第36話:祖母

 俺は舐めていた。

 ヒナ先輩の提案は、結局のところあまり今までと違いがないのではないか? と思っていたのだ。


 今までも二日に一度ほどの同衾や、ミンさんの手料理、共に過ごす時間は非常に多く濃密で、それが恋人ごっこや新婚ごっこを優に超えるほど近しい距離感だと思っていたからだ。


 本当のそれならまだしも、たかだかごっこ遊びで同衾以上のことをするわけがなく、やることはいつもと変わらない。

 だと思ったから、俺は頷いたわけだ。


 ……そして今、その想定があまりにも甘く青いものだったと……自分の身にふりかかったそれに思い知らされていた。


「……あの、ミンさん、ここまでひっつく必要はないのでは?」


 あのあと……ヒナ先輩はミンさんを説得しにいき、呆気なく了承が得られた。

 断られるものだと思っていたが……。


「カモメも離れた方が……というか、メンタル強くないか?」

「この浮気男」


 カモメさん、昨日の宣言通り一方的に恋人だと自認してる……。


「ひっつく必要はあるよ」

「あるんだ……。それはこの俺が感じている気まずさを越えるほどにですか?」


 ごく普通の小市民として、両側から女の子にくっつかれている状況は何か異常な罪悪感を覚えてしまう。


 というかヒナ先輩から聞いたミンさんとのお試し期間とやらは今日からではないはずではなかったっけな……。


「……あのね、よく聞いてほしい、藤堂く……トウリ……とーくん?」

「呼び方は今まで通りでいいのでは」

「お兄ちゃん」


 付き合うとかそういう感じの話なのにお兄ちゃん呼びはまずいだろ……。俺が変な性癖に目覚めたらどうするつもりだよ。


「それで、ヒナさんはなんでそんなことを言い出したのか、私なりに考えたんだ」

「……こういうとき、ミンさんってだいたいボケるから今もう身構えてるよ、ツッコミを」

「たぶん……好きなんだと思う。好きな男の子を取られて悲しい感じになるのが」

「親の心子知らずにも程がある」

「そういう……性癖なのかなって。だから、私たちは、こうやってくっついてヒナさんを喜ばせることに全力を尽くさなければならないんだよ、お兄ちゃん」


 たぶんありとあらゆることが間違っていると思う。

 ……まぁけど、ズレているとは言えどもミンさんなりにヒナ先輩を喜ばせようとしてるんだよな……。


「……俺は、俺は……妹みたいに思っていた二人に囲まれて何をしているんだ」


 ひとり項垂れていると、目元の腫れが引いていないカモメにポンポンと肩を叩かれる。


「平気だよ、トウリ。「ああ、いやいや、コイツ妹みたいなもんだし(笑) 女として見てないし(笑)」と言いながら手を出すのはチャラ男あるあるだから」

「俺のことチャラ男だと思ってる? というか、カモメのことは本当に一切そういう目で見てないからな」


 俺の反論を聞いたカモメはスッと俺の手を取って、自分のふとももを触らせる。

 俺が慌てて手を退けると、カモメはじとーっと俺を見る。


「ちょっと触ったぐらいで慌ててたけど、本当に女の子として見てないの?」

「ぐ……。いや、その……たぶん、実の妹でも気まずくはなるだろ、そんなのされたら」

「ならないと思うよ」


 ……気まずい。すごく気まずい。


「……トウリって酷い男だよね。フッた翌日にこれだよ」

「いや……まぁ、うん、ごめんなさい」

「いいけどさ。……僕もだいぶアレな奴である自覚はあるから人を責められないけど。……それで、トウリは僕とデートするから、川瀬さんはその手を離してくれないかな」

「……不倫?」

「違います。……というか、カモメの目、腫れてるしあまり外出するもんじゃないだろ」

「お家デートでもいいよ。安上がりな女なのだよ、僕は」


 カモメはそう言いながらペタリと俺にくっつく。……遠慮しないなぁ、この子。

 まぁ、一緒にいられる時間なんてあまりないだろうしな。


 いつ親が逮捕されるのかも分からない中だし、遠慮していられる場合でもないか。


「……両親と過ごさないのか?」


 俺がそう尋ねると、カモメはスマホを取り出して親とのメッセージを見せる。

 ……最後のやり取りは半年前だ。電話もかかっていないようだし……ああ、まぁ、そうなのだろう。


「ゆっくり家族の最後の団欒なんて、とっくに過ぎているから、気にしなくていいよ」

「……了解。それはそうとして、ちょっと小一時間だけ外出していいか?」

「……やだ」


 ぽすぽすとカモメの頭を撫でて、首を横に振る。


「ゴールデンウィークの間に一回は顔出しとかないとダメでさ」


 俺がそう言うと、ミンさんはこてっと小首を傾げる。


「どこに?」

「婆さん家。……一応実家ってことにはなるのかな。あまり仲良くはないけど、流石に長期休暇で顔を見せないわけにもいかないし、何か郵便物が届いてるかもしれないから」

「実家……着替えてくるね」


 もしかして、着いてくるつもりなのか? ミンさん……! 俺の実家に!?


