異界の井戸
氷柱木マキ
異界の井戸
深い夜の闇の中に一人。とある山の中、私はある噂を調べるためにやって来た。この山のどこかに井戸があるという。満月の夜、その井戸の前に立っていると、こことは違う世界に行けるというのだ。この山に入ったきり出て来なかったという人間の目撃情報が、山の近くに住む人からいくつか聞くことができた。
怪しい。それに危険な臭いがする。もっとも、オカルトな話をしているわけではない。もっと現実的な話だ。私は仕事柄、この手の話をよく耳にするが、たいてい裏にはキナ臭い思惑があるのだ。
一番ありがちなのが、人さらい。元々、人気のないところに来た人間を、その手の人間が、何度もさらっているうちに噂になったか、最初からそのために噂を流したか。どちらかと言えば、恐らく後者だろうか。ここは、本当にめったに人が来ない場所のようだ。いつ来るかも分からない人間を、隠れて待つのも大変だろう。
しかし、噂になっているわりに、見物にくるような人間も少ないようだ。人の気配はない。まあ、誰が考えても危険だろう。私のような人間以外、普通は近寄らないだろう。考えなしの若者たちが、軽い気持ちで遊び気分で来るには、少々町から離れ過ぎている。
山に入ってからしばらく経った。それほど大きな山ではないが、一向にそれらしいものは見えてこない。周りは木々が鬱蒼と生い茂っているものの、頭上の満月の光で、先が見えないということはなかった。むしろ、こんなに暗いにも関わらず、辺りがよく見えることが、何か気味の悪いものを感じた。
また歩くこと数十分、振り返り、来た道の方へ視線を向ける。町の明かりが、やけに遠くに見えた。反対に、月がやけに明るく、近くに見えた。
このまま進んで行っていいのだろうか。ずっと道なりに進んで来ているが、噂では、井戸の場所は山の中にあるというだけで、この山のどこにあるのか、具体的なことは分からない。
いっそ道を外れて分け入ってみるか。だが小さい山とは言え、人通りはなく、時間は夜だ。迷えばやっかいだ。おおかた戻って来なかったという人間は、そのパターンではないだろうか。
しばらく考えていたが、結局、道なりに進むことにした。何もなければ、またその時にでも考えよう。迷う危険を冒すのは最後の手段だ。
歩き始めようとしたその時、どこか遠くで水の音が聞こえた気がした。水の音といっても、川のせせらぎや、湧水の音ではない。ボチャン、という水が弾けるような音だ。辺りは、虫や鳥たちの声で、静かとは言えないが、その音はなぜか耳に響いた。
私は、音がしたと思われる方向へ歩き出した。漠然と、こっちへ行けばいいのだ、という思いが心を占めた。
木々をかき分け進むこと十数分。ようやく目的のものを見つけることができた。それは、古びた石の井戸だった。その一帯だけ、木々もなく、空間が開けていた。
近づいて見てみる。井戸の表面は苔むして、歴史を感じさせた。ただ、井戸上部の縁は、他と比べて綺麗だった。中を覗いてみると、意外なことに枯れ井戸ではなかった。水を汲み上げるための装置はないが、届きそうで届かない距離、上から一メートル半ほどのところまで、水が溜まっていた。水面に、大きな満月が映っていた。
とにもかくにも、井戸の前で待ち続けなければならない。本当に何かが起こるとは、元より思ってはいないが、少なくとも明るくなるまではいなければ、確かめたことにならないだろう。だいいち、暗い山道を下る自信もない。
私は、鞄から折り畳み椅子を出そうとして、手を止めた。井戸の近くに、小さな赤い椅子が置いてあった。恐らく先人の遺産だろう。彼または彼女は、いったいどうしたのだろうか。本当にどこか知らない世界へと旅立ったのだろうか。
自然と、誰のとも分からない椅子に腰かけていた。私のものと同様の折り畳み椅子だったが、私のものより若干大きくて座りやすそうだと思ったからだろう。そのまま、井戸を見るともなく見続けながら、何かが起こるのを待った。
今回も、やっかいな仕事だ。そしてつまらない仕事だ。そうは言っても、今までに楽だった仕事はないし、面白かった仕事もほとんどない。毎度毎度、何人が読んでいるのかも分からないような三流雑誌に、都市伝説だの怪談話だのを取材して記事を書くだけ。短い期間に数をこなさなければ食っていけず、いつもならネット等で仕入れた噂を、たいして調べもせずに、それっぽい記事に仕立てるだけというのもザラだ。
