第19話 16 千里の道も一歩目からつまづく



 全身が心臓になったみたい。心音がバックンバックンと体中に鳴り響いている。

 風を切って走っていた馬は周りに人が増えるにつれて徐々に速度を落としていく。最初は喋ると舌を噛みそうで歯を食い縛って必死にしがみついていたけれど、体に伝わる振動が緩くなってきたところで恐る恐る振り返ってみた。


(本当に城から出てきたんだ……!)


 森に囲まれた城の姿は随分と遠くなっている。

 嬉しいというより、信じられない気持ちの方が強い。こんなに簡単に出られるなんて。驚きで頭がいっぱいで、うまく思考がついてこない。

 呆然としている内に、馬の歩みは随分とゆっくりになっていた。こっそりとフードの影から周りを見渡してみれば、もう城下街の入り口付近まで来ている。城の正門から城下街へと伸びている道は石畳で整備されていてとても広いので、城からここまで距離的には結構あると思う。しかし馬の脚だとあっという間に感じられた。


「ここからは街に入るから降りるぞ」


 セインは馬を止めると、そう一声をかけてからさっさと先に降りた。

 一人、馬の上に取り残される形になってしまった。降り方なんてわからない。乗った時と違って踏み台もない。


(どうしよう……こんな初歩的なところで躓くなんて)


 狼狽えていたら、どうやらそれに気づいたらしいセインが仏頂面で手を差し出してくれた。自分の情けなさに申し訳なく思いながらも、有り難く手を借りて支えてもらいながら恐々と馬から降りる。

 自分の足が地面に着くと、思わず安堵の息が漏れた。ずっと揺られていたからか、足元が妙にふわふわしているように感じてよろめきそうになる。そんな私をセインは文句も言わずに支えてくれた。


「ごめん。助かる」

「気にするな」


 とはいえ、そう言いつつもこちらの顔を見ようとしないのは呆れられているからだろうか。心底自分が情けなくなってきて、これ以上の失態を晒すわけにはいかないと足に力を入れた。


「馬はどうするの?」

「街の中だと邪魔になるから預けてく」


 言われてみれば、街になるのだろうと思われる場所の入り口付近に厩舎が設置されていた。私の知っている感覚で言えば、駅前の駐輪場みたいな一時預かり所的らしい。城から来たと思わしき人が馬を預けているのと同じように、セインも手慣れた様子で預けてしまう。

 すっかり身軽になった状態になると、「行くぞ」と私を促してきた。なんだかまだ現実に思えなくて、半ば呆然としたまま歩き出す。

 そんな私を見て、セインが眉根を寄せた。


「街に来たかったんじゃないのか?」


 嬉しくないのか、と言外に言われている。

 しかし喜べと言われても、予想外の出来事にまだ心がついていかない。動揺するばかりだ。まさかこんなに簡単に城から出られるとは思っていなかったから、私の覚悟っていったい……って気持ちになっても仕方ないと思う。


「来たかったけど、まさか今日いきなり来ることになるとは思わなかったから驚いてるんだよ。せめて事前に言っておいてほしかった」

「言っておくとアルは挙動不審になりそうだったからな。出る前に怪しまれるわけにはいかないだろ」


 それは否定できないのでセインの言い分もわかる。わかるけど。


「出るのはともかく、帰るときはどうするの」


 城の中から外に出る分にはさほど警戒されないけど、外から中に入るとなったら相応の視線は向けられるだろう。

 街の入り口に近づくにつれて人が多くなるので念の為に声を潜めながら問う。セインはなんてことない、という顔をした。


「さっきと同じ。入るときは馬から降りることになるけど、普通に歩いて図書館の門から入る」

「そんなに簡単に入れるものなの?」

「一般公開されてるんだから、挙動不審にさえならなければ貴族の子供が本読みに来ただけだと思われる。末端の門番はアルの顔なんて知らないしな」

「……」


 セインは平然と言うけど、本当にそんなに簡単に入れるのかと不安になってくる。

 私の顔を知っている衛兵は少ないということまでは理解できる。でも私とよく似た第二王妃の顔ぐらいは、絵姿から知っている者も多いはずだ。ましてやセインと一緒にいることを考えたら、怪しまれたりするんじゃないだろうか。


「中にいるはずの人間が、出ていった覚えもないのにいきなり外から帰ってくるなんて普通は考えない。堂々としてれば怪しまれないさ。最悪、俺もいるから親戚ってことにしておけば、とやかく言われることもない」


