佐野と牧
御新香ころりん
第1話 始まりの春
一.『 始まりの春』
春の朝、通学路を自転車で進む翔太は、空気の中に微かに漂う潮の香りを感じていた。海沿いの田舎町に住む者にとって、この匂いは日常の一部であり、季節の移り変わりを教えてくれるものだ。
桜の花びらが風に舞い、陽射しが柔らかく地面を照らしている。新学期が始まる季節、僕――佐野翔太は、特別な期待もなく校門をくぐった。高校二年の春、心機一転の春。普通の高校生なら、これからの新生活や来たるべき進路、友人関係に思いを馳せるところだろうが、僕はどこか浮かない気持ちだった。
何かが変わるのかもしれない。そんな漠然とした予感が、心の奥底で微かに響いていた。だけど、その「何か」が何なのかは分からないまま、足を進めていた。
校門を抜けると、見慣れた光景が広がっていた。いつもと変わらない、何もかもが予定調和のように進んでいく。友人たちの笑顔や、教室に響く賑やかな声、そして何よりも、自分自身がこの場所にいることが、どこか虚しさを感じさせた。
教室に入ると、いつものように友人の山本と石田が、机の上でふざけ合っていた。中学時代から同じクラス同じ部活の友人だ。幼馴染み同性カップルの彼らの間に流れる親密な空気は、見ているだけで微笑ましい。そんな二人といっしょにいることを喜ばしく思う反面、どこか自分がその一部ではないような感覚があった。薔薇に挟まるノンケというか。カップル+1のおじゃま虫というか。
「翔太、おはよう!」
山本が元気よく手を振ってくる。僕は笑顔を作り、軽く手を振り返した。
「おはよう、山本。今日もあいかわらず元気だな。」
「当たり前だろ、新学期だしな。やっぱり遊べる最後の年だから、何か面白いことが起こるといいよな!」
山本の無邪気な言葉に、僕は曖昧に頷いた。確かに、何かが起こるのかもしれない。しかし、それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。僕の心はどこか落ち着かないままだった。
その時、ふと視線が教室の隅に向かった。そこにいたのは、他のクラスメイトとは一線を画した存在――牧瑠香だった。
昨年転校してきた瑠香は、クラスの中で異質な存在感を放っていた。艷やかな茶髪が風に揺れ、整った顔立ちはどこか怜悧さを感じさせる。彼女の鋭い眼差しは、他人を寄せ付けないオーラを放ち、そのためか、クラスメイトたちは彼女と距離を置いているようだった。
瑠香は、教室の中で唯一他者と距離を置くように見えた。彼女は、他の生徒たちが賑やかに自己紹介をしているのを一瞥もせず、窓の外をじっと見つめていた。桜の花びらが風に舞い、彼女の視線の先に降り注いでいたが、その美しい光景にも彼女は興味を示さないようだった。
翔太は、瑠香の存在が周囲とは異質であることを強く感じた。彼女の冷たさと謎めいた雰囲気が、彼の心に不思議な引力を生んでいた。そして、その引力に引き寄せられるように、翔太は彼女のことをもっと知りたいという思いに駆られた。
しかし、彼女に話しかける勇気はまだなかった。ただ、彼女がどのような人物なのか、その冷たい表情の裏に隠された真実を知りたいという欲望が、翔太の中で膨らんでいくのを感じていた。
瑠香はいつも一人で座っており、窓の外をじっと見つめていた。何を考えているのか分からないその表情には、他人を寄せ付けない強さがあった。彼女が何を感じ、何を求めているのか――それは、誰にも分からない。
僕も彼女のことを気にかけてはいたが、特に接点を持てなかった。彼女は自分の世界を持っているように見えたし、その世界に踏み込む勇気はなかった。だが、その日、何故か彼女の存在がいつも以上に気になっていた。
授業が始まると、僕は何度も彼女の方に目をやった。瑠香は特に変わった様子もなく、淡々とノートを取っていた。教科書に目を落とす姿は沈着で、クラスの他の生徒とは違った落ち着きがあった。しかし、どこか孤独を感じさせるその姿に、僕の心は次第に引き寄せられていった。
昼休みが訪れると、僕は彼女に声をかけることを考えた。けれど、何を話せばいいのか分からず、ただ彼女の姿を遠くから見つめるだけであった。瑠香は教室の片隅で一人、静かにお弁当を広げていた。誰とも話すことなく、淡々と食事を取るその姿は、まるでこことは違う別世界にいるようだった。
