成美 悠理の知る、常盤 大河という男②


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 成美なるみ 悠理ゆうりが自分の事を客観的に見て、他者よりも容姿が優れていると自覚したのは小学二年生の頃だった。

 

 それまでも身内──父母や祖父母から猫可愛がりされていた経験はあったし、道行く人や両親の知り合いなんかから『可愛い』と褒められる事も少なくなかった。


 悠理にとってそれはとても嬉しい事であった。

 褒めれて悪い気はしない。当たり前のことだ。


 それが良い意味でも悪い意味でも『目立つ』という事になると理解したのが、小学二年の初秋である。


 ある日の集団下校の最中、一緒に帰宅していた友達の一人がトイレに行きたいと言うので、仲の良い数名と集団下校のグループを離れて通学路の途中にある大きな公園へと立ち寄った。


 低学年が集団下校から外れることはいけない事だと分かってはいたが、トイレなどの止むを得ない事情で離脱する事は普通にあったし、少し早歩きしたらすぐにグループに追いつけると考えていた。


 すでに一年以上歩いた見慣れた通学路で、まだ太陽が頭の上にある時間帯。

 周囲には働く大人や児童の帰宅を見守る保護者などが、声をあげればすぐに駆けつけられる場所にいるのが見えている。


 だから、危ない事なんて絶対にないと思っていた。




『悠理ちゃん、お父さんが仕事場で怪我をして入院したんだ。だからお兄さんが迎えに来たよ』




 遊具で遊びながら友達を待っていた悠理の背後から、まだ残暑の残る時期だというのに分厚いフード付きの黒いパーカーを来た男が突然現れ、悠理の腕を掴んでそう言った。


 あまりにも唐突に現れた男に呆気に取られ、返答をする間も無く腕を引っ張られる。

 公園の外に、男の物だと思われる軽自動車が目に入った時、悠理は自分が誘拐されかかっている事にようやく気付けた。


『だれか! ゆうりちゃんがしらないひとにつれてかれる!』


 友達達が大声でそう喚き出した瞬間に、金縛りにでもあったかのように動けなかった悠理の身体が突然解放された。


『やめて! はなして! たすけて! だれかたすけて!』


 必死に助けを求めた。

 出した事の無い大声を上げ、手足をめちゃくちゃに振って抵抗し、少しでも友達達の場所に戻ろうと足掻いた。


『お前! 何してんだ!』


『誰か警察を呼んで! 児童が誘拐される!』


 声を聞いた周囲の大人たちが一斉に男を取り押さえ、泣きじゃくる悠理を救出した。


 通報を受けて現着した警察、警察から連絡を受けた先生、先生からの電話で血相を変えて駆けつけた両親。

 