 確かにエインズワース公爵子爵に何かを言える衛兵がいるとは考えにくい。それでも疑わしい人間が通れば上に報告はされてしまうだろう。もし第二皇子が外を出歩いていると疑われたら、あまりよろしくないことになりそうである。

 不安を拭えないのが伝わったのか、溜息を一つ吐かれた。


「そんなに心配しなくても、今日は休息日の前日だから衛兵も夕刻近くになればさっさと上がりたくて気がそぞろになる。その時が狙い目だ」


(それはそれで門番として問題があると思うのだけど)


 門番って、実はかなり大事な仕事でしょう。不審者を見逃したら意味がないと思うのだけど。

 そんなことでいいのかと言いたいけれど、今の私にとっては有り難いことだと考えるしかない。出てきてしまった以上、帰らないわけにはいかないのだから。

 嘆息を吐き出すと、不意にセインがやけに真剣な目を私に向けた。


「言っておくが、こういうことが出来るのは今回限りだと思った方がいい」

「なぜ?」


 あんなに簡単に出られたのに?

 こんなことならこれからちょくちょく抜け出すことも出来るんじゃないかと楽観視していた。だけど、そういうわけにはいかないのだろうか。

 小首を傾げて問い返せば、セインが苦い顔をした。


「今日、図書館に行くって言って馬を使っただろう。たぶん、一度でもこういう行動をすれば、あの爺が動かないわけがない。そのうち外に出るんじゃないかと疑うに決まってる。手を回して警備を厳しくするだろうよ」

「……」


 当たり前のことだけど、言われてみればそれもそうだ。期待が萎んで、虚ろな目になってしまった。

 あの祖父が、そう簡単に私を外に出すことを許すわけがなかった。


(エインズワース公爵というのは、そういう人だ)


 今までの経験から、そういう人だと嫌というほど知っている。

 ……しかし実のところエインズワース公爵と直に会うことは、あまりなかったりする。年に数回程しか会ったことがない。

 色々と物は贈られてくるけれど、傍から見れば王族である孫を溺愛しているだけという風に取られるレベルで抑えられている。国を乗っ取ろうと考えていると思われる態度は決して表面的に見せることはない。当然と言えば当然だけど。

 それでも私の今のレールを敷いたのは間違いなくあの人であり、そして私はそれに逆らう術を持たない。気づいた時には私の周りはあの人の思う通りに固められていて、今も見えない蔦に全身を絡み取られているかのごとき息苦しさを感じる。

 たまにしか顔を合わさないとはいえ、私はあの人のことが苦手だった。

 私を見る目は慈愛に満ちて見えるのに、ふとした瞬間に狂気を孕む。

 それは利用できる物を見ているには違和感があって、かといって孫が可愛いなんて思っている風でも当然ない。その空気を感じ取る度、ゾッと背筋が凍るような感覚に襲われた。

 そうでなくても、私はあの人に近づかれると寒気が止まらなくなる。

 本能で危険だと感じているのか。それとも今までに積み重なってきた軋轢のせいで、無意識に拒絶反応として表れているのかはわからない。

 どちらにしろ、私はあの人のことが、私の物心ついた時に会った時点で既に苦手だった。

 ……否。苦手というより、怖いという感覚の方が強い。

 そう、あれは恐怖と嫌悪。

 目の前にいれば必死に取り繕ってなんでもない顔はしてみせるけれど、内心ではこの世で一番関わり合いになりたくないと思っている。生理的に受け付けない、というやつなのだろう。

 そもそも今こんなに私が苦労しているのも全てあの祖父のせいなわけだから、好きになれる要素など欠片もあるわけがなかった。


(そうか……だからセインは、今日街に連れ出してくれたんだ)


 たぶん、私が馬を使用したことでこの先の警備は厳しくなる。こんな無茶が出来るのは今回だけだと言ったセインの言葉通りになるだろう。

 セインは馬を使ったことを告げたりはしないだろうけど、私の周りはエインズワース公爵の息がかかっている者で固められている。これが息抜きだとわかってくれる人もいるだろうけど、そういう人は少数派だ。私の行動は祖父に筒抜けだと思った方がいい。