それが今回は、わざわざこんなところまで取材ときたもんだ。編集長たっての希望で、是非にということだった。まあ、面倒なだけで、たいしたこともせずに金がもらえるなら、何の文句もないのだが。
せっかく現場まで来たのだから、と立ち上がり、鞄から出したカメラで周りの風景を数枚収めた。やはり、月の明かりでよく撮ることができた。他にすることもないので、しばらくは写真を撮り続けた。写真に関しては素人だが、殺風景な井戸を、少しでも雰囲気が出るようにと工夫して撮った。
今さらだが、この井戸は一体何なのだろう。手を止め、椅子に座りなおし考えた。山の中に井戸。考えたらおかしな存在だ。人が住んでいるわけでもないのに、誰が何のために作ったのか。そもそも山なのだから、川があるのではないか。山の中の井戸。価値のない存在か。私と同じだな。
そういえば、他の編集者に聞いたところによると、他の同業者のいくつかが、同じ噂を既に調べたらしいのだが、未だに記事になっていないらしい。そこで、私にお鉢が回ってきたのか。きっと他のところも、私のような人間に任せたのではないか。
ああ、この仕事、いつまで続けるのだろうか。といっても、他に何か出来ることもなし。きっとダラダラと続いていくのだろう。仕事を始めた頃と比べ、段々と記事をでっちあげるのが上手くなっている自分にも腹立たしい。
なんとなく、心もとない背もたれに身を任せ、頭上の月を見上げる。月は、先ほどよりも大きく、明るく感じた。山の上とはいえ、こんなに月が近くに感じるものだろうか。月は、暖かく私を見降ろしながら、妖しく、冷たい光を放っていた。
今まで、こんなにまじまじと月を見ることなどなかった。私は、しばし井戸のことなど忘れ、月に見入っていた。魅入られたというべきか。この月は、クレーターの一つ一つまでも、見える気がした。
月というのは、こんなにも妖しく美しく、幻想的なものだったか。こんな月の夜では、不思議なことが起こってもおかしくない。なんてことを、柄にもなく思ってしまった。ああ、噂が本当ならば、いっそ私も、別の世界に連れて行ってはくれないだろうか。こんな人生にも世界にも、未練はない。
月を見続けて、時間が過ぎていくのを感じた。それでも、何も変わらない。何も起こらない。月が、一層大きく明るくなったように感じるのは、私が見続けているからだろうか。ああ、美しい。月はいつでもそこにあって、私のような人間の上にも、等しく輝いていたのだ。私のような無意味な存在とは違う。誰もが月を見れば安らぎ、心奪われるだろう。
気が付くと、自然と手を伸ばしていた。あれだけ大きいのだ、もう少し手を伸ばせば、月を掴める気がした。だが、私の手は虚しく空を切った。私は、無性に月が欲しくなった。だが、何度試しても、月には手が届かなかった。
所詮、私はそうなのだ。いつだって欲しいものは手に入らない。仕事だってそうだ。私にだって夢はあったはずだ。今となっては、それも思い出せないが。私は、悲しくなった。
椅子から立ち上がった。座ったままで、私は何をやっているんだ。立ち上がれば、より月に近付くではないか。私は手を伸ばす。だが届かない。何度も飛び跳ねた。それでも月には届かなかった。
私は熱に浮かされたようにふらつき、思い出して、井戸を見た。何も変わらない。私は、溜め息を一つ吐き、井戸に近付き覗き込んだ。私の目が輝いた。
月だ。満月だ。さっきまで手の届かなかった月が、そこには、もっと近くにあった。私は夢中で手を伸ばした。苔むした井戸に乗りかかり、とにかく必死に手を伸ばした。もう少し、もう少しで月に、手が届く。
突然、私は浮遊感にとらわれた。ああ、これが別世界、月の世界へと行く方法だったのだ。私は、今までに感じたことのない充足感に満たされた。
この日、二度目の水音が、山の中に静かに響いた。
異界の井戸 氷柱木マキ @tsuraragimaki
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