浅はかな嫉妬
中間テストをどうにか乗り越えた真里也は、無事コンクールに作品を提出したことを報告しようと、職員室に向かっていた。
今日は一日、赤点の生徒用に問題を作るんだと、登校した時に偶然会って實川に聞いていたからだ。
二階にある真里也の教室から、一階にある職員室へ向かう階段の先に美術室はある。
なのについ癖で、真っ直ぐ廊下を進もうとしたが、すぐ気付いて方向転換して階段を降りかけた時、「ねえ」と、後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには美術室で見た、猫の目のような女生徒が立っていた。
「……え、えっと、あ、あなたは──」
「あなた、射邊って言うんでしょ。あんたの作品のことで實川先生が話があるって言ってるから、一緒に美術室に来てくれる?」
言下に遮られた言葉は、なぜか剣のある言い方だった。
なぜ彼女がそんな態度なのか、なぜ、實川の伝言を彼女から聞くのかわからなかったけれど、實川が忙しいと言っていたことを思い出し、彼女に頼んだのだと解釈した。
真里也はわざわざすいませんと、緊張しながら頭を下げた。
面識のない女生徒と一緒にいる状況に耐えられなかったけれど、實川が待っているなら逃げ出すことは出来ない。
仕方なく真里也は、さっさと歩く彼女の後ろをついて歩いた。
美術室の前まで来ると、中へ入るように促されたけれど、扉を開けた先には誰もいない。
「あ、あの……えっと。す、すいません、あなた……の名前知らなくて。そ、それに先生はまだ、でしょうか……」
緊張して上手く話せない。自分で何を言ってるかもわからなかったけれど、實川の居場所は聞けた気がする。
彼女は無言で教室の入り口を閉めると、猫が闇の中の一点を見つめるように真里也を見据えてきた。視線から目を逸らすことができないでいると、ニッと
慌てて真里也も名前と学年を告げ、「いつも準備室をお借りしててすいません」と、声を振りぼって頭を深々と下げた。
腕を胸の前で組んだ浜崎が、「ほんと、邪魔」と、辛辣な言葉をぶつけてきた。
聞き間違いかなと、真里也がきょとんとしていると、
「部員でもないくせに、いっつもいっつも先生を独り占めして。あんた、いったい何様なの? そんなに先生を独占したいなら、部員になればいいじゃない。私みたいに」
キツい言葉は聞き間違いではなかった。
真里也が返事に困っていると、浜崎が一歩前に近付き、右手を上に上げて大きく振りかぶると、そのままの勢いで真里也の頬を平手で叩いてきた。
突然のことで面食らっていると、幼い頃に受けた恐怖がじわじわと蘇ってきた。
目の前の浜崎の顔が、過去に見た母親の顔と重なり、足がガクガクと震え、声も出なくなった。
両手で頭を庇うように身を縮こませていると、浜崎から次の攻撃を喰らう。
バシバシと、何度も頭や肩を叩かれ、その度に真里也は怯えて歯の根をガチガチと鳴らしていた。
耐えきれずその場に蹲ると、ふいに浜崎が攻撃の手を止めた。
頭を抱えた格好で腕の隙間から浜崎を見上げると、制服のジャケットを脱ぎすて、リボンを解いている。
彼女が何をしているのか分からず、恐る恐る腕を下ろすと、浜崎が自分でブラウスをビリッと引き裂いている。
不可解な行動に瞠目し、「な、何をしてるんですかっ!」と、驚いて叫ぶと、その声を掻き消すように浜崎が大声で叫んだ。
「きゃーっ! やめてぇ!」
急に叫ぶ浜崎に驚いていると、美術室の扉が開き、今度は別の女性の悲鳴が真里也の耳をつんざいた。
教室の入り口を見ると、見知らぬ女生徒と、實川。そして羽琉の姿があった。
何が何だかわからず、真里也が動けずに立ち竦んでいると、浜崎が、
「先生、助けて。こいつが、私を……私に乱暴してきたのっ」
實川の胸に飛び込んで訴える浜崎を見てもまだ状況が掴めず、固まったままだ。
「あんた。理香を強姦しようとしたのねっ! 先生。警察呼ぶ?」
け、警察——!