 深々と嘆息を吐く。なかなか外に出られそうにないとわかれば、今の内によく街の様子を見ておきたい。気持ちを切り替えよう。

 こちらの心情を読んで険しい顔をしているセインに顔を向け、出来るだけ明るく笑いかかけた。


「私の我儘を聞いてくれてありがとう、セイン」

「……ああ」


 息を呑み、照れているのを隠すためだろうか。目を逸らして素っ気なく答える。


(こんなことしても、セインにはなんの利益もないのに)


 セインが私を街に連れてきたことを知られれば、当然叱責では済まされない。だからそれは勿論言わないだろう。でもたぶん図書館まで馬を使っただけでも、後で呼び出されて私の知らないところで嫌味の一つや二つは言われることだろう。

 考えてみれば、損な役回りばかりさせてしまっている気がする。

 自分の我儘で大事な人に嫌な思いをさせている。今は甘えることしかできないのが心苦しい。

 こんな自分に何が出来るんだろう。考えたところで、今のところはひとつぐらいしかない。


「お礼に、今日は奢るよ」

「おまえ、金なんて持ってないだろ」


 ……うん。まぁ、うん。言われてみれば、そうなんだけど。

 冷ややかな目を向けるのはやめてほしい。


「言っとくけど、王宮にツケとか出来ないからな」


 セインが苦い顔で忠告してきた。

 当然そんなことはわかっている。どれだけ世間知らずだと思われているのか。

 とはいえ、セインの心配も一応わかる。

 城から出ない私が通貨を使う機会というのは、当然ながら今までに一度もなかった。身の回りのものは大抵貢物でどうにかなってしまうし、欲しいものはメリッサに言うか、紙に書いておけば届く。自分でお金を払って買い物をすることがない。

 だけど前世では自分で働いて、自分で買い物をしていた。こちらの通貨制度も知識として理解しているので、安心してほしい。


「わかってるよ。持っている物を換金すればいいでしょう」


 こちらの世界では、装飾品を換金して使うことは一般的だ。

 そしてその手のものなら、貢物で腐るほど貰っている。

 普段は装飾具の少ないシンプルな服を好んでいる上、今日は馬に乗るから特に何も付けてきていない。とはいえ、カフリンクスとループタイくらいはいつも付けていた。

 今日は自分の瞳に合わせて、青い石が嵌めこまれているカフスだ。気に入っていたけど、拘るほどじゃないので片方の袖から外す。換金の仕方はわからないのでセインに渡そうとすると、ぎょっとした顔をされた。


「馬鹿かっ。それいくらすると思ってる……!」


 慌てて押し返されたので目を瞠った。

 特に気にしたことはなかったけど、その反応にこっちの血の気が引いていく。

 まさか、これって高い? 皇子が身に着けるように贈られた物だから安くはないだろうと思っていたけど、そこまで!?


「念の為に聞いておきたいんだけど、いくらぐらいする……?」

「それ一揃いで、さっき乗ってきた馬が2頭余裕で買える」

「……そうなんだ」


 恐る恐る問いかければ、簡潔に答えられた金額に眩暈がしそうだった。

 城で飼われているほどの馬だから、それなりの馬だ。そしてこの手の馬の相場はさすがにわかる。1頭で乗用車1台分だと考えればわかりやすい。元が庶民だから、車1台を袖に着けていたのかと考えるだけで怖い。


「そうでなくても、アルが気に入って使ってたカフスが街に出回ったら怪しまれるだろ。いいからそのまま付けておけ」


 私の反応を見て一応まともな金銭感覚があるとわかってくれたのか、呆れ混じりの溜息を吐いて断られた。

 値段がそれなら、確かにそこから足が着く可能性はある。もっともなことを言われて反論も出来ない。つまり何のお礼も出来ない。


「……ごめん」


 なんかもう、思った以上にこの世界のことをわかっていない自分に打ちひしがれたくなってくる。

 こんなことで本当に逃亡できた時に生きていけるのか。いざというときは金目の物をもって逃げるつもりだったけど、持ち物の相場がすごすぎて換金で足がつくかもしれないなんて。そんなスタート地点で躓きそうになるとは、想定以上にひどくて泣きたくなってくる。

 悲壮な顔をしてしまったせいか、セインは顰めていた顔を少しだけ緩めた。私に手を差し出してくる。


「今はくだらないこと考えなくていいから。ほら、行くぞ」


 宥めるように言うセインがやけに優しい顔をして見えて困惑してしまう。そうやって甘やかすのをやめてほしい。


(一人で立てなくなりそう)


 今でも散々甘えて迷惑をかけてしまっているのに。これ以上は、困る。


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