第13話
そうして二人が真っ先に訪れたのは外階段だった。
扉を開けると同時に、冷たい冬の風が吹き荒んでくる。
階段は吹き抜けの構造になっており、鉄の踊り場を踏むと外がよく見えた。ただし、人間がそこから落ちることが無いように格子が上から下まで伸びており、乗り越えたり、すり抜けたりする隙間はそこには見つからなかった。恐らく一階まで同様の構造だろう。
「少なくとも、魔術も使わずに外階段を途中で出て行くことはできないですね」
一通り確かめたイヴがそう結論を出す。
「人間が自分の足で昇降する以外の機能は無いだろうね。一先ず、下まで行こうか」
そう言って瑠璃とイヴは横並びになって、冷える外階段を一緒に下っていく。
石の階段は十四段で踊り場を迎えて折り返し、二十八段で一階層下がる。それをあと五階繰り返して二階に着くと、取り分けて長い一階で、更に二回繰り返す。
七階、四階、二階には高さ二メートル程度の掃除用具入れのロッカーが置かれており、瑠璃は訪れる度に毎度その全てを開けて、ロッカーの奥の壁を押し込む。
「さっきから何してるんです? 探偵さん」
「秘密の抜け穴を探してるんだよ。正直、あの監視体制で人に見られず聖女を攫いだすのは無理だ。何かしらの秘密の抜け穴でも無ければ実現不可能だと思ったが――」
ロッカーは人が出入りできそうな幅と高さを持っているが、調べたところで道は繋がっていない。仮に抜け道があったとして、それはここではないのだろう。
やがて、二人は最下層まで到着する。
「怪しいところは」
「無かったですね」
そう言い合いながら扉を抜けて受付に戻り、大袈裟に驚く彼女に瑠璃は挨拶する。
「やあ、お姉さん、さっきぶりだ。枢機卿から話は聞いているかな?」
外階段を下りるには充分時間をかけた。わざわざ全てのロッカーを念入りに調べたのだから。
「はい。捜査に協力しろと」
「よし来た。それじゃあ幾つか質問をさせてもらおうか」
瑠璃は唇を湿らせ、用意していた質問を幾つか彼女に叩きつけた。
「聖女が失踪した日の朝、テッド・ロスが外階段を使った様子を君達は見たかい?」
「その日の当番は私ではなかったのですが――そうですね、当番の子は見たと」
「オーケー、じゃあその後。彼が聖女の失踪に気付いて戻ってきたのは事実?」
「あ、はい。それは私も知っています。血相を変えて飛び込んできました。受付の子曰く、ちゃんと外階段から来ていたそうです。嘘ではありません」
少なくともテッドの証言に嘘がないことは判明した。
「ちなみに、外階段に魔素があったかどうかは確認した?」
「中央階段も含めて、事件後に怪しい点は一通り捜査しましたが、関連するような魔素はありませんでした」
魔術が使われていないのであれば、この事件は現代日本でも起こり得る誘拐事件である。
つまり瑠璃の思考の範疇の事件だ。こういうのが欲しかった。
「ありがとう、聞きたいことは訊き終えた。ところで――同じく聖女の居場所を知っていた他の司教たちとも話をしたいんだけど、アポイントメントを取ることはできるかな?」
すると、受付は一瞬面倒そうな顔を歪めたが、必要なことだと割り切って頷いた。
「ええ、まあ。皆さん、この大聖堂でお仕事をされていらっしゃいますし、今のところは帰られていないはずです。今から手配をするので少々お時間いただきますか?」
瑠璃は頷く。
「構わない。悪いね」
「いえ、仕事ですから」
そう言って控室の方に一瞬顔を覗かせた彼女は、何やら事情を同僚に説明した。
瑠璃とイヴはその背中を暫し眺めた後、「どこかで時間を潰していてください」と振り返った受付に促され、「じゃあ、八階の監視に会いに行ってくる」と手を振った。
再び中央階段を上って監視に会いに来ると、男性が椅子を立って腰を折る。
「お勤めご苦労様です!」
「お疲れ様です!」
