第2章:『無意識の海へのダイブ』
文化祭まであと1ヶ月。秋の気配が漂い始めた高校の校舎に、心理学部門の熱気だけが異彩を放っていた。サクヤとカオリの初対面から数日が経ち、二人の存在感は部員たちの間で日に日に大きくなっていった。
この日の企画会議は、いつにも増して白熱していた。教室の中央に置かれた大きな机を囲んで、部員たちが熱心に議論を交わしている。サクヤは黒のタートルネックに細身のパンツを合わせ、知的でシャープな印象を醸し出していた。一方のカオリは、淡いピンクのブラウスにフレアスカートという柔らかな装いで、温かみのある雰囲気を纏っていた。
サクヤが冷静な表情で口を開いた。
「私は、フロイトの構造論に基づいた展示を提案します。イド、自我、超自我の概念を視覚化し、来場者に自身の無意識を探る機会を提供するのはどうでしょうか」
その言葉に、カオリが柔らかな微笑みを浮かべながら反論する。
「サクヤさんの案も素晴らしいですが、私はユングの分析心理学を軸にしたワークショップを提案したいです。個人的無意識だけでなく、集合的無意識にも焦点を当てることで、より深い自己理解につながると思うんです」
二人の視線が絡み合う。サクヤの碧眼には知的な輝きが宿り、カオリの琥珀色の瞳には温かな光が満ちている。部室の空気が一瞬、張り詰めた。
(カオリさん、ユングの理論を見事に応用しているわ。でも、フロイトの無意識の概念こそが人間理解の基盤よ)
サクヤの心の中で、興奮と緊張が入り混じった感情が渦巻いていた。
(サクヤさんの論理的な思考は本当に鋭いわ。でも、人間の心はもっと複雑で神秘的なものだと思うの)
カオリも、サクヤの洞察力に感銘を受けつつ、自分の信念を曲げるつもりはなかった。
議論は白熱し、フロイトの「エディプス・コンプレックス」とユングの「元型」の概念が飛び交う。他の部員たちは、二人の高度な議論についていくのがやっとの様子だった。
「フロイトの理論では、幼少期の経験が無意識に与える影響を重視します。これは現代の心理療法でも広く認められている考え方です」
サクヤの声には自信が満ちていた。その姿は、まるで氷の彫刻のように美しく凛としていて、カオリは思わずその横顔に見とれてしまう。
「確かにそうですね。でも、ユングの集合的無意識の概念を取り入れることで、個人の経験を超えた普遍的なパターンも探ることができます。これは文化や神話の理解にもつながるんです」
カオリの反論は穏やかでありながら、芯の強さを感じさせるものだった。その柔らかな表情と確固たる意志のコントラストに、サクヤは心を動かされる。
議論は平行線を辿り、部室の空気はますます張り詰めていった。他の部員たちは、息をひそめて二人のやり取りを見守っている。
そんな中、突然、顧問の山田先生が微笑みながら切り出した。
「君たち、素晴らしい議論だ。でも、このままでは結論が出せそうにないね。どうだい、心理戦で決着をつけるというのは?」
部員たちの間にざわめきが起こる。サクヤとカオリは驚いた表情を浮かべ、山田先生を見つめた。
「心理戦……ですか?」
サクヤの声には、珍しく戸惑いが滲んでいた。
「はい、そうだ。ルールはシンプルだよ。相手に『好き! 愛してる!』と言わせた方が勝ち。ただし、嘘や強制は禁止だ。純粋な心理テクニックだけを使うこと」
山田先生の提案に、部室全体が静まり返る。サクヤとカオリは、一瞬、目を合わせた。
部室に流れる空気が、一瞬にして止まったかのように静まり返った。山田先生の予想外の提案に、生徒たちは息を呑み、互いの顔を見合わせている。しかし、全ての視線が最終的に向けられたのは、部室の中央に立つサクヤとカオリだった。
サクヤの碧眼が、わずかに見開かれる。普段は冷静さを絶やさない彼女の表情に、一瞬の動揺が走った。その視線が、ゆっくりとカオリへと向けられる。
カオリも同時に、サクヤを見つめていた。琥珀色の瞳に、驚きと期待が交錯している。二人の目が合った瞬間、部屋の空気がさらに張り詰めたように感じられた。
(心理戦……? 相手に「好き」と言わせる……ですって?)
サクヤの心の中で、疑問が渦巻く。彼女の頬が、わずかに、しかし確実に紅潮し始める。普段は白磁のように透き通った肌に、薄紅色の色味が広がっていく。その変化は微妙で、おそらく他の誰も気づかないほどだったが、カオリの鋭い観察眼はそれを見逃さなかった。
サクヤの唇が、わずかに震えている。何か言葉を発しようとしているようだが、珍しく言葉が出てこない。彼女の指先が、制服のスカートの端を無意識に掴んでいる。
一方のカオリは、外見上は穏やかな表情を保っていたが、内心は激しく動揺していた。
(サクヤさんと心理戦なんて……私、本当に勝てるのかしら)
彼女の心臓が、小刻みに高鳴り始める。その鼓動は、まるで部屋中に響き渡るのではないかと思えるほど激しかった。カオリは、自分の動揺を悟られまいと、深呼吸を試みる。しかし、その呼吸さえも不規則になっているのが自覚できた。
カオリの手のひらに、わずかな汗が滲み始める。彼女は、それを悟られないようにそっとスカートで拭った。
二人の視線が絡み合ったまま、時間が止まったかのような数秒が流れる。その間、二人の心の中では、興奮と不安、期待と戸惑いが渦巻いていた。
周囲の生徒たちは、固唾を呑んで二人の反応を見守っている。誰も声を発することができず、部屋には重苦しい沈黙が支配していた。
そんな中、山田先生の穏やかな声が、再び部屋に響いた。
「どうかな? 君たち二人なら、きっと素晴らしい心理戦が繰り広げられると思うんだが」
その言葉に、サクヤとカオリは我に返ったように、同時に山田先生の方を向いた。二人の表情には、まだ戸惑いの色が残っているものの、どこか決意のようなものも垣間見えた。
部室の空気が、再び動き始める。
元来、二人とも負けず嫌いな性格。すぐに戸惑いを押し殺し、挑戦的な目つきに変わる。
「面白そうですね」
サクヤの声には、冷静さの中に熱が滲んでいた。
「受けて立ちます」
カオリも、柔らかな笑顔の奥に決意を秘めていた。
二人の視線が再び絡み合う。そこには、火花が散るような緊張感と、言葉にできない期待が混在していた。周囲の部員たちは、興奮気味に二人を見守っている。
こうして、サクヤとカオリの心理戦バトルの幕が上がった。勝負の行方は誰にも分からない。ただ、この戦いが二人の関係を大きく変えることになるとは、誰も予想していなかった。
放課後、サクヤは静かな図書館で一人、心理学の専門書を開いていた。しかし、頭の中はカオリのことでいっぱいだった。
(なぜ、あの子のことばかり考えてしまうのだろう……。これは単なる対抗意識? それとも……)
一方、カオリは自分の部屋で瞑想にふけりながら、サクヤの姿を思い浮かべていた。
(サクヤさん、私の心を読もうとしているのかな。でも、私だって負けないわ。きっと、あなたの心の奥底にある本当の想いを引き出してみせる)
二人の心の中で、理性と感情が複雑に絡み合い始めていた。これから始まる心理戦は、単なる勝負を超えた、魂の触れ合いになるのかもしれない。
夜空に浮かぶ三日月が、これから始まる二人の物語を静かに見守っていた。
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