狐の婿入り

@hiyonosaito

あたしの心情

 狐という存在は不思議だ。神の眷属と奉られ、ときに悪さをする妖怪と恐れられることもある。

 そんな、神なのか妖怪なのか定かではない狐に、過去つままれたことがあった。

 それは高校二年生の、例年よりも長く続いた梅雨のころだ。


 ざあざあと打ちつけられる少し痛い雨に悪態をつきながらあたしは走っていた。天気予報でいわれていた降水確率は低かったのに、なぜこうも運がないのだろうか。とにかく走って、少しの時間だけでもいいから雨宿りできそうな場所を探していた。

 もうじき、廃線となったバスの停留所が見えるはずだ。ぐっしょりとなったシャツに気持ち悪さを感じながら、何とか停留所に駆け込んだ。

 トタン板で作られた簡易な停留所は、もうずいぶんと廃れていて、どこもかしこも錆びついているが、屋根があるだけで豪華絢爛な宮殿に見えた。

「下着まで濡れてる……」

 ぺっとりと肌につく気持ち悪さに耐えかねて、鞄を置き、重くなったシャツをタンクトップごと絞ろうと服の中に手を入れたときだった。

「こら」

 隣から声がした。

 低い声。

 男の声だった。

 思わず目を向けると、今の時代には珍しい着物を着た男が隣に立っていた。駆け込んだとき、男はいなかったはず。ああ、でも視界に入っていなかっただけだろうか。そう思いなおして、速かった心音は落ち着いていった。

「男のいるところで裾を上げるのはいかがなものか。少し、わきまえたらどうだ」

 男の言葉はずいぶんと棘のついた言葉だった。

「……ごめんなさい」

 釈然としないが、男の言葉は正論であったため素直に服から手を離した。そのかわりに雫が垂れる髪をぎゅ、ぎゅ、と絞る。ぼたぼたと髪から垂れた雨滴が乾いたコンクリートを黒く染め上げた。

 雨は止まない。

 男はあれから何も話さなかった。あたしも他人に積極的に声をかけるほど明るい性格ではなかったから、話しかけなかった。

 雨は、止まない。

「ねえ」

 肩が面白いくらいに跳ねた。男があたしに話しかけてきたからだ。

「君は、ここら辺の子?」

 先ほどとは全く違う優しい声であたしにそう問いかけた。

「まあ、はい」

 答えない理由がなかったため、そっけない答えを男に返す。それでも男は「そっか」とだけいって、あたしの冷たかった態度は鼻につかなかったようだ。

 少し、意外だった。

「生まれた時から、ずっと?」

「はい。父がここで生まれ育ったので」

「なにか不便は?」

「田舎ですから、それ相応にあります」

「そうか」

 男はまた無言になった。

 この男はなにがしたいのだろうか。ただの、暇つぶしなのだろうか。雨脚がだんだんと弱くなっていく。

 向かいにある、まだ満開とはいえない紫陽花が雨を恵みの水として、喜んでいるように見えた。

「ねえ、雨は」

 そこで気づく。男があたしを向いたから。

 男は青い瞳をしていた。晴れ渡った空を詰め込んだかのような、吸い込まれるのではないかと錯覚するほど美しい青色をしていた。

「好き?」

 思わず息を吞んだ。

 曇天だった空に光が差し込んでいく。

「……人並です」

「そう」

 男は微笑んだ。優しげにゆっくりと、あたしを見つめていた。

「一緒だ」

 その日からだ。


「ねえ、君」

「や、雨だね」

「あはは、濡れてるねえ」

「昨日ぶりだね」

「また雨の日に」

「また」

「またね」


 その日から、雨が降っているときのみ男は停留所に現れた。といっても記録的な積雨に、男は毎日のように現れていた。毎日、息が詰まるのではないかと疑うほど綺麗に着付けられた着物を着て、傘も持たず、男は停留所でただ一人佇んでいる。

 あたしが通りかかると「おや」といってにこやかに笑って、あたしを手招きをする。どうにも、本当に嬉しそうに招くのだから無視することができるはずもなかった。

「雨続きだねえ」

 間延びた声に、最初の棘た言い回しはどこに行ったのかと思いながらあたしはうなずいた。

「全くです。これじゃあ、家に帰れない」

「傘を持っているのに?」

 にやりと意地悪な笑みをしてあたしの手にある傘を指さした。はあ、わざと聞こえるようにため息をつく。

「あなたが放してくれないのでしょう?」

 呆れたように男を見れば、くすくすと面白げに笑っていた。ずいぶんと楽しそうである。ほんの少し苛ついて、わき腹を小突いた。痛くもないだろうに「いてっ」と声を上げる。それでも男のくすくすと笑う声は止むことはなかった。