「やあ、お疲れ様。その様子じゃあテッド・ロスから話は聞いたのかな?」
「はい、何なりと取調べをなさってください」
慇懃過ぎる態度に苦笑をした後、瑠璃は気になっていたことを尋ねる。
「じゃあ早速なんだけど、ここから外階段の出入りを見ることってある?」
「どうしても退屈で暇な時に近くを歩くことはありますが、基本はここに座っていますので、見ることはないですね。だから、ここから外階段の出入りには気付けないです」
瑠璃の読み通り、あくまでもここは中央階段を抜けてきた人間しか監視できないらしい。
「普段、退屈だろう。本当にお疲れ様だ」
「はは、ありがとうございます。確かに最初は、ここで監視業務が必要とされている理由すら説明されていなかったので、懐疑的になる事もありましたが……まさか聖女様だったとは」
監視が声を潜めて囁くから、瑠璃は「驚きだよな」と肩を竦めて同意した。
「ところで、この階層の間取りとか、部屋の詳細を訊いてもいいかな?」
そう言うと、監視は頼られたことが嬉しいのか、「勿論です!」とデスクから十数枚の厚い書類の束を取り出した。そして、高揚した様子で椅子を立ち上がる。
「自分で良ければこのままご案内しますよ、今は監視の意義もありませんので」
確かに、監視が聖女の安全を確保するためのものなのだとすれば、今は無意味な存在だ。瑠璃は素直にお言葉に甘えることにした。
監視が取り出した書類は、この大聖堂の間取り図だった。一階から十八階まで全ての階層の間取り図になっており、それを拝借した瑠璃はパラパラと目を通す。
見たところ、聖女の部屋へと繋がる秘密の抜け穴のようなものは見つからなかった。
そして肝心な八階の間取り図を見ると、部屋は聖女の寝室を除いて、合計で五つ。監視は意気揚々とそれぞれの部屋へ瑠璃とイヴを連れていき、紹介をしていく。
一つ目。T字を左折した通路の左手前。
「この階層の部屋は全体的に使われていませんが、この部屋はそれでも比較的人が訪れるかもしれません。単なる雑多な物置ですが。備品管理もされていないので、置いたら失くす可能性が高いですし、あるものは勝手に使っても構わないだろうという共通認識ですね」
二つ目。T字を左折した通路の左奥。
「この部屋は元々会議室でしたが、今は誰も使っていません。部屋に空きが無ければ使うことになるかもしれませんが、先ずは掃除からだと思います」
三つ目。T字を左折した通路の右手前。
「ここは書庫です。ただし、書庫と言っても主に改修工事とかの設計図が置いてある部屋で、基本的には立ち入ることはないでしょう。外階段の設計図とかもあります」
四つ目。T字を左折した通路の右中央。
「ここも書庫です。こちらは教会業務に関連する資料や文献で守秘義務のないものを主に集めている場所で、出入りは自由です。まあ、在庫の墓場のようなもので」
五つ目。T字を左折した通路の右奥。
「こちらも元々は会議室です。現状は、ご覧の通りで。まずは掃除から」
八階の間取り図を持ちながら説明を終えた監視は「以上です」と慇懃に一礼をした。
一通り見て回ったが、見ただけでは大きな異変は見つからない。しかし、この階層の情報を深掘りできたというだけでも有意義な時間だっただろう。
「助かったよ、ありがとう」
「ありがとうございました!」
瑠璃とイヴがそう会釈をすると、監視は満足そうに「いえ!」と間取り図を持ってデスクへ戻っていった。とても仕事熱心であり、少なくとも彼が居眠りをして人を通してしまったなどの事態は考えづらい。そうなると、聖女をどこから誘拐したかが本当に分からなくなる。
もう少し考察したいところだが、そろそろ良い時間だろう。
瑠璃とイヴは一瞬視線を合わせた後、同じことを思い合ったと察して、監視に別れを告げてから一階へと中央階段を降りていった。
「聖女様はどこから連れていかれてしまったのでしょう」
