【百合バトル&学園恋愛小説】心の迷宮で君に出会う ―サクヤとカオリ―

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:『交差する理論、衝突する心』

 文化祭準備の喧騒が漂う名門高校の廊下を、フロイディーヌ・サクヤは静かに歩いていた。彼女の黒髪にほんのり赤みを帯びた髪は、端正に整えられたポニーテールで纏められ、その動きに合わせて優雅に揺れている。透き通るような白い肌は、午後の柔らかな日差しを受けて淡く輝いていた。


 サクヤは心理学部門の教室に向かう途中、無意識のうちに自分の制服を整えていた。シンプルでありながら上質な生地のブレザーは、彼女の細身ながらも曲線美のあるスタイルを引き立てている。彼女の化粧は控えめながら洗練されており、薄いピンクのリップグロスが唇に自然な艶を与えていた。この学校では基本的に制服着用とされているが、それは絶対ではなく、中には私服で登校する生徒もあった。


 廊下の両側には、様々な専門教室が並んでいた。文学部門の教室からは古典の朗読が聞こえ、数理科学部門の前では複雑な数式が書かれたホワイトボードが廊下にはみ出していた。自然科学部門の実験室からは、興味深そうな化学反応の音が漏れ聞こえてくる。


 心理学部門の教室は、これらの専門教室の中でも特別な存在だった。比較的新しい部門ではあるが、その先進的な取り組みで校内外から高い関心を集めていた。近年ではサクヤの活躍により、さらにその注目度は増していた。


 教室に到着すると、サクヤはゆっくりと足を止めた。通常の教室よりも広いそのスペースは、グループワークやカウンセリング実習にも対応できる柔軟なレイアウトになっていた。壁には心理学の歴史や重要な理論を示す図表やポスターが所狭しと貼られている。


(心理学部門の活動、今年はどんな展示にしようかしら……)


 サクヤの心の中では、すでにフロイトの精神分析理論に基づいた展示のアイデアが形作られつつあった。


 教室に入ると、そこにはすでに数人の生徒たちが集まっていた。そして、サクヤの視線は自然と一人の女性に引き寄せられた。


 ユンゲリア・カオリ。柔らかい茶色の髪を肩下まで伸ばし、ゆるいウェーブが特徴的な彼女は、仲間たちと楽しそうに談笑していた。カオリの瞳は淡い琥珀色で、優しい表情をたたえている。サクヤとは対照的に、少しふっくらとした健康的なスタイルが、彼女に親しみやすさを与えていた。


 カオリの服装は、カジュアルでありながらもセンスの良さが伺える。淡いブルーのワンピースに、エスニック風の刺繍が施されたカーディガンを羽織っている。首元にはトルコ石のペンダントが輝いており、それが彼女の瞳の色を一層引き立てていた。


(あの子、確か転校生だったわ。ユング心理学に詳しいって噂だけど……)


 サクヤは静かに席に着き、資料を整理し始めた。しかし、その冷静な表情の裏で、カオリの存在が気になっていることは否めなかった。


 そんな時、顧問の山田先生が教室に入ってきた。


「皆さん、今日は文化祭の展示について話し合いましょう。あ、そうだ。まだ紹介していなかったわね。サクヤさん、カオリさん、前に出てきてくれますか?」


 サクヤとカオリは、少し戸惑いながらも前に進み出た。二人が並ぶと、教室の空気が一瞬凍りついたように静まり返る。


「フロイディーヌ・サクヤさんは、フロイト理論に基づいた心理学研究で素晴らしい成果を上げています。そして、ユンゲリア・カオリさんは、ユング心理学の観点から興味深い考察を行っています。二人とも、今年の文化祭展示の中心になってもらいたいと思います」


 山田先生の紹介が終わると、サクヤが口を開いた。


「私からの提案ですが、フロイトの精神分析理論に基づいた展示はいかがでしょうか? 無意識の世界を可視化するような……」


 サクヤの言葉が途切れる前に、カオリが穏やかな声で割り込んだ。


「それも素晴らしいアイデアですね。でも、ユング心理学を取り入れたワークショップも面白いと思います。来場者の方々に、自分の内なる元型と向き合ってもらうような……」


 二人の主張は真っ向から対立し、周囲の生徒たちは息を呑んで見守っていた。サクヤの碧眼には知的な輝きが宿り、カオリの琥珀色の瞳には温かな光が満ちている。二人の視線が絡み合う瞬間、そこには火花が散るような緊張感があった。


(この子、なかなかやるわね……)


 サクヤの心の中で、カオリに対する評価が少しずつ変化し始めていた。


(サクヤさん、すごく鋭い洞察力……でも、どこか孤独そう)


 カオリもまた、サクヤの内面に興味を持ち始めていた。


 議論は白熱し、二人は互いの理論の長所と短所を指摘し合った。フロイトの「イド」「自我」「超自我」の概念とユングの「個人的無意識」「集合的無意識」の理論が、教室内で激しくぶつかり合う。


