

『近づきたくはないけれど、懐かれてしまったように思えるというか。よく考えればいいことなのだろうけど、怖い』

『……怖いことをされたのですか?』

『大きい犬って、怖いでしょう。存在そのものが苦手かな』


 比喩表現をしているとはいえ、たぶん犬というのは、シークヴァルド殿下の近衛クライブ・ランス卿なのだろうと思う。

 心底困った顔で、自分に言い聞かせるようにぼやかれていた。

 こちらの質問は適当にはぐらかされてしまったけれど、こうして愚痴をこぼすこと自体が珍しいことである。きっと何かしらあって相当滅入っていらっしゃるのだとはわかった。

 とはいっても本人が濁して語られる以上、ここは当たり障りのない返事をしながらただ聞いてあげることしかできない。

 私が見ていないところでどんな危険に首を突っ込まれているのか、考えただけで心臓が竦みそうになる。でもアルフェンルート様が言わないのならば、聞いたところで私には何もしてあげられることがないということだと思うから。

 私が出来ることは、休める場所を用意すること。ただ聞いてあげること。

 それでも十分満足されるらしく、以前よりも随分と私に砕けて接するようになられた。

 その姿は以前のいかにも理想の王子様という姿から少し外れて、これが等身大のアルフェンルート様なのだとわかる。

 悩んで、困って、耐え切れずに愚痴を零す。今はそんな女の子の姿が、私の前にある。

 それが淋しいとか物足りないという気持ちよりも、嬉しい気持ちの方がずっと強い。

 言いたくないことは言われなくてもいい。私には頼れないことも多いだろう。それでもこうして傍に置いて、一番その心の中を見せてくれる。

 私は、それでいい。それがいい。

 もう私の王子様でいてくれなくても、全然かまわない。


(そのままの、貴女がいいのです)


 私の妹であり、友人であり、そしてかけがえのない。


(私の仕えるべき、お姫様)



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