 楽しげに、面白げに、そして嬉しげにあたしを見ている。

 青い瞳があたしを射抜く。その表情は構われて喜ぶ子供のそれに等しかった。最初にあったときよりも、ずいぶんと子供らしい人なのだと思い始めたのはいつだったか。明らかに成人の図体をしているというのに、表情は子供なのがアンバランスであった。会う時間が増えていくにつれ、そういった表情をする時間は比例するように増えていく。

 それで、よかったんだと思う。

 だって、その表情は男の本心のようであったから。まるで大人ぶっている偽りが、溶けていく氷のように剝がれていくその様があたしを信頼しているように見えて、嬉しかった。


 あたしの町は過疎化が進み、周りには田んぼや畑、緑の濃い山々や川魚が泳ぐ川しかない。娯楽施設など全くと言っていいほどなく、若者は独り立ちし上京するものがほとんどである。今では道端で通り過ぎるもの、大体がご老人であった。

 そんな町ではあるが、年に一度活気が戻るときがある。

 梅雨の時期、繁栄を願うために祭りが行われるのだ。その数日前から上京していたものも、老人たちも力を合わせ祭りの準備に勤しみ、夜遅くまで祭囃子が響くようなものであった。 

 豊穣の神にお供えするという、梅雨の時期には珍しい祭りであるが、祖母から作物の成長を願うものとして教えられたことがあり、まるでこの町にしかない伝統だと思うと優越感が出たのを思い出す。

 まだ、小さかったことである。

 祖母がそうやって、寝物語のように教えてくれたのを今でも鮮明に脳裏に映し出された。

 懐かしい気持ちが膨らみながらも、山の中腹に立つ赤い鳥居を見つめる。

 雨は、降っていなかった。

 からりと晴れた、今の時期珍しい晴天にあたしは空を仰ぐ。雲一つない、憎らしいほど美しい空であった。さあさあ、と揺れる木枯らしが心地よい音色のようで、満開となった紫陽花が日の光を嬉しそうに浴びている。ついこの前までは、雨を喜んでいたくせに。浮気者である。

 一陣の風があたしの黒髪を巻き上げた。思わぬ強い風に、目を閉じる。

 止まったと思い、目を開けると女性がいた。

 目の前に、時代外れの、時季外れの、着物を着た女性である。思わず頬を赤らめてしまうほど、美しい女性であった。赤い、とても鮮明な赤い瞳をしていて、睨みつけるかのようにあたしを見ているようだった。

 だけど、あんな美人な人があたしにいったいなぜ。理由が思いつかなくて、勘違いであったら恥であるから、目を逸らした。目を逸らして、そのまま通り過ぎようとする。

 今まさに、通り過ぎようとしたときだった。

「あの方は、あなたの思うような方ではありません」

 足が止まった。

 呟くような声であった。だけどもその言葉は決定的にあたしに向けられていることに気づいた。そして同時に、あの方というのはあの男であることが分かった。

 心音がうるさい。

「何を、」

 いっているのですか、と振り返ったそのときすでに女性はいなかった。跡形もなく、形跡もなく、女性はいなかった。

 ぽつり、と頬になにかが当たった。

 晴天であった空には鈍い雲が覆いかぶさり、光を射さない。

 うるさい心音に紛れて、じくじくと鈍くと刺されているかのように痛みが存在していている。それが、どうにも奇妙だった。


 連日の雨で、持たされていた折たたみの傘で雨を凌ぐ。

 いつものように男は停留所にいた。あたしを見つけて、雨だというのに晴れた表情となり、手招きをする。今までなら、あたしはそれで男のもとに行った。だけども今日は目すら合わせず、通り過ぎた。