階段を下りる最中、イヴが悩ましそうに呟く。瑠璃は「さて」と肩を竦めて応じる。
「前日夜九時から翌朝七時までの間に行われた犯行であることは、それぞれに二人ずつ証人が居ることから概ね確かなんだろう。でも、その間に聖女の部屋を訪れる人間は、外階段か中央階段を使う必要があり、前者なら受付の目につく。後者は監視に見られる」
「こっそり、っていうのは難しいですよね?」
「難しいね。それに、魔術も使っていない。何か致命的な見落としをしているか、それとも、極めて巧妙なトリックがあるか」
イヴは服を胸元できゅっと握り締め、不安そうに俯いて呟いた。
「聖女様……ご無事だといいんですが」
不安定に揺れる声色は、彼女の落ち込んだ心情をこれでもかと表している。
先程も言った通り、下手な慰めは好きではない。しかし、瑠璃なりの美学や持論が結果として相手の悩みを払拭することはあるかもしれない。
「死体が見つかるまでは何とも言えないね」
「……そうですよね」言いながらイヴは自分を鼓舞するように唇を噛み締めて拳を握る。
そんな彼女へ、瑠璃は激励の言葉を続けた。
「でも、死体が見つからないと、誰も何も言えない。悼むことさえ許されない」
イヴは一瞬動揺し、そして震える目で瑠璃を見た。
「生還を喜ぶのも、死を悼むのも、どちらも真相の果てにある。今、彼女を知る誰もがそれを許されない現状に居るんだ。誰かがやらなきゃいけない。言いたいことは分かるね?」
イヴはぎゅっと自分の両頬をつねって引っ張り、頬を真っ赤にさせて瑠璃を睨む。
「『ウジウジしてないで、捜査を進めるぞ!』」
「それでいい。行くよ」
一階に戻った頃には、ちょうど受付が関係者への面会手配を済ませてくれていた。
容疑者は現状、七人。まず、テッドとタチアナについては既に接触を済ませた。
残すところは五人だが、受付曰く、
「フレッドさんはクロリラ大聖堂に泊まりで往診へ行かれたようで。こちらに顔を出すのは明日の夜――場合によっては明後日になるかもしれません」
聖女の主治医は多忙で不在らしい。
しかし、クロリラ大聖堂といえば――そう思いイヴを見ると、彼女は頷き返した。
そう、イヴが世話になったという場所である明日の朝にでも向かえば、彼女の顔を利用して接触できるかもしれない。それなら今は、会える四人から消化していくべきだろう。
そんな具合で、残る四人との面会が始まった。
一人目、マイク・ロールズ枢機卿。
年齢は六十歳。毛髪を完全に剃り切った禿げ頭で、法衣を着崩している豪放磊落な男性だ。
「俺はその日、家に帰って女を抱いていたな。抱いた女に聞けばアリバイは分かるぜ?」
マイクは、大聖堂二階にある給湯室で酒瓶を片手に赤ら顔で言った。
瑠璃とイヴはとんだ破戒僧に目を合わせて困惑を示す。しかし、日輪教では即物的な生き方を咎められないのかもしれない。何より人様の宗教に口出しはできまい。
「なるほど。一応確認だけど、聖女の部屋がある八階には行った?」
「あ? 八階? ……七階じゃなかったっけか?」
眉根を寄せて胡乱に虚空を見詰めるマイク。ボケているのか、酔っているのか。
「八階だよ」
「そうだったか。まあ、行く理由もねえから行ってないな。証拠はねえけどよ」
ここでテッドやタチアナと違って、自らのアリバイの為に監視や受付の名前を出さない辺り、本当に何も知らない可能性が高そうだ。
「それならいいんだけどね。しかし……なんで君みたいな人間が聖女のことを教えてもらってるんだ? 責任感の欠片も無さそうじゃないか」
「た、探偵さん!」
流石の言い草にイヴが制止の声を上げるが、マイクはそんな物言いに微動だにせず「ガッハッハ!」と漫画でしか聞いたことの無いような豪快な笑い声をあげた。
「そりゃ嬢ちゃん、あれよ。俺があのガキを大聖堂に迎え入れた発案者だからよ」