真里也は女生徒が発した言葉で、ようやく状況を飲み込んだ。
お、俺……何もしてないのに、は、犯人に……されてる?
咄嗟に頭をよぎったのは、祖父である博の顔だった。
警察に連れて行かれると、年老いた博を心配させる。どうすればいいか、何をどう説明すればいいのか困惑していると、ヒステリックに警察を呼べと喚いている女生徒の横で羽琉がこちらをジッと見ている。
羽琉……、羽琉。お、俺は何も……していない。信じて……。
声に出して言いたかったのに、喉が詰まって言葉が出ない。
實川の方を見ると、眉を八の字にして、泣き喚く浜崎の勢いに押されている。
ずっと震えが止まらず、手と唇を固く結んでいると、羽琉がゆっくりと真里也の前までやって来た。
「真里也、お前、ほっぺたどうした。赤くなってる」
羽琉が手を差し出してくると、浜崎に打たれた頬をそっと撫でてくれた。
頬を叩かれたとは言えず、なんだか悔しくて、目の奥が熱くなると涙が頬を伝った。
それを羽琉の指が掬ってくれると、そのまま大きな手は真里也の肩を包んでいた。
「……は……る」
名前を口にすると力強く体を引き寄せられ、言葉を閉じ込めるように羽琉の唇で真里也の口は塞がれていた。
羽琉の手が顎に添えられ、顔の角度を変えられると、唇が深く重ねられる。
……これって、キ……ス? 俺、今、羽琉にキス……されてる?
頭が混乱し、どうしていいかわからず、真里也は目を固く閉じた。
羽琉の薄くて綺麗な唇が、自分の唇に触れている。しっとりした感触で、風邪をひいてるみたいに熱っぽい温度は、これまで気軽に触れていた幼馴染ではなく、別人のように感じる。
羽琉が中々離れないせいで息が出来ず、心臓も早鐘のように鳴って、頭の芯が痺れてきた。
羽琉にされるがままでいると、さっきまでギャーギャー騒いでいた女生徒の声が鳴り止んでいることに気付いた。
「た、玉垣っ」
實川が名前を呼ぶと、ようやく羽琉が離れた。呆然としていると、真里也だけにしか聞こえない声で、「ごめん」と、言ってくれる。
なぜ羽琉に謝られたのわからず、眸で問いかけてみると、また肩を抱き寄せられた。
今度は、そっと、優しく。
「そこのあんたっ」
凛とした声で羽琉が、破れたブラウスの胸元を握りしめている浜崎を睨みつけている。
「な、何よっ」
「真里也が乱暴したって言ったろ。けど、それはあんたのでっち上げだ。そうだろっ」
日本刀で切り付けるように浜崎に言い放つと、羽琉の迫力に気圧されたのか、浜崎が明らかに動揺している。
「ち、違うわっ! こ、こいつは私を——」
「真里也は俺と付き合ってる」
引導を渡すような羽琉の言葉は、浜崎と女生徒に効果をもたらしたのか、歯噛みして黙り込んでしまった。
静観していた實川が横で動揺を隠せずにいる女子二人を追い越し、真里也の側にくると、「射邊」と、名前を呼ばれた。
「は……はい」
「玉垣の言っていることは本当か」
は、羽琉と……付き合っていること? ど、どう言えばいいん——
「付き合ってます、俺はゲイです。でも、真里也は違う。な……なんて言うか、ゲイじゃないけれど、俺と付き合ってくれてるんですっ」
真里也が考えあぐねいていると、羽琉がとんでもない宣言をした。
「はあ? 何それ。ゲイじゃないのに、男と付き合うわけないじゃん。先生、玉垣の言っていることは嘘よっ。私は本当に、こいつに——」
「お、俺だって、ゲ……ゲイだっ。それで、羽琉と付き合ってる。付き合ってるんだっ。だから、女の子には、きょ、興味はありませんっ」
これってハッタリなんだろ? と、眸で問うように羽琉を見上げた。
真里也の視線に気付いた羽琉も、虹彩を見開いて返事をしてくれる。
自分にかけられた濡れ衣を、羽琉が芝居で乗り切ろうとしてくれている。
それがわかると、腹が据わった真里也はそれらしく振る舞おうと、羽琉の腕にしがみ付き、わざと甘えるようにしなだれて見せた。
「う、嘘よ。私にしたことを誤魔化すために、でたらめを言っているのよ。先生、信じて。私は本当に——」
「俺は、羽琉が好きだっ。大好きなんだっ! だ、だから女の子には興味ないっ」
浜崎の言葉を遮るように叫んだ。
何の迷いもなく、スルッと飛び出した自分の言葉に一瞬驚いたけれど、嘘ではないから後めたさは全くない。
大切な幼馴染なんだ、好きに決まってる。