 その変貌に男は驚いたのか「ちょ、ちょっと待って」と停留所から出て、あたしの腕をつかんだ。生きているのかと疑うほど、冷たい手だった。

 顔を向けると、男は雨に打たれるのもおかまいなしにあたしを向いていた。困惑している表情に、あたしの中で罪悪が生まれる。

 濡れていく着物に、髪に、それでも男は気にもせずというようにあたしの腕をつかむ手に力を入れた。

 今、思い出す。こうやって触れられたのは初めてだったと。

「どうして」

 雨に打たれているからだろう、戸惑いと悲しみの入れ混じったその表情は泣いているかのように見えた。

 そんな顔が見たくなくて、そんな表情をさせているのがあたしだということを思いたくなくて、目をそらした。ぐ、と息を吞むような音が耳に入った。

「……先日、とある女性と出会いました。今の季節には珍しい、着物を着た美しい女性でした」

 あたしの腕をつかんでいた男の手がピクリと動いた。

 ああ、と思う。

 予想していたものの決定打によるものと、納得をしたからである。陰りが生まれた。どうしようもない、醜い感情である。

「恋人か、なにかですか」

 あたしはあたしに驚いた。

 だって、声が震えていた。情けないと思うほどに動揺をしていて、納得しているというのに理解したくないような、そんな気持であったから。

 なんて、薄情なやつなのだろうか。

 あたしがまるであたしじゃないようで、知らない感情に振り回されているようで、逃げ出したくなった。

「そうだとしても……君には、関係ないよ」

 優しい声であった。

 関係ない。そうか、あたしは、関係なかったのか。

 目の前が真っ白になった。

「関係ありますよっ!」

 大きな声が出た。まるで怒鳴るような声だった。

「直接あたしに会うほどお相手様は不安なんです!不安は怖い、恋人には自分だけを見てて欲しい、好いた人にはずっとそばにいてほしい。お相手様からあなたに不信感を抱かせるほどあたしと顔を合わせているのでしょう?何が関係ないですか!」

 一度声を出してしまえば、止まらなかった。徒然と言葉は口から零れ落ちた。

 きっとあたしは男に怒っていない。

 これは、ただの癇癪だ。幼稚な癇癪だ。

 悲しかっただけだ。

 関係がないだなんて、まるでなんでもないようなものだと、今まで過ごした時間がすべて無意味のようなものだと、いわれているようなものだと思ったから。

「っでも私は!」

 男の手が震えていた。

「何がっ!」

 思わず目を向けた。目を向けて、顔を見てしまう。

 男は泣いていた。

 青い瞳から大粒の涙を流していた。雨と紛れているように見れたけど、大粒すぎてはっきりとわかる。輪郭をなぞって、雨と一緒に地面に落ちる。表情はとても悲痛であった。

 なんて、と思う。

 なんて、酷いことをいってしまったのだろうか。

 だけども、言い分けをさせてほしい。まるで自分じゃないような気持ちなのだ。張り裂けそうな感情は初めてで、なんでこうも辛くて辛くて仕方ないのかわからないのだ。あたしがあたしじゃないような、今までいった言葉すべて他人がいっているような。自分で自分を制御できない、この気持ち自体あたしのものなのかすら疑わしい。

 だから、とまるで救いを求める愚かなあたしに吐き気がした。

「あのっ」

「ごめん」

 男はそうしてあたしの腕から手を離した。風が吹く。一陣の風で視界がふさがれる。

 そして、目を開けたとき。

 男は、いなかった。


『狐の嫁入り?』

 まだ、小学生にもなっていないような歳ごろである。確か、梅雨が明けた頃であった。

 お祭りもとっくのとうに終わり、両親が片づけに出張っている中、あたしの面倒を見てくれていたのは祖母であった。

 祖母は生まれたときからこの町で生きていたらしい。だからなのか、この町のことは祖母が一番熟知しているように幼いころからずっと思っていた。

『狐がお嫁さんなの?』

 なんだったか。

 祭りの最中、確か鳥居の前に立っている石像が狛犬ではないと揶揄われたからだろうか。その頃がなにかにいわれるにつけて、自分が否定されているようで恥ずかしさと悲しさが入れ混じった感情を抱いていた。

『結婚式だよ。狐さんの』

 祖母は年老いていたが、凛と背筋を伸ばす姿が若々しくて、実際の年齢よりも若く見られることが多かった。しゃがれていて、とても優しいが体の奥まで響くような声に、あたしは首ったけだった。