これまた意外な情報に、瑠璃とイヴは目を合わせた。
「君が?」
「おう、俺が」
「何で」
「何でだったかなあ……なんか、噂を聞いたんだよな。地方に凄い魔術を使える子供が居るってよ。んで、そんな話を司教仲間と……テッドとエリックだったか。話している内に、象徴として迎え入れようってなったんだったか。もう何年も前だったからなあ」
そこまで聞いて、瑠璃は確信する。
聖女の情報を知っている人間は、理由もなく誰かから教えてもらったのではない。
聖女という存在を大聖堂で生かすために必要な存在に、必要に駆られて周知されたのだ。
テッド・ロス。マイク・ロールズ。エリック・トンプソン。この三名は発案者。
医者のフレッド・グロスとお世話係のタチアナは言わずもがな、必要だった。
ドリス・ジーナはお世話係を除いて教会側唯一の女性だ。同性を用意する必要はあるだろう。
そして、トニー・アルゼイドは管理者だ。最終的な決定権を有する人物故に無視はできない。
図らずしも、口の堅いテッドからでは得られない情報を得ることができた。
瑠璃は微かに笑った後、イヴに目配せをしてから席を立つ。
「オーケー、色々教えてくれてありがとう。最後に一つ。聖女の事をどう思う?」
瑠璃が他の面々に訊いたことを同様に尋ねると、彼は少し真剣な顔を作った。
「あのガキのことはあんまり詳しくねえが……二十歳にも満たない小娘が攫われたなんてのは、痛ましく思うよ。お陰で酒しか手に付かねえ」
どうやら女遊びは控えているらしい。瑠璃は苦笑をして腰に手を置いた。
「もう大丈夫――長生きしなよ、爺さん」
「はっは、嬢ちゃんより先に死ぬつもりはねえなあ」
二人目、エリック・トンプソン大司教。
年齢は四十三歳。亜麻色の短髪をした神経質そうな眼鏡の男性だ。
「前日の晩は普段通り八時に家に帰って家族と過ごしたな。翌朝に来た時には、既に聖女は居なくなっていた。俺のアリバイについては、受付が証言してくれるはずだ。教会を出入りするには絶対に受付を通る必要があるし、彼らは管理職の出入りは把握している。こちらはあアリバイとしては弱いかもしれないが、俺の家内も証言してくれるだろう」
十一階の執務室で淡々と作業を進めながら理路整然とそう答えるエリックは、先ほどのマイクよりは幾分か話しやすいように感じられた。
瑠璃は改めて聞くまでもないことを、話を進める相槌として尋ねた。
「つまり、その時間は大聖堂に一歩も足を踏み入れていないと」
「そうなる。時間はかかるが、必要なら人を呼び寄せて証明することも厭わない」
「いや、少なくとも聖女の部屋を出入りしていないという情報はこちらでも掴んでいる。更に疑うのであれば相応の根拠を引っ提げてからまた来るよ。それより――」
アリバイについては、今、確認したところで事件を暴ける気がしない。
それよりは、動機やトリックの方を深掘りする方が賢明だろう。
「――今回の事件、十中八九、聖女は誘拐をされたと思う」
瑠璃がそう切り出すと、エリックも緩やかに首肯する。
「俺も同感だ。彼女は自分の足で動ける状態ではなかったと医者から聞いた」
「であれば、犯人は聖女の部屋に中央階段か外階段を使わなければ行けなかったことになる。しかし、そのどちらも人を運べば異変を察知できる見張りが付いている」
「何か抜け穴に心当たりは無いか? とでも聞きたげだな」
「話が早いね」と瑠璃が賛辞を贈れば、エリックは眼鏡を軽く上げて目を瞑る。
「この大聖堂に来てから俺もそれなりに長いつもりだが、心当たりは無い。少なくとも、俺が普段利用する場所にそのような類のものは存在しないだろう。と、思う」
断言をできないのか、その可能性を否定しきることはできないからか。
言葉を濁したエリックに何度か頷いた後、瑠璃はこう尋ねた。
「最後に一つ。君は聖女の失踪をどう思う? 感じたことを自由に答えてほしい」
