ゴースト・イン・ザ・ハウス

陶木すう

 最近、眠りが浅い。

 頻繁に夢を見るようになった。

 昨日の夢は少し変わっていた。

 私は知らない家にいて、そこに電話が掛かってくるのだ。電話というのは、いわゆる固定電話だ。

 ローテーブルの上に置いてある電話から呼び出し音を流れる。私は受話器を取って耳に当てた。

 ――……さんですか?

 と、知らない名前を出されて、私は違いますと答える。そう言うと、失礼しましたと電話が切れる。ところがしばらくすると、また電話が掛かってくる。

 ――……さんですか?

 と、同じことを聞かれて、私はまた違いますと答える。

 それを何度か繰り返す夢だった。

 妙に目覚めが悪かった。

 何がどうというわけではないが、胸の底にじっとりと泥が溜まっているような気分だった。

 家に固定電話があったのはずいぶん昔だ。今、個人で固定電話を持っている人は少なくなっているのではないだろうか。

 あまり繰り返すようなら睡眠外来を探した方が良いだろうかと思いつつ私は朝食を取って家を出た。

 家の外に植えられた小手毬の、白い小さな花弁が点々と地面に落ちていた。

 ここに引っ越してきてから、出勤時間が早いせいか、まだこのあたりに住む人に会っていない。

 空き家というわけではない。高齢者が多いのかもしれない。いつも静かで、しかし悪い印象は受けなかった。


 帰宅して夕食を食べたあと、私はソファでうとうとしていた。テーブルの上に置いたポータブルスピーカーから小さく音楽が流れている。音が聞こえているような、聞こえていないような、もう眠りについているような、まだ起きているような心地だった。流れてくる音は波のように静かに空間を浸す。

 視界の端でスマートフォンが瞬いている。

 なんとなく不快な気分になった。

 喩えるなら、横たわる体の下に尖った石を差し込まれたような鈍い不快感だった。

 私は不快感から逃れようと、その原因であるスマートフォンを取って、ろくに画面も見ずに通話ボタンを押した。

 ――……さん?

 知らない名前に私は戸惑った。

 私がろくに応えないまま、相手は一方的に話し続ける。

 ――良かった。この間のことを話したくて。

 私が何も応えていないのに、そうそうと相槌を打ち、何のことか分からない話を続ける。近くでオープンしたというお店について、知らない人の近況について。

「もしもし、掛け間違えてますよ」

 私は強くそう言って電話を切ろうとして、スマートフォンを耳から離し、そこで初めて、自分が持っているものがスマートフォンではないことに気づいた。私はエアコンのリモコンを持っていた。訳が分からず、スマートフォンを探すと、それはカバンの中に入れたままで、帰宅後の着信はなかった。

 確かに先ほど、うとうとしていた。

 夢を見ていたのだろうか?



 次の日、初めて家の近くで人を見かけた。

 ただこれを見かけた、と言ってもいいのだろうか。

 朝、玄関を開けて外に出たところで、男性が叫ぶ声を聞いたのだ。

 早朝の静かな住宅地に響き渡るような声だった。驚いて声を出したというものではない。男性が走っていく後ろ姿が見えた。尋常な様子ではなかった。気味が悪かった。あたりを見渡したが、その男性以外に人はない。

 私はおそるおそる道を進んだ。

 それきり他に人に会うこともなく大きな通りに出る。まだ車の通りも少なかった。

 道端に黒いものが落ちていることに気づいた。近寄ると、それはマフラーだということが分かった。

 ちょうど前を歩く人がいたので、私はその人が落としたのだと思って、マフラーを拾って声を掛けた。

「すみません、マフラー落としてませんか?」

 しかしその人は振り返らなかった。

 聞こえなかったのだろうかと思って、背中を叩いてもう一度声を掛けた。その人はちらりと振り返る素振りを見せたが、私と視線を合わせることなく、そのまま歩き去ってしまった。

 失礼な人だなと思ったが、その人が落としたものではないとしたら、何のことを言っているのか分からなかったのかもしれない。

 私はマフラーを花壇のブロックの上に乗せた。

 帰宅するとき、私はまだブロックの上にマフラーが乗っているのを見かけた。

 落とし主はまだ通っていないのかもしれない。

 近づいて、私はマフラーがずいぶん汚れていることに気づいた。

 一日でついた汚れではない。

 まるで何ヵ月も雨晒しになっていたかのように、やや色褪せて白くなり、くたびれていた。

 似たような黒いマフラーが前から落ちていたのかもしれないと思った。道端に落ちている物を意識していないこともあるだろう。



 玄関を開けようとして、一瞬、浮遊感のような、目眩のようなものを味わった。

 扉を開けた瞬間、あの落ちていたマフラーのように、すべてが古びてしまったような感覚だった。

 ドアノブは錆びて硬くざらざらとして、扉は汚れ、開けた瞬間、中の埃臭い空気に息が詰まる。

 しかしそれも一瞬だった。

 私はいつもの玄関に立っていた。

 玄関を開けたところにある、姿見に自分自身が映っているのを見る。

 前にも似たようなことがあった、と私は思った。

 あれは……、数ヶ月前だろうか。

 何年も誰も住んでいない家がどうなっているのか確認するために訪ねることになった。

 その家の扉のドアノブもざらざらとして、扉を開けると、中から埃臭い空気が流れてきた。

 まさに先ほどの感覚そっくり……、先ほど見たものそのものだ。

 気がつけば目の前の姿見は埃に曇り、ひびが入っていた。

 廊下は埃まみれ、白かったらしい壁紙は黒ずんで剥がれ掛け、天井には点々と黄みがかった染みがついている。

 リビングに繋がる扉は蝶番が壊れて半開きだった。入り口には壊れた家具らしきものがある。

 曇った姿見には何も見えない。

 私は荒れ果てた家のなかに一人、立っていた。


     了

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ゴースト・イン・ザ・ハウス 陶木すう @plumpot

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