 俺がひとり戦慄していると、ミンさんはいつものお気に入りのヘッドホンを外して、明らかに他所行きのお洋服というような、落ち着いた小綺麗な格好に着替えてくる。


「よし」

「よし、じゃないです。不思議そうに首を傾げないでください。今回は天然じゃなくてわざとでしょう……!」


 どう見ても、彼氏の実家に遊びに行くという名目で顔合わせをするつもりの彼女みたいな格好である。


「あのですね、うちの婆さんはマジで偏屈な人なんですよ。間違いなくミンさんにいちゃもんをつけて不快な思いをさせるので」

「いいよ、大丈夫」

「いや……その、絶対俺が怒って大喧嘩になるので」


 ミンさんは俺の方をじっと見て、ポスリとソファに座る。


「……うん、ごめんなさい」

「いや、すみません。カモメも、そういうことだから」

「怒ってるトウリをちょっと見たくはあるね」

「やめてくれ……。じゃあ行ってくるから」

「……お昼ご飯、何食べたい?」

「えっ、あー……カモメが決めといて」


 ミンさんもカモメも、俺が本気で嫌がっていることが分かってなのか着いてこようとはしなかった。


 ……本気で嫌がっていたらやめてくれるということは、俺が「やめろ」と言いながらも二人がくっついてくるのは……本当は全くもって嫌ではないことを見透かされているのだろうか。


 ひとりで外に出て、周りに誰もいないことを確認してから「うがあー」と呻る。


 いや、仕方ないだろ。

 かわいい女の子に親しげにくっつかれて本心から嫌がるみたいなことが出来る男なんているわけがないし、内心鼻の下が伸びっぱなしになるのは正常な反応だろう。


 ……よそ行きの格好のミンさん可愛かったなぁ。なんかいいところのお嬢様って感じで。


 お互いにヒナ先輩への義理を果たすためのお試しのようなものではあるけど、恋人のようなものか……。


 いや、落ち着け藤堂トウリ。勘違いするな、藤堂トウリ。

 本当の恋人ではないし、ミンさんもそうは思っていないだろう。


 恋人のフリをするぐらいならいいと心を許してもらっているだけだ。本当に交際するとかそういうのではないのだ。


 思わず「げへへ」と言ってしまいそうになりながら、見慣れた道に出て、それから最近まで住んでいた家に辿り着く。


 鍵で入るか……いや、一応チャイムを鳴らすか。

 ピンポーンという音のあと、しばらく待つが中から人の音は聞こえない。


 留守か。……まぁ、一度来たという言い訳があればいいかと思い、郵便物の確認をするため鍵を開けて家の中に入る。


 ほとんど何も変わってない家の中、けれどもどこか居心地の悪さを感じながら郵便物を溜めている棚を見て自分宛のものを見た後、自分の部屋に行き、紙とペンを取って、一度帰ってきたけど婆さんが不在だったので帰るということだけ書いてリビングの机の上に置く。


 それから一応のスマホ代やらのために、事前に卸していたお金を机の上に置いたところで、扉が開く音が聞こえる。


「……トウリ、あんた、帰ってきたんだね」


 俺の靴を見つけてだろう。祖母の声を聞き、思わず眉を顰めながら「ただいま」と返すと、スーパーからの買い物帰りらしい祖母がやってきて嫌そうな顔をして俺を見る。


「なんだい、こんな時間に。急に帰って来られても困るよ」

「……あー、いや、もう行くよ。元気そうでよかった」

「……ふん、可愛げのない子だね。……そのお札はなんだい」

「あー、スマホ代とか。ダンジョンで多少は稼げるから、婆さんも余裕があるわけじゃないだろ」

「いらないよ。相変わらず不愉快な子だよ、あんたは。帰ってきて早々金の話ばかり。……金金金、実家の金しか取り柄のないあんたの母親にそっくりだ」

「……母さんのことは関係ないだろ」


 そのまま外に行こうとしたところで、ゴミ箱の中に開けられてもいない封筒が入っていることと、それに俺の名前が入っていることに気がつく。


「……あれ、なんだこれ」


 それを手に取ると、祖母は露骨に嫌そうな表情を浮かべる。


 ぐちゃぐちゃに握りつぶされた封筒の差出人を見ると『花月 将道』という名前が記されていた。


 知らない名前……だが、家名には見覚えがあった。母親の旧姓だ。


「……母さんの、実家?」


 俺の両親を追い詰めた、俺の母さんの実家からの手紙だ。

 思わず祖母の方を見ると、見られたくはなかったのか嫌そうな表情をしていた。




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