『お社に使える狐たちは雨を降らすために結婚をするんだ。村のためにね』

 祖母はそういって、あたしの頭を撫でた。

『じゃあ、あの石の狐は結婚してるから置かれているの?』

『いいや、あの狐は結婚を認めるために置かれているんだ』

 意味が分からなかった。困惑している表情が素直に表に出ていたのだろう。祖母はそんなあたしを見て、面白げに笑っていた。

『いつか、わかるよ』

 そのいつかは、いつなのだろうか。

 そのいつかは、来るのだろうか。

 ただ一つ、いうなれば。


「どうして、いまさら」

 こんな夢を、という言葉はでなかった。爽やかな風が制服を通って、抜けた。

 いつも通りの通学路。朝露を纏った草花が朝日に照らされて煌々と輝いている。山々の頂上付近ではまるで引っかかっているように霧が漂っていた。

 いつも通りである。

 まったくもって、いつも通りである。男と出会わぬ前と、まったく同じ。

 あれ以降、雨だろうと晴天だろうと男は現れなかった。まるで最初からいなかったかのように、あの時間がすべてあたしの妄想であったかのように、男は現れなくなった。

 良かったのだろうか。男にとって、あれで良かったのだろうか。

 あの女性の誤解は解けたのだろうか。

 なにが正解だなんてあたしにはわからない。これが正しいだなんて、そんなこと思えない。

 傲慢ゆえに、泣かせてしまった。その事実がじくじくと胸を蝕んでいく。

 雨が、降った。思わず空を見上げると、悠久に青く、空は広がっていた。

「狐の、嫁入り」

 呟いたその言葉になぜだか泣きたくなって、そしてなにかに気づいた。なにに気づいたはわからない。だけども気づいたとしか言語化できなかった。

 山を見た。中腹に赤い、赤い鳥居がある山を。霧ではっきりと赤が見えた。

 思わず走り出していた。

 脳裏に男が浮かんだのだ。彼がきっとそこにいる。

 いないかもしれないのに、なぜかそう確信めいたものが心にはあった。

 謝りたかった。酷いことをいったから謝りたかった。顔が見たかった。泣いている顔で彼を終わらせたくなかった。

 何日も続いた雨でぬかるんだ土を力強く蹴る。山に入って、ひび割れ苔むした石段を走り抜けた。

 なんで、こうも悲しいのだろう。

 なんで、彼がいるとわかるのだろう。

 どうして、ここまでして。

 わからない。わからないけれど、彼に会うための理由なんて必要ないと言い切れた。会いたいという気持ちだけが理由になってもいいだろう。

 祭りの日ではないというのに、腹の奥に響くほど大きな祭囃子が聞こえてきた。霧が辺りを漂い始めたが、足は止まらない。戸惑いもなく階段を走り、上った。霧が濃くなって、目の前も見えぬほどになったころ人影が見えた。

 いや正確には人ではない。

 狐だった。

 狐が二本足で立ち、黒袴や、華やかな柄をした着物を着ている。一目でわかった。これは花嫁行列だ。

 この中にあの男がいると、確信した。

 参進の儀はたくさんの狐が参加していた。かき分けながらも、あの男を探した。狐の数が多すぎで石段から追い出されようとも、木々にしがみついて足を動かした。肺がつんざかれるように痛かった。息が荒くて、心臓の音しか耳に入らない。

 会いたい。

 その一心だった。

 とにかく、会うために上を目指した。鮮明な赤を持つ鳥居がある場所に。狐の石像がある場所に。そうすれば、きっと会えると。

 最前の中央。

 白無垢を着た狐がいた。もちろんその横に黒袴を着た狐がいる。もうじき、鳥居をくぐってしまう。くぐってしまうと会えないといことだけが分かった。

 今まさに、くぐろうとしたその瞬間。白無垢の狐のその隣。

 新郎ととれるその狐があたしを向いた。

「あ、あ」

 狐は青い瞳をしていた。晴れ渡った空を詰め込んだかのような、吸い込まれるのではないかと錯覚するほど美しい青色をしていた。引き止めようとした。だけど、凍りついたかのように、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。

 狐と、男と目が合った。

 だけど男はすぐに目を逸らしてして、鳥居を潜ろうとしている。

「待って!!」

 いかないで。

 そうして手を伸ばせども届くはずもなく、男の歩みも止まらなかった。いやだと、全身が叫んでいる。止まってくれと、心の奥底から思った。

 叫ぶように、声を出そうとした。

 名を呼べば、止まってくれる。

 名を呼べば、振り返ってくれる。

 名を、呼べば。

 名を――――。

 そこで気づく。

 気づきたくはなかったことだ。気づきたくなくて、気づかないようにしていたことだ。

 狐は、鳥居を潜る。花嫁行列の姿は、跡形もなく、霧が晴れたように、なくなっていた。

「名前すら、あたしは」

 晴れていた空には、鈍い色をした雲が広がっていた。そして次の瞬間、水の入ったコップを落としたかのように勢いよく雨が降り出した。

 雨が体を打つ。

 勢いが良すぎて痛いくらいであったけれど、今はそれどころじゃなかった。

 呆然としたまま、憎いくらい赤い鳥居を見つめた。泥だらけで汗がへばりついて雨に濡れて、気持ちの悪い服に気にも止めず。

 涙が溢れた。

 とめどなく、頬を伝って土に染み込んでいく。

 「っう、ふぅ」

 止まる兆しが見れない。ジクジクと痛くて、息をするのもままならない。

 きっとあたしは好きだった。好きだったことに今更気づいた。

 「うあ、」

 好きだった。好きだったのに。

 「あ、ああ」

 けれど、彼は、彼とはもう。

 「うわあん」

 会えないのだと、気づいてしまった。

 あたしはこの梅雨、名前も知らない男に恋をした。

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