改訂 昇り龍 与力藤堂八郎②

牧太 十里

一 斬殺

 水無月(六月)二十日。夜九ツ(午前〇時)。

 辺りが寝静まり、雨がそぼ降る深夜、神田花房町の料亭兼布佐の母屋の塀を跳びこえ、黒装束の者が中庭に舞い降りた。夜盗だ。夜盗は裏木戸の閂を外し、塀の外にいる黒装束の三人を導き入れた。料亭兼布佐は連日盛況のため、主の兼吉の家族も奉公人も疲れてぐっすり寝込んでいた。四人の夜盗に気づいた者はいなかった。


 夜盗は中庭の松の木陰に身を潜めて周囲を見張り、母屋の奥座敷の外廊下に上がった。水無月(六月)にしては蒸し暑い夜だったため、奥座敷の雨戸は開いていた。四人の夜盗は静かに障子戸を開け、奥座敷に侵入した。


 主の兼吉と女房の布佐、そして一歳の娘由紀は奥座敷の寝所で褥に身を横たえていた。

 親分格の夜盗の指示で、褥で寝ている兼吉と隣の褥で寝ている女房の布佐に、一人ずつ夜盗が近づき、一人が一歳の娘の由紀に手を伸ばした。

 夜盗が兼吉を背後から羽交い締めにして口を押え、首筋に匕首あいくちを当てた。その瞬間、兼吉が目を覚し、事の次第を一瞬に理解した。兼吉は慌てなかった。金子さえ渡せば皆助かるだろう・・・。


「オイ、声を出すんじゃねえ。出すと、ガキがあの世行きだぜ・・・」

 親分格の夜盗の指示に、分かった、と兼吉は頷いた。

 兼吉が頷くと同時に、隣の褥で寝ている布佐は、他の夜盗に羽交い締めにされて口を押えられて目を覚した。一歳の娘の由紀を見ると、もう一人の夜盗の腕の中で眠っている。

 娘の由紀を抱いている夜盗の手は無骨な男の手ではない。ほの暗い有明行灯の明かりにもかかわらず、布佐は一瞬にその事を見て取った。布佐の心に一筋の希望の光が射したような気がした。由紀の命だけは助かる・・・。祖父母の家へ泊りに行っている倅芳太郎は無事だ・・・。


「溜めこんだ金子があるだろう。どこにあるか言え。白を切るんじゃねえぞ。ガキと女房を仏にしたくねえだろう」

 夜盗に羽交い締めにされている兼吉に、親分格の夜盗が穏やかにそう言ったとき、由紀が目を開けた。布佐は驚いたが声を立てなかった。由紀を抱いている夜盗は由紀をあやした。由紀は目を閉じて眠った。布佐はほっと安堵した。


「ここの台所の床下だ。味噌や醤油の瓶といっしょに、瓶に金子を入れてある」

 兼吉が金子の在りかを明かすと、親分格の夜盗と兼吉を羽交い締めにしている夜盗は、兼吉の首に匕首を当てたまま、母屋の台所へ連れてゆき、床下から三百両の金子を納めた瓶を取り出させた。

「あったぜ。もう用はねえ。殺れ」

 親分格の夜盗の指示で、兼吉を羽交い締めにしている夜盗は兼吉の首を匕首で斬った。

 兼吉は声も出せずに首を押えて吹き出る血を止めようとしたが、呆気なく事切れた。夜盗は、これまでに、商家や料亭の主たち何人もの首を斬って盗みを働いたらしく、頸動脈を斬る手口に慣れていた。


 二人の夜盗は寝所に戻り、二人の夜盗に、

「三百両もあった。女房とガキを始末しろ」

 と小声で指示した。夜盗の黒装束から血の臭いが寝所に漂った。


 夜盗から漂う血の匂いに、兼吉が斬殺されたと気づき、布佐は悲鳴を上げようとしたが、夜盗に口を押えられて声が出ない。

 父の異変を知ってか、由紀が他の夜盗の腕の中で泣きだした。夜盗は由紀を抱きしめて由紀の背を圧迫した。

 夜盗はこのまま由紀を圧死させる気だ・・・。そう思った布佐はもがいた。布佐の足が由紀を抱いた夜盗の足を払い、由紀を抱いた夜盗がひっくり返って布佐の上に倒れた。

 布佐は体勢を崩した。その時、布佐の手が布佐を羽交い締めにしている夜盗の右袖に絡んで引き、夜盗の匕首の柄が布佐の顎と鼻を直撃した。

 布佐の口から大量の血が流れ、意識を朦朧となった。気を失う寸前、布佐は夜盗の肌けた右胸に『辰巳下がりの彫り物』を見た。


 口から大量の血を流して倒れた布佐を見て、布佐を押えていた夜盗は、布佐が死んだと思った。

「はええとこ、ずらかるぜ。ガキを始末しろっ」

 親分格の夜盗が、由紀を抱いている夜盗を睨んだ。

「あたしにゃあ無理だわ・・・。こんなにかわいいんだよ・・・」

 由紀を抱いている夜盗は腕を解いて、由紀を夜盗に見せた。

「たしかに・・・。だが、置き去りにして喚かれたら事だぜ。気を失ってるんか」

「そうだよ。あたしたちの子どもにしようよ。ねっ、いいだろうっ。まだ、一つだよ。憶えてなんかいないさ」

 この夜盗は女だ。しかも、由紀の歳を知っていた。

「しゃあねえな。じゃあ、連れてゆけっ。ずらかるぜっ」

 夜盗たちは由紀を連れて奥座敷から中庭に出た。中庭の松の木陰に身を潜めて周囲を見渡し、誰もいないのを確認すると、料亭兼布佐の母屋の中庭から裏木戸を抜けた。

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