 友達に抱かれてなく悠理は、そうした大人たちが騒ぐ公園の中で、悠理達とは違う下校グループに居た、後から公園に来た一人の友達のか細い声を耳にする。


『お、おにいちゃ……ん? なんで?』


 悠理を攫おうとしたのは、その友達の兄だった。

 頭の良い大学に通う大学生で、優しい兄だと自慢されていた人。

 悠理と直接の面識はなかったが、運動会や学芸会に父兄として参加していた朧げな記憶があった。


 身近な人に危害を加えられるという初めての経験に、悠理は二週間も学校を休むほどのショックを受ける。


 大人達はそれを仕方ない事と許してくれたし、父や母も悠理のメンタルを最優先に気遣ってくれて、普通の生活に戻れる様になるまでにそう時間はかからなかった。


 その二週間の間に、件の友達は転校した。


 なんとか心の傷も癒えて久しぶりに登校した学校で、悠理は誘拐犯の詳しい話と、転校していった友達の話を、上級生の無責任な噂話として耳にする。


『なんかね? 運動会で見たゆうりちゃんの姿に一目惚れしたみたいよ?』


『自分の部屋に成美ちゃんの隠し撮り写真が壁にいっぱい貼ってあったんだって』


『えー、そんなドラマみたいな気持ち悪い話、本当にあり得るの?』


『本当だよ。あたし、犯人の妹ちゃんに直接聞きにいったもん』


『その時に妹ちゃんを泣かせちゃったのよね。あんた』


『そりゃあ、お兄ちゃんが同級生を誘拐しようとしたなんて、その子も泣くでしょう。事件の後もあんたみたいな野次馬がたくさん集まってくるし』


『すぐに学校来なくなったよねあの子』


『そのまま転校したみたい。そうよね。居心地悪いもんね』


『大学生に一目惚れされる成美ちゃんってそんなに可愛いの?』


『可愛いよ? あたし給食当番で下級生の教室行った時にお話したけど、こういう子が将来アイドルとか女優になる子なんだなぁって思わず感心しちゃった』


 こういった類の噂話が事件から二ヶ月ほど、校内の至るところで囁かれていた。


 大人ぶりたい上級生女子たちにとって身近なスキャンダルとして、思春期に一歩足を踏み入れた上級生男子にとっては、すこしだけ卑猥な雰囲気を持つ下世話な事件として。


 その噂話を聞く度に、悠理の脳裏にあの公園での恐怖がフラッシュバックしていき、頻繁に体調を崩す要因となった。


 それが、悠理が男性を苦手とする要因となった事件の、最初の一つである。


 この後の小学校生活でも悠理は、自身の容姿を原因とするいくつかの軽いトラブルを経験することになる。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 時は流れて、悠理は中学生になった。


 家の位置が微妙だった為に親しかった女子の友達とは違う中学に進学してしまい、新生活は不安でいっぱいだった。


 中学でも悠理は目立った。

 入学式から注目を浴び、下世話な男子の耳目を集め騒がれる。

 成長の著しい女子としての部分も、悠理にとって悩みの種であった。

 体育の時間、夏服への衣替え、あらゆる場面で悠理は男子の目線を集めてしまう。


 そんな生活に辟易としながらも、新しく親しくなった友人たちも程度は違えど同じ様な悩みを抱えていて、お互いに愚痴りあったり相談したりと、すこしだけ楽に生きられる様になっていった。


 ある日、三年生の男子に告白されるまでは。


 一年の二学期終盤、全校をあげての大掃除が実施される日だった。

 校舎中庭を請け持った悠理たちは、4人程度の上級生男子に声をかけられる。


 友達と悠理の間を分け離すように動く不自然な動きに不安と疑問を抱きながらも、一人の先輩男子の話を聞き流しながら清掃を続けていた。

 その時の悠理にとっての男子とは、くだらない事で大騒ぎしてくだらない話題で盛り上がる理解不能な生き物だった。

 それは目の前の先輩男子に抱く印象と相違なく、現に先輩が話しかけてくる内容はどれひとつ悠理にとっては興味がなく、相槌を打つくらいの対応しかできなかった。


 気がつけば、周囲に友人たちの姿が消えていて、先輩男子と二人きりとなっていた。

 脳裏に小学二年の公園の風景がよぎるも、当時とは年齢も体格も場所も違うとその考えを否定する。


 やがて先輩が溜めに溜めた告白の言葉を口にした。

 悠理の素直な感想としては『この人は何を言っているのだろう?』だ。


 四月を迎えれば高校生となる相手が、中学生相手に付き合おうなどとおかしな事を言う。

 そもそも悠理は相手のことをまったく知らない。

 どうやら三年でも有名な──素行の悪い方に──男子らしいが、残念なことに悠理の耳にその高名は届いていない。


 なので即座に、考えることもなく返答する。


『お気持ちは嬉しいんですけど、ごめんなさい』


 告白を断られた男子はなぜか不快そうな表情を浮かべ、それでもなお悠理に食い下がった。

 どうやらフラれると思っていなかったようで、その態度からは悠理に対する好意ではなく、自身のプライドに関わる負の感情が見え隠れしていた。

 掃除を終えて逃げる様にその場を後にする。

 肩を掴まれそうになったので、慌てて職員室まで走った。


 道中で友人たちを見つけ、なぜ置いていったのかを詰問すると、彼女らは初めから先輩たちと結託していた事が判明する。

 

 軽い気持ちでその事を話す友人たちに、悠理は戦慄した。

 

