蛍夜奇譚
とりにく
本編
海の色が変わっていく。いつもの青緑色ではない。赤黒く、どす黒い色に染まっていく。波が打ち寄せるたびに、耳をつんざくような唸り声が聞こえる。矢が雨のように降ってくる。空から降る雨とは違う。ずしんと重く、鋭い音を立てて船に刺さる。大きな船がゆっくりと傾き始める。次々と、海の底へと沈んでいく。悲鳴と怒号が入り混じる戦場で、一人の少年が凍りついたように立ち尽くしていた。
「母上!」
少年の叫びは、荒れ狂う波の喧騒にかき消された。目の前で、実の子と変わらぬ慈しみで育ててくれたはずの義理の母が、実子たちを抱きしめ船べりに立っていた。その眼差しは虚ろで、少年の存在など忘れ去ったかのようだった。風に揺れる母の長い髪が、少年の頬をかすめる。それは永遠の別れを告げる冷たい感触のようだった。
「待って…僕も…」
少年の細い腕が伸びる。しかし、その手が母の着物に触れる前に、彼女は身を躍らせた。華やかな着物の裾が大きく広がり、まるで極楽浄土へと飛翔する蝶のように美しく、そして儚く、母子は海中へと消えていった。波しぶきが少年の顔を打つ。塩辛い水の中に、彼の涙が混じる。
「どうして…」
周囲では依然として戦いが続いていた。矢が飛び交い、刀が交わる音が絶え間なく響く。甲冑のきしむ音、馬のいななき声、そして絶命する者たちの断末魔。しかし少年の耳には、もはやそれらは遠い世界の出来事のように聞こえた。彼の世界は、たった今、目の前で崩れ去ったのだから。沈みゆく船の甲板に立ち、少年は呟いた。
「どうして、僕だけを……」
海は、無慈悲にも美しく輝いていた。夕陽に照らされた水面は、まるで無数の蛍が舞い踊るかのように煌めいている。血に染まった海面が、夕日の光を受けて金色に輝いていた。少年はその光景を見つめながら、かすれゆく意識の端で世界の残酷さを理解した。
蒸し暑い夏の日差しが、古びた家屋の縁側に差し込んでいた。木々の葉が風にそよぐ音と、遠くで鳴く蝉の声が、静かな午後の空気を満たしている。その静寂を、時折聞こえる大きな音が破る。村はずれに新しく建てられた紡績工場の汽笛だ。近代化の波が、この田舎村にもゆっくりと押し寄せてきている。
畳の上に正座する春子の額に、小さな汗粒が浮かんでいる。二十三歳になったばかりの彼女は、久方ぶりに帰省した実家で、今は亡き祖母の遺影に向かって線香を上げていた。
部屋の中は、線香の香りと古い畳の匂いが混ざり合い、懐かしくも切ない空気が漂っていた。障子越しに差し込む陽光は、遺影の写真を優しく照らし、そこに映る祖母の笑顔をより一層温かく見せていた。
「おばあちゃん…」
春子の細い指が、遺影の縁を撫でる。その動作には、深い愛情と寂しさが滲んでいた。祖母の笑顔は、いつも春子にとって心の支えだった。女学校への進学を後押ししてくれたのも祖母だった。しかし今、その優しい眼差しは写真の中に閉じ込められ、二度と春子を見守ることはない。その事実に、春子の胸は締め付けられるような痛みを感じていた。
縁側から庭を見渡すと、かつては祖母が丹精込めて育てていた花々が、今は雑草に覆われていた。かつての美しい庭の面影は、所々に残る石灯籠や枯れかけた花壇にわずかに見られるだけだった。兄嫁の関心は、どうやら庭いじりにはないらしい。その光景に、春子は時の流れと変化を痛感した。
「春子、お茶でも淹れてくれないかい?」
奥の間から兄の声が聞こえる。春子は黙って立ち上がり、台所へ向かう。足音を立てないように気をつけながら歩く姿は、まるでこの家に溶け込まないよう努めているかのようだった。
台所に入ると、懐かしい道具たちが春子を出迎えた。祖母が使っていた古い急須、春子が子供の頃によく使っていた湯飲み。それらを手に取りながら、春子は過ぎ去った日々を思い出していた。家事の一つも満足にこなせなかった頃が、まるで遠い昔のように感じられた。今では手慣れた動作でお茶を淹れる自分に、春子は少しの誇りと、同時に寂しさも感じていた。
湯呑みにお茶を注ぎながら、春子は自分の人生を振り返っていた。女学校を卒業したものの、生真面目で不器用な性格が災いし、なかなか縁談が決まらなかった。周囲の目が気になり始めた頃、紹介されたのが今の夫だった。その記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
裕福な学者との結婚。一見、春子にとっては願ってもない話だった。華やかな生活、知的な会話、安定した将来。しかし、現実は甘くなかった。先妻の三人の子供たちの教育係兼母親役。そう、それが春子に課せられた役割だった。期待と現実のギャップに戸惑いながらも、春子は必死にその役割を果たそうとしてきた。
お茶を持って奥の間に入ると、兄夫婦と親戚たちが談笑している。その輪の中に、春子は自分の居場所を見出せずにいた。
「ありがとう、春子」
湯呑を受け取った兄が優しく微笑んだ。
「そうだ、聞いたよ。大変だったそうじゃないか」
春子の体が一瞬、硬直する。その言葉が何を意味するのか、彼女は自分なりに解釈した。心臓が早鐘を打ち始める。兄の声には確かに心配する情がにじんでいたのだが、今の春子にはそれを素直に受け止める余裕がなかった。
(健一くん、可哀想に)(まだ小さかったのに…)(春子、あんたが目を離したから――)
春子の目に、二年前の光景が蘇る。川で遊んでいた義理の息子、健一が、突然流れに呑まれ――。
兄の言葉は、春子には非難に聞こえた。答える言葉が見つからない。喉まで出かかった言葉を飲み込み、春子は黙って頭を下げる。その姿は、まるで罪人のようだった。
(――私のせいで、あの子は死んだんだ)
「……事故は起きるものさ。誰のせいでもない。春子、ここにはお前を責める者は誰もいないんだよ」
その言葉は春子にとって、自分の罪を赦そうとする慈悲のようにも感じられた。だが、その慈悲を受け入れる資格が自分にあるのだろうか。そんな思いが春子の心を締め付けた。
春子は静かに立ち上がり、一言も発することなく部屋を出た。背中に感じる兄の気遣いが、さらに春子の心を痛めた。
縁側に戻った春子は、遠くに見える川を物憂げに眺めていた。その川面は穏やかに光っていたが、春子の目には恐ろしい記憶の象徴としか映らなかった。
あの日以来、誰も彼女を直接責めはしなかった。しかし