「翔太君、行かないの?」
石田が僕の肩を叩いて声をかけてきた。山本と一緒に食堂に向かおうとしていたが、僕は何故か瑠香の元へ行かなければならない気がしていた。
「いや、今日はちょっと…」
僕は曖昧に返事をし、二人を送り出した。そして、意を決して瑠香の隣に座ることにした。
「えっと…?佐野君、どうしたの?」
瑠香は僕を驚いたように見つめた。彼女のブリザードのような鋭い眼差しが、僕の心を冷たい貫くようだった。しかし、その奥に隠された何かを感じ取ろうとする気持ちが、僕を動かしていた。
「いや、ただ…なんとなく。牧さんと話してみたくてさ。」
僕の言葉に、瑠香は一瞬戸惑ったようだったが、やがて小さく頷いた。
「そう…。じゃあ、何か話すことがあるの?」
彼女の声は静かで、どこか距離を置いたような響きだった。それでも、僕はその声に引き寄せられるように、話を続けた。
「牧さん、普段は何をしてるの?趣味とか、好きなこととか…あんまり知らないから、聞いてみたくて。」
瑠香は少し考える素振りを見せた後、淡々と答えた。
「趣味か…特に何かをしているわけじゃないけど、アニメを見るのは好きかもしれない。あとは、本を読んだりとか。」
僕は意外だった。彼女の冷酷に見える外見からは想像もつかない答えだったからだ。
「へえ、アニメが好きなんだ。どんな作品を見てるの?」
瑠香は少し微笑んで、答えた。
「最近は、『少女終末旅行』っていうアニメを見てる。文明が滅んだ世界を二人の少女が旅する話で、どこかほのぼのとした日常系なんだけれど、救いが無くて結構深い内容なの。」
「面白そうだね。僕もそのアニメ、見てみようかな。」
僕はそう言って、瑠香の表情が少し和らいだのを感じた。
「佐野君は?何か好きなものとかあるの?」
瑠香が逆に僕に質問を投げかけてくる。その時、僕は彼女が初めて僕に興味を持ってくれたような気がして、少し嬉しかった。
「僕は…まあ、特にこれといったものはないけど、映画を見るのは好きかな。『RRR』みたいな痛快なインドのアクション映画とか、『マッドマックス 怒りのデスロード』みたいな傑作冒険ものが多いかな。」
僕は少し照れくさそうに答えた。
瑠香はその答えを聞いて、少し考えるように視線を宙に向けた。
「アクション映画か…今度、何かおすすめの映画があったら教えてくれる?」
「もちろん!今度おすすめリストを作ってくるよ!とりあえずマッドマックスの最新作、フュリオサかな!!」
僕は力強く答えた。瑠香との会話が、思った以上に楽しく感じられたからだ。
次の日!
「牧さん、おはよう!」
僕はいの一番に瑠香に声をかける。
「えっ?あ、うん。おはよ」
瑠香が驚いたように顔を上げる。鳩がマシンガンを喰らったような顔をしている。まさか話しかけられるとは思っていなかったようだ。
上手く虚をつけたようだ。先手必勝。相手の氷のバリアが復活する前にこっちのペースに巻き込むことにする。
「例のリスト持ってきたよ。佐野的アクション映画ベスト100!』
有言実行。昨日夜までかかってつくったオリジナルリストを瑠香に手渡す。
「ありがと…でも急がなくても良かったのに」
社交辞令だと思われていたのかもしれない。でもリストをマジマジと眺める瑠香の表情は普段の氷の女王のソレではなく、初春を感じさせるものだと思った。少し柔和な顔がとても可愛い。通常のキツメな表情とのギャップがヤバい。
「自分の中の特に好きな作品について気持ちを整理するついでだったから。別に急いでないよ」
嘘をつく。ほんとはめちゃくちゃ内容を推敲し、深夜までかけてつくった力作だ。コミケでコピー本で売っても完売するクオリティだと自負している。
「なにそれ…wちょっとウケる」
可愛い。口角が綻ぶだけで花が咲いたようだ。桜の花も顔負けである。
「今読んでるのは小説?」
見惚れてペースを握られる前にこちらからも質問を投げつける。瑠香の手元には古書のような貫禄のある本が佇んでいる。
「うん。カフカの『変身』」
えーっと、ムラカミハルキ?の作品だっけ?ノーベル賞?
「へぇ、面白い?」
いつかムラカミハルキも読んでみたいと思っていたのだ。
「ユニーク、かな。あとちょっと切ない」
瑠香が少し思案してから面白い感想を述べる。ユニーク?