唐突な疑問だっただろうが、エリックは深く訝しがることもなく腕を組んで応じた。
「解せない。というのが本音だな」
これはまた、二人にとって予期していない返答だった。
イヴが真っ先に首を傾げて口を挟む。
「……解せない、ですか?」
頷いたエリックはこう続けた。
「恐らくリアナ・ローダーは誘拐されたはずだ。だが、そのメリットが見当たらない。日輪教を疎ましく思うが故に聖女を攫ったのだとしても、それが公にならなければ象徴の破壊と権威の失墜には不完全だ。かといって身代金を要求するでもなし――犯人の目的が分からない」
どうやら彼の焦点は瑠璃と同じ部分に据えられているらしい。
『動機』。今回の事件はそれが分からないのだ。瑠璃はそれを再認識して会釈をした。
「ありがとう。面白い話が聞けたよ」
三人目、ドリス・ジーナ司教。
年齢は三十三歳。赤毛にそばかすが可愛らしい妙齢の女性だ。
「その日は大聖堂に泊まって徹夜で作業をしてたわね。何人か教会の子と一緒に泊まり込みだったから、長時間席を外せば、お互いが気付いたと思う。全員が全員のアリバイを証明するわ」
ドリスは魔改造して丈の短い修道服から伸びる脚を、組み、熱を帯びた目で瑠璃とイヴを見た。話の内容と今の所作から、そっちの気が強い女性らしいことが分かる。幸いにも瑠璃のタイプも年上の素敵なお姉さんであり、こんな状況でもなければ一夜を共にしたいものだった。
さて、面々がそんな話をする場所は、ドリスがその日も作業をしていたという五階の執務室。
面会ということで席を外してもらったが、先ほどまで周辺には修道女が数名居た。
後ほど、彼女の証言の裏どりをするとしよう。そう決めて瑠璃は頷いた。
「なるほど、ありがとう。ところで――色々と聞いて回ったところ、聖女の情報を知っている人物は皆、聖女と何らかの接点を持っているようだけど、貴女は?」
薄っすらと推測は立っていたが、あくまでも推測だ。
瑠璃が率直に訊くと、ドリスは「ふふ」と可笑しそうに笑った。
「同性ということで、異性にはできない身の回りのことを要求されたわ」
「……でも、今はタチアナがそれをしているようだ。何故?」
「貴女はもう分かってるんでしょう? 言わせる気?」
扇情的に修道服の裾を摘まんで持ち上げ、艶めかしく脚を組んで瑠璃を誘惑するドリス。
「あわわわ」と顔を真っ赤にさせて分かりやすく狼狽えるイヴを愉快に一瞥し、それから瑠璃は立ち上がる。ローテーブルを挟んだ向かい側のソファに座る彼女へ歩み寄った。
そして、彼女の組んだ柔らかい脚に手を置き、唇が触れそうな距離で応対する。
「惜しいね。こんな状況でもなければ貴女と一夜を過ごしたかった。最高にタイプだ」
「あら、私はいつでも歓迎よ? 素敵な探偵さん」
「生憎、この国に居られる時間はそう長くない。いつかまた来た時、それでもいいのなら」
「……私はいいけれど、その時にはもういい年のおばさんかも」
やや自嘲気味にドリスが笑うから、瑠璃は唇を微かに曲げ、その頬に手を伸ばす。そして赤毛をそっと指で捲り上げ、露になった頬に腰を折って唇を付けた。
「大丈夫、幾つになっても貴女はきっと美しい。願わくば、犯人でないことを祈るよ」
格好つけてそう言い残すと、彼女の余裕に溢れた表情が微かに崩れる。
ドリスは微かに染まった頬を片手で隠しつつ、組んでいた足を下ろして瑠璃を見詰めた。
そうして彼女の部屋を後に――しようとして、瑠璃は思い出して踏み止まる。
「最後に一つ。聖女の事件について、貴女はどう感じた?」
ドリスは火照った顔を手で扇ぎながら不思議そうに首を傾げた後、ひとまず、答えた。
「話した時間は長くないけれど――彼女は、心から人を想える優しい子だったわ。できることなら早く見つかってほしいとは思っている。けど……」
痛ましい表情で濁した言葉の先は、確かめるまでもないだろう。
