第13話 講談1・お力(12)

しかしあたしに貢ぎ過ぎて破産しかけているあんな男なんぞと思いもし、お力は決心がつきません。いつかしっかりした男と一緒になって堅い所帯を持つという夢も今の源七であっては覚束な、でしかないのです。まして源七の女房・お初とその子太吉からはどれほど恨まれるだろうか。現に太吉などはあたしのことを鬼姉と呼んでいる始末。ならば決して丸木橋を渡ることなど叶わぬ!…とお力は思いますがしかし、その脳裡にたった先(さっき)飛び出して来た菊の井の喧騒がよみがえります。場末の新開地に立つ銘酒屋に過ぎないのに、あんないい女が居る、菊の井のお力と云えば誰も知らぬ者なし、などとやたらチヤホヤされるけど、その我が身の実態は夢も明日もない、浮かれ柳に翻弄されだけの哀れな存在でしかない…そんなアンビバレントな、且つカオスでしかない実態に堪えかねて菊の井からたった今、あたしは飛び出して来たのではなかったのか…。こうしてやたら錯綜するお力の目にはお堀にかかる橋が、丸木橋が、確かにあの世へと逃げる橋にも見えたことでしょう。いっそすべてを振り捨てて〝てんぢくの果までも行つて仕舞たい〟のです。畢竟お力にとってこの丸木橋には二重の意味があったのですね。もう菊の井には戻りたくない…では源七か、あの世か…いつしか錯綜し切ったお力は「お盆の霊たちよ、あの世に帰る霊たちよ、あたしを連れてって」とばかりに丸木橋を渡っていたのでした。渡った先には夜店が立ち並ぶにぎやかな小路があってそこは人立(ひとだち)おびたゞしく、物を買う人、商う者、それを揶揄う者、あるいは夫婦争いの軒先などがあって、真に賑やかな限りなのですが、どういう分けか、お力の耳にはそれらの喧騒が、井戸の底に物を落したような虚ろな響きにしか聞こえて来ません。

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