 素行の悪さが目立つ先輩男子を、なぜ自分と二人きりにしたのか。

 なぜ告白を断った事を、不思議そうにするのか。

 悠理にはわからなかった。


 友人たちとの考えの違いに若干の恐怖を覚えたが、中学生活での孤立を恐れぐっと飲み込んで、悠理は普通を装ってその日を終えた。


 そこから年が明けて一月から、三年生が卒業するまでの三ヶ月間。

 悠理は三年女子の先輩から、嫌がらせを受ける事になる。


『あんた、アイツに告白されたからって調子に乗ってない?』


『断ったとか、何様?』


『一年のくせに男子にチヤホヤされて、少しばっか可愛いからって勘違いしちゃったんだ?』


『いるよねこういう子。男子から人気があるからって好き勝手やっちゃう奴』


 最初に呼び出しを受けた時に、そんな言葉と共に髪を掴まれて地面にねじ伏せられた。

 学校から近い場所にあるマンションのエントランスでの出来事だ。


 心当たりのない事を次々と口走りながら、先輩女子は地面に這いつくばる悠理を楽しそうに罵倒した。


 その場にマンションの管理人が現れなければ、そのまま暴行を受けていたかもしれない。


 道を歩いていれば空き缶や食品が突然飛んできたり、歩道から車道へ突然突き飛ばされたり、下駄箱にゴミを詰められたりと。

 嫌がらせのレパートリーは多岐に渡った。


 仲の良かった友達が嫌がらせに巻き込まれる事を恐れ、瞬時に疎遠になった事も悠理を深く傷つけた。

 それまで楽しそうにしていた下校も、悠理を見るとそそくさと視界から消えるように逃げ、教室での会話も無くなった。


 たった二ヶ月。

 短い間ではあったが、それは悠理を打ちのめすには充分すぎる時間だった。


 小学校二年生で男性に対しての嫌悪感を覚え、中学一年で同性に対しての不信感に苛まれ、その頃の悠理は傍目には普通に過ごしているように見えて、内心は同性異性にかかわず人に対しての恐怖でいっぱいだった。


 そんな悠理を救ったのは、意外にも同学年でも目立つ派手なグループの女子達だ。

 大人しめの悠理とは接点も無く、遊ぶ場所も生活のリズムも違い、共通の話題もほとんどない、いままで会話らしい会話をした事のない彼女らが、悠理に救いの手を差し伸べた。


『三年のババァたち、うっとおしいよね』


『もうすぐいなくなる人たちのこと考えても仕方なくない?』


『ウチらと一緒なら手ぇ出してこないっしょ』


 その女子の中に、地元で有名な先輩の妹がいたことが事態の収拾に大きく貢献した。

 三年女子はその先輩を敵に回す事を恐れていたようで、彼女らといる間は悠理に近づく事すらできなかったのだ。


 そこからの悠理の中学生活は、そのほとんどを彼女らと共に過ごす事になる。


 見た目こそ派手で、夜遊びの常習犯だった女子グループだったが、意外にも悠理を非行に誘うような事をせず、程良い距離感で接してきた。


 悠理の生活に深入りはせず、かといって悠理が困っている時には声をかけてくれて。

 学校生活で孤立しないよう話しかけたり、相談に乗ったり、愚痴を言いあたり。


 それはもしかしたら親友、と呼べる間柄だったのかも知れない。

 悠理は彼女たちに深い感謝の念を持っていたし、好いてもいた。

 

 だが、一度他人に対して深い嫌悪感と恐怖を抱いてしまった悠理は、恩人である彼女たちと共にいる時ですら、『今は笑っているけれど、いつかまた裏切られるのだろう』という気持ちを捨てきれずにいた。


 常盤ときわ 大河たいがという物静かな男を認識したのは、そんな──中学二年の一学期、六月の頃だ。



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 新宿駅構内。

 中央通路端にある女子トイレ最奥の個室の中。

 もしかしたらこのまま、一人寂しく無惨にも殺されるかもしれないと恐怖に震えていた悠理は、大河のリュックを胸に抱えて蓋を閉めた便座に座っている。


 思い出すのは自分の人生の今までと、今日久しぶりに再会した中学の同級生である大河の事。


 洒落っ気の無い髪型の、背の高い物静かな男の子。

 

 一番親そうに見えた新條しんじょう りょうと居る時以外は滅多に口を開かず、一番奥の列の真ん中の席で、つまらなさそうに外ばかり眺めていた無愛想な隣の席の男子。


 ふと見せる寂しそうな目や、親友に向ける優しい眼差しが気になっていた──もしかしたら、悠理にとっての初恋かもしれない相手。


 大河自身は忘れていたが、中学時代の彼との数少ない会話は、今でも悠理の胸に燦然と輝く宝石のような思い出だ。


 そんな大河との偶然すぎる再会に、少しだけ心ときめいた。

 悠理自身にもあやふやな彼への感情をはっきりさせようと大河を引き止めて、少しでも会話をしようと頑張っていたら、この騒ぎに巻き込まれた。


 新宿中央公園で自分を庇ってくれた事。

 手を取って安心させてくれた事。

 怯えて動けない自分を背負い、守ってくれた事。


 この数時間の間の大河の姿を思い出すだけで、心配で胸がはち切れそうになる。


「やっぱり私、常盤くんの事──」


 好きなのかもしれない。

 今更そんな事に気付いても、大河は悠理を残して行ってしまった。


 何もできない、足手まといな悠理の為に戦う事を選択し、死地に突撃していった。


 便座の上で膝を抱えて、悠理はまた一人──泣く。


 恐れているのは死ぬ事、そして大河を失う事。


 女子トイレの外から、誰とも判断のつかない獣の雄叫びのような声が聞こえる。

 それが大河であって、彼がまだ生きている事の証左であれ──と、悠理は強く願う。

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