羽琉だってきっと同じ気持ちで、親友の窮地を救おうとして、キ……スまでしてくれたんだ。
調子を合わせた告白を聞いたからか、羽琉が肩を抱き寄せてくれる。さっきより一段と強い力で、まるで離さないと言わんばかりに。
体を密着させてくれたから、いつしか震えは
「……そうか。二人は付き合ってたんだな。浜崎、もう一度聞くけれど、本当に射邊に乱暴されたんだな」
「そ、そうよっ。さっきからそう言ってるじゃない。先生は生徒の言うこと、信用しないの?」
決め台詞さながら、實川に訴えかける浜崎が、したり顔をしている。けれど、彼女の言い分は、實川が次に口にした言葉で見事に粉砕された。
「信用するよ。俺は先生だからね」
「だったら──」
「確か君は、美術部に入部したのは三年生になってからだよな」
「そ、そうよ。それが何よ」
實川が腕を組んで浜崎を見据えていると、鋭い目が睨み返して対峙している。
實川が何を言おうとしているのかわからず、真里也は羽琉の腕を掴んだまま、二人に釘付けになっていた。
「いや、三年生なのに入部なんて不思議に思ったんだ。だから、他の先生に君のこと聞いてみたんだよ。そしたら、君はこれまでいくつかの部活に入部しては退部を繰り返しているって教えてもらった」
「それが何よっ! 部活を出たり入ったりってしちゃいけないの? そんな校則でもあるって言うんですかっ。ないでしょ? 生徒の自由だもの」
不適な笑みで豪語する浜崎に向かって、今度は實川が口元だけで笑みを作った。
「いや、君の退部したきっかけがさ、男子生徒や男性教諭に告白して断られた後だって聞いたからね」
實川の言葉で、浜崎の顔色が青ざめたかと思うと、まるで火にかけられたヤカンのように、頭頂部から湯気が湧き上がっているような憤怒した顔へと瞬時に変わった。
「ね、ねえ。理香。もういいじゃん。諦めなよ」
自分達の旗色が悪くなったのを察したのか、教室の入り口にいた女生徒が、でっち上げを証明するような言い方をした。
「あんた、何言い出すのよっ。諦めろって、何言ってんの。私の格好を見てよっ。コイツに破られたのよ! 先生、生徒の言うことを信じてるんでしょ。先生は、か弱い女子の味方でしょ?」
なりふり構わず浜崎が訴えても、ここにいる全員が嘘を見破っている。
そんな浜崎にとどめを刺したのは、もう一人の女生徒だった。
「り、理香。私帰るから。先生、私は関係ないからね。理香に頼まれてここへ先生と玉垣を連れてくるよう、言われただけだからさ」
捨て台詞を吐くと女生徒は、そそくさと廊下をかけて行った。
「ちょ、ちょっと! あんた、私を裏切る──」
「浜崎っ!」
これまでに聞いたことのない大声で實川が叫んだ。射すくめられた浜崎が、天敵に遭遇した捕食動物のようにビクついている。
「お前は三年生なんだ、しかも今はもう二学期だ。だけど、どうしても部活に出たいと言うから承諾したけど、今日限り、他の三年生と同じように引退してもらう。それに、いくら親御さんが進学も就職も自由にすればいいと言っても、自分の未来なんだ。何もしないまま過ごすのか、何かを見つけようと思うのか。自分の人生なんだ、しっかり考えろ」
諭すように言った實川の言葉が浜崎に響いたのか、それは本人にしかわからない。
バツが悪そうな顔で教室を去って行ったから、自分のしたことが恥ずかしいことなのは身に沁みているのだろう。
事なきを得てホッとした真里也は、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでしまった。
「真里也、大丈夫かっ」
腕を取って体を引き上げようとしてくれる羽琉を見上げて「平気……」と呟くと、掬い上げてくれる腕の力を借りて立ち上がった。
「それにしても、女子は怖いなぁ。高校生といってもやることも考えることも、
「少し前にあの女、先生に告ったんだろ。裏庭で昼飯食ってる時にさ。自分が、こっ酷く振られたのに、部員でもない真里也に先生が優しくするのが気に入らなかったんだろ」
「なんだ、玉垣に目撃されてたのか」
「見てないですよ。ってか、みんな結構知ってますよ。目撃したやつが面白がって吹聴してましたから」
「え、俺は知らなかった。そうなんだ、あの人、先生のことが好きだったんだ。何か、気の毒──」
「お前はどうしてそう人がいいんだ。あの女に何されたのかもう忘れたのか?