 しかし、議論を重ねるうちに、二人は互いの知識の深さと洞察力に気づき始めていた。サクヤはカオリの直感的なアプローチに新鮮さを感じ、カオリはサクヤの論理的思考に魅了されていった。


「カオリさんの言うように、来場者の方々が自分自身と向き合える機会を作ることは重要ですね」


 サクヤが譲歩の姿勢を見せると、カオリも柔らかな笑顔を浮かべた。


「サクヤさんの無意識の可視化というアイデアも、とても興味深いです。二つのアプローチを組み合わせることはできないでしょうか?」


 二人は意見の相違を乗り越え、新たな企画を模索し始めた。その瞬間、互いの目が合い、一瞬の躊躇いと、かすかな頬の紅潮が見られた。


(なぜ心臓がドキドキしているの? 単なる知的興奮よ、きっと)


 サクヤは自分に言い聞かせるように、深呼吸をした。


(サクヤさんと一緒に作り上げる展示、きっと素晴らしいものになるはず!)


 カオリの心は期待と喜びで満たされていた。


 二人の間に生まれた新たな絆。それは、これから始まる心理戦の序章に過ぎなかった。

放課後、サクヤとカオリは図書館に残って、文化祭の展示計画を練ることになった。夕暮れの柔らかな光が窓から差し込み、二人の横顔を優しく照らしている。


 サクヤは黒縁の細いフレームの眼鏡をかけ、真剣な表情で資料に目を通していた。その姿は知的で凛としており、カオリは思わずその横顔に見とれてしまう。


(サクヤさん、本当に美しい……まるで氷の彫刻みたい)


 カオリは自分の思いに少し驚きつつ、そっとサクヤを観察した。


 一方のサクヤも、時折カオリの方にちらりと視線を送っていた。カオリの柔らかな表情と、ときおり漏れる小さな笑い声に、サクヤは不思議な温かさを感じていた。


(カオリさんって、本当に人を惹きつける力があるわね。でも、それに惑わされてはダメ。冷静に、論理的に考えないと)


 サクヤは自分の心に芽生えつつある感情を押し殺そうとしていた。


「ねえ、サクヤさん」カオリが突然口を開いた。「フロイトの『心的外傷理論』と、ユングの『個性化プロセス』を組み合わせて展示できないかしら? 来場者の方々に、自分の過去のトラウマと向き合いつつ、それを乗り越えて成長する過程を体験してもらうの」


 サクヤは少し驚いた表情を見せた。


「それは……卓越したアイディアです」


サクヤの声には、珍しく興奮が滲んでいた。


「フロイトの『反復強迫』の概念も取り入れられるかもしれません。過去のトラウマを繰り返し体験することで、最終的にはそれを克服するという……」


 二人の目が輝きだし、アイデアが次々と湧き出てくる。心理学の専門用語が飛び交う中、二人の距離はいつの間にか縮まっていた。


「あっ」

「あ……」


 資料を取ろうとして、二人の手が重なった。一瞬の静寂の後、二人は慌てて手を引っ込めた。


「ご、ごめんなさい」サクヤの頬が、わずかに赤く染まる。

「い、いえ、私こそ」カオリも顔を赤らめながら答えた。


 その瞬間、二人の心に同じ疑問が浮かんだ。


((私、どうして、こんなにドキドキしているの?))


 しかし、二人とも自分の感情を認めることを恐れているかのように、急いで話題を元に戻した。


「それで、展示の構成ですが……」サクヤが話し始める。

「そうね、まず導入部分で……」カオリが続ける。


 二人は再び真剣な表情で計画を練り始めたが、その心の中では、さっきの出来事が繰り返し再生されていた。


 図書館の静寂の中、二人の心の鼓動だけが、静かに、しかし確実に高まっていく。それは、これから始まる心理戦の前奏曲のようでもあった。


 夜が更けていく中、サクヤとカオリは文化祭の計画だけでなく、互いの存在をも意識し始めていた。二人の間に生まれつつある感情は、まだ名付けられないものだった。しかし、それは確実に、二人の心を少しずつ変えていくのだった。


 帰り際、二人は図書館の入り口で別れる。


「明日も、一緒に計画を詰めましょう」サクヤが言う。

「うん、楽しみにしてるわ」カオリが答える。


 二人は互いに微笑みを交わし、別々の道を歩き始めた。しかし、その背中には何か言い難い思いが滲んでいるようだった。


 サクヤは帰り道、星空を見上げながら考えていた。


(カオリさんの存在が、私の中の何かを変えていく……これは、フロイトの言う『転移』なのかしら? それとも……)


 一方、カオリも自分の心の変化に戸惑いを感じていた。


(サクヤさんと一緒にいると、心が落ち着くのに、同時にドキドキする。これって、ユングの言う『アニムス』との出会いなのかな? でも、違う気がする……)


 二人の心に芽生えた感情は、まだ曖昧で形にならないものだった。しかし、それは確実に、二人を新たな世界へと導いていくのだった。


 この日を境に、サクヤとカオリのは、予想もしない方向へと進んでいく――。


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