瑠璃は手で言葉を制し、もう大丈夫であるという旨を首肯で伝えた。「ありがとう。おやすみ」瑠璃はそう言って、イヴと共に部屋を出て行った。
それから二人で次の部屋に向かおうとしていると、気付けばイヴが何とも言い難い曖昧な表情で瑠璃を見上げていた。瑠璃が軽薄な笑みを返すと、イヴは慌てて微かに距離を取る。
「み、身の危険を感じます」
瑠璃は呆れた顔で肩を竦めた。
「そんな節操ないみたいに言わないでくれ。私のタイプは年上の素敵なお姉さんだ」
イヴはその言葉に安堵をしつつも、しかし少々複雑そうに頬を膨らませた。
四人目、トニー・アルゼイド司教。
年齢は五十二歳。顎ヒゲが目立つ痩せこけた男性だ。プリマ大聖堂の管理人である。
「私は夜の十時には大聖堂を出たよ。でも、それまでの間は秘書と一緒に居た」
プリマ大聖堂の管理人室にて面会をしたトニーは、そう言って傍らの男性を一瞥する。
体格がよく胸板の厚い修道服の男性は、寡黙に頷いてそれを認める。
「朝は?」
「大聖堂の管理人として恥ずかしい限りだが、騒ぎが起きてしばらく経ってから届いた電話で、飛び起きたよ。無論、それまではずっと家に居たが――うん、電話のタイミングだけ家に帰ったんじゃないかと疑われた場合、それに反論する手段は無いかな」
トニーは温和に自らの主張の粗を指摘し、その態度は彼が犯人ではないのかと思わせるような殊勝さがあった。とはいえ、この情報から犯人だと断定できない状況を知っているが故の余裕である可能性もある。瑠璃は油断なくトニーを眺めた。
「聞くところによると、君はこの大聖堂の管理人みたいだが」
「ああ、その通りだ。もう十年になるかな」
「じゃあ、聖女がこの大聖堂に匿われているのを君が知っているのは、管理人だから?」
尋ねると、彼は迷いなく頷いた。
「ああ。新たな人物を聖女として大聖堂に招き入れるからね。部屋をあてがい、予算を工面し、人手を割く必要が出てくる。それらの資金繰りを完全に私に秘匿することはできない。それ故、マイク君達が必要に駆られて相談に来たよ。無論、私は快諾した」
「なるほど」瑠璃は何度か頷いて「ありがとう」と自身の推論が正しかったと確信する。
さて、これで七名全員が聖女と接点を持ち、それにより聖女の居場所を知らされていたことが分かった。彼女の中に象徴を見出した人間が居て、象徴を象徴として成立させるために巻き込まれた人間が居る。誰にでも誘拐の動機を抱く余地はあるように思われた。
後は、誰が、どうすれば聖女を誘拐できるか、だ。
瑠璃が話の最中に黙って考え込むと、それをトニーが穏やかに見詰める。
「……君達は、どうしてあの子を捜そうとしてくれるんだい?」
瑠璃とイヴに対する問いかけだった。
二人で思わず顔を見合わせる。聴取で、まさか逆に質問をされるとは思っていなかった。
答える義理は無いが、黙っている理由も無い。先んじてイヴが堂々と答えた。
「理由は無いです。誰であれ、身近な人が居なくなったら捜します」
正義の味方とは、困っている人を平等に助ける者なのだろう。だからきっと、瑠璃はイヴのように正義の味方を名乗ることはできないかもしれない。だが、そんな肩書は要らない。
「
二人の返答を聞いたトニーは瞳を瞑って言葉を噛み締めると、膝の上で手を組んだ。
「……この大聖堂に来た時、彼女はまだ十一歳だった。親に見捨てられ、教会の孤児院に拾われて生きてきたそうだ。だが、それでも彼女は腐ることなく、自分の病気に由来する魔力を人のために躊躇いなく使い、そうして人に笑顔を与える存在だった」
トニーは酷く気落ちした吐息を挟んでから、こう続けた。
「私の記憶に新しいのは、衰弱した彼女の、やせ細った姿だけだ。六年前の英気に満ち溢れて居た頃の彼女はもう、覚えていない」
後天性魔素化症候群。肉体が魔素になるという難病はそこまで彼女を蝕んでいたようだ。