「読み終わったら、貸してもらってもいい?代わりにマンガ貸すから」
僕もムラカミデビューである。ついでに対案を提示する。借りはつくらない主義だ。
「いいよ。もうちょっとで読み終わるから。佐野くんみたいな男の子って、どんなマンガ読むの…?」
瑠香の瞳に好奇心の色が宿る。
「そこまでマンガも詳しくないんだけど…雑誌は週間少年ジャンプとヤンジャンくらいかな。あとは話題になった作品とかアニメ化した作品とか…今は『進撃の巨人』と『ダンジョン飯』、『ブラックジャック』とか読んでるよ」
僕は素直に答えた。
「進撃いいよね…アニメのクオリティもすごく良かったし…諫山先生マジ神……佐野くんも手塚先生の作品も読んでるんだ…ちょっと意外かも」
進撃愛を語る瑠香はまるで普通の一人のオタクの女の子のようだ。全く新しい一面を知り、僕は死んだ。超可愛くて。
「手塚先生の作品は他に何が好き?」
瑠香が質問してくる。可愛い。
「あんまり詳しくないんだけど、『アドルフに告ぐ』か『ブッダ』、『陽だまりの樹』かな…」
僕は悩んだ。最高作品を決められない。『火の鳥』も捨てがたい。
「絶対詳しいじゃんw手塚先生の劇画期の作品良いよね…私も『アドルフに告ぐ』好き…『きりひと讃歌』も良いよね」
瑠香が喜々として語る。可愛い。
「手塚先生好きなら藤子先生は、好き?」
「あまり詳しくないけど好きだよ、A先生もF先生も。ドラえもんとマンガ道とSF短編くらいしか語れないけど」
「じゃあドラえもんの大長編で好きな話は?」
「『ドラビアンナ……んん、『鉄人兵団』か『宇宙開拓史』かな」
うっかりしずちゃんが大変な目にあう作品を言いそうになり慌てて言い直した。
「どっちも名作だね~。私は他には『ブリキの迷宮』や『魔界大冒険』も好き(^^)」
相変わらず良いチョイスしてるぜ。可愛い。
「のび太と英才のバディものの『創世日記』も尊いよね~(^o^)」
ごめん、それはちょっとわからない。
その後、僕と瑠香は出木杉はメインキャラになるべきかならざるべきか、のび太と出木杉は結婚すべきかするべきではないかで激論を繰り広げたのだが、それはまた別の話。(ちなみに『のび犬✕英才』押しは瑠香だ。僕はまだその境地ではない。)
それから、僕たちは少しずつ、日常の話題や好きなことについて話し合うようになった。
彼女の鋭い眼差しは、次第に柔らかくなり、少しずつ距離を縮めていった。
放課後、校庭には夕暮れの光が差し込み、桜の花びらがゆっくりと舞い落ちていた。僕はその光景を見ながら、瑠香のことを考えていた。彼女との会話は、僕にとって新鮮で、心地よいものだった。それと同時に、彼女の中に隠された何かに対しての興味が膨らんでいった。
瑠香は、どこか他の生徒とは違う何かを抱えているように見えた。それは彼女が放つ冷たさや怜悧さの裏に隠されている、深い孤独や痛みのようなものだった。彼女がその「やばい」という噂の中でどのように生きているのか、その真相を知りたくて仕方なかった。
翌日、僕はまた瑠香に話しかけることに決めた。彼女のことをもっと知りたいと思ったからだ。放課後の廊下で、彼女を見つけた僕は、意を決して近づいた。緊張して心臓が飛び出しそうだ。緊張で渇いた喉に、唾を飲み込み声をかける。チキンな僕の心を反映するように、足がかすかに震える。
「牧さん、今日、一緒に帰らない?」
彼女は少し驚いた表情を見せたが、やがて微笑んで頷いた。
「うん…いいよ。」
僕たちは、夕暮れの中を並んで歩いた。桜の花びらが舞い落ちる道を、言葉少なに進む。その静けさの中で、僕たちの間に流れる空気は、昨日とは違ったものだった。無言でも気まずさはなく、むしろ心地よいものだった。
「佐野君…どうして私にこんなに親切にしてくれるの?」
瑠香がふと、歩みを止めて僕を見つめた。その眼差しには、いつもの冷たさがなく、どこか不安げなものが見え隠れしていた。
「えっと、その……牧さんと話していると、楽しいし…君が、気になるんだ。」
僕は唾を飲み込みながら自分の率直な気持ちをストレートに伝えた。
「君のことを、もっと、知りたくて。」
瑠香は少し視線を落とし、そして微かに微笑んだ。
「私は…君が思っているような人間じゃないよ。だから、そんな風に思われるのは、正直怖いんだ。」
彼女の言葉に、僕は胸が痛んだ。彼女が自分を否定する理由が分からない。でも、それを知りたいと思った。
「そんなことないよ。牧さんは、僕にとって、すごく…大切な存在、だと思う。まだよく分からないけど、君が何かに悩んでいるなら、僕にできることがあるなら、助けたい。」
瑠香は驚いたように僕を見つめ、そして再び歩き出した。
「ありがとう、佐野君。でも、私のことを知ったら…きっと君は後悔すると思う。」
彼女のその言葉に、僕は強く首を振った。
「後悔なんてしないよ。むしろ、君のことをもっと、知りたいと思っている。」
その日、海沿いの道を、僕たちは言葉少なに家路を急いだ。瑠香が抱える何かが、僕の心に深く刻まれ、彼女ともっと向き合いたいという気持ちがますます強くなった。
春の風が吹き抜ける中、僕は瑠香との新たな一歩を踏み出す覚悟を決めた。彼女が「やばい」と呼ばれる理由が何であれ、僕はその「やばさ」を受け止めたい。そして、彼女を支えたいと心に誓った。瑠香の本当の姿を知るために、僕は彼女との関係を深めていく決意を固めた。
これが、僕と牧瑠香の物語の始まりだった。
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