羽琉の手がまた頬に触れた。
優しい手は真里也の体の異変を探すように、肩や腕を撫でくれる。また心配をかけてしまったと反省していると。羽琉とキスをしたことを急に思い出してしまった。
確かめるように、指で唇をなぞると、實川と目が合って、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなる。
「しかし、玉垣のゲイ宣言には驚いたな。しかも、教師の前であんなことするとは」
感心するような、でも愉快そうな顔で實川がニヤニヤしている。
「し、仕方ないだろっ。気付薬みたいなもんだっ。ショック療法っていうか、とにかくあの女を黙らせたかったんだ。けど、ごめん……真里也。俺、お前にあんな──」
「謝らないでくれっ。だ、だって羽琉がアレを……してくれたお陰で、あの人、ちょっと怯んでたし。そ、それに、羽琉だから何をされても俺は平気だ」
そうだ。他のやつにされたら、ショック過ぎて立ち直れないかもしれないけれど、羽琉なら、羽琉だったから、嫌じゃなかった。
ゲイ宣言もキスも、自分を助けるためにしてくれた。
感謝を込めて伝えたのに、また羽琉に目を逸らされてしまう。
自分の演技はやり過ぎた? 引いた? アレコレ考えていると急に不安になってくる。
「ま、とにかく一件落着だな。あ、でも射邊は当分の間、ひとりにならないほうがいいな。あの子は要注意だ。前から先生方の間では目を光らせていたからな」
「どう言うことですか?」
ずっと羽琉の腕を掴んでいたことに気付き、慌てて手を離しながら聞いてみた。
「うーん、個人情報だから詳しくは言えないけれど、ひと言で言うなら、家庭環境があまりよくないってことだな」
「それはあの女の問題で、真里也を巻き込む理由にはならない。とばっちりだ、迷惑だっ」
にべもない言い方で羽琉が言うと、もう帰ろうぜと、背中をそっと押された。
肩越しに羽琉を見上げると、いつもの優しげな眼差しで笑ってくれてホッとした。
よかった。いつもの羽琉だ……。
美術室を出ようとした時、「そうだ、射邊」と、實川に呼ばれ、振り返ると羽琉も同じように實川を見ていた。
「コンクールに応募したとき、学校の名前を書いたか?」
「あ、はい。先生に言われた通り、ちゃんと書きました」
「ならいいんだ。結果は学校宛に届く方がいいからな。もし、何かしらの賞に引っ掛かればいい宣伝になる」
明け透けのない言い方だったから、「あんま期待しないでください」と、苦笑しながら言った。
じいちゃんじゃあるまいし。それに實川の言葉じゃないけれど、本当に箸にも棒にもかからないと思う。
これまで家族と實川、それに羽琉だけにしか見せてこなかった彫刻を、全く知らない人達に見てもらえる。それだけで、まだ見えない新しい自分に一歩近付いた気がした。
「ほら、鍵閉めるぞ。早く出ろ」
鍵を指に引っ掛け、くるくる回している實川の声に「はい」と返事をした。
床に投げ出されたままの鞄を拾い上げると、先に行く羽琉の背中を駆け足で追いかけた。
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