話を聞く限り、つまりは物を触り、物に触れられるこの手が、誰にも触ることのできない魔素へと変貌する病気ということなのだろう。果たしてどれだけの苦しみと恐怖が聖女を――リアナ・ローダーを蝕んでいたのかは想像に難くない。
「人のために生きてきた彼女が、どうしてこんな憂き目に遭わなければいけないんだと、世の不条理を憎むばかりだ」
やがてトニーは顔を俯かせて肩を震わせ、大聖堂の管理人として深く頭を下げた。
「どうか、頼む。彼女を見つけ出してくれ。願わくば、無事に」
用意していた聖女の誘拐事件についての問いは、彼には必要なさそうだった。
関係者への聞き込みが完了して、時間帯は既に夜中へと差し掛かろうとしていた。
もう大聖堂でできることはないだろうと判断し、瑠璃とイヴは一度撤収をする。
大聖堂の外は真っ暗で、来る時には点いていた家屋の照明はすっかり消えていた。暗い夜の街を街灯と、それから星空ばかりが照らしている。
「……トニーさんとタチアナさんは、犯人じゃない気がします。何となく」
大聖堂前の塀に背を預け、並んで星を眺めること暫く。イヴがそんなことを言った。
瑠璃はそれをちらりと見た後、同感を抱きつつも同意はしなかった。
「助手。一つ忠告をすると、探偵は推理の際、感情に振り回されちゃいけない。感情を鵜呑みにしてもいけない。追い詰められた人間はどんな手段でも使うからね」
同情を引くために家族のことを口にする者も居れば、嘘を吐く者も居る。
自分の罪から逃れるためにありとあらゆる手段を弄する連中に彼女の善意が踏み躙られるのは耐え難い。だからこそ、今ここで瑠璃は忠告をするべきだと判断した。
イヴはその手厳しい指摘に、しゅんと肩を落とす。眠そうに目を擦った。
「ただ、共感はしてもいい。それは武器だ」
そう付け加えると、イヴは少々驚いたようにこちらを見る。
「彼らの悲哀は本物だったように思うよ、私も」
演技を見抜けるほどの慧眼だという自負は無いが、それでも、そう感じた。
イヴも同じだったのだろう。彼女は頷く。
「はい」
「だからそれは、目を背けるためじゃなくて、真相を暴くための燃料にしよう」
もしも事件に酷く悲しむ人間が居るのなら。
その人物を容疑者から外すことが探偵のすべきことではない。その人物の想いも受け継いで、真相を暴くのが、依頼人の想いで動く探偵という職業だ。
ほんの僅かばかりの付き合いになるかもしれないが、それでも彼女が自分の助手だとするのなら、それは念頭に置いておいてもらいたい。
瑠璃の告げた言葉を噛み締めて肝に銘じ、イヴは真っ直ぐ瑠璃を見た。
「はい」
二度目の首肯は、先ほどよりも少し力強かった。
瑠璃はふっと笑い、塀から背中を離してイヴの肩を小突いた。
「さあ、今日はもう遅い。早く帰って明日に備えよう」
「了解です! 今日はあんまり活躍できなかったですけど、明日こそは頑張りますから!」
「はは、期待しない程度に期待しているよ」
瑠璃はそう言いながら、イヴを見送って適当なホテルを見繕おうと視線を彷徨わせた。
しかし、同様に帰ろうと足を動かしたイヴが、ふと思い出したように立ち止まった。
「あ。そういえば探偵さん、お住まいはどちらに? 異世界に帰ってるんですか?」
勝手知ったる自宅のベッドを恋しく感じながら、瑠璃は頭を振った。
「まさか、事件解決までは帰れない約束でね。適当にその辺のホテルを使う予定だ」
言うと、「ああ」と得心したようにイヴが呟く。そして彼女は控えめな胸をポンと叩いた。星空の下、彼女は安心感を与えるような微笑みを見せた。
「でしたら、私の家に来てください。身元保証人になってくれたクロリラ大聖堂の方が、私に住む場所を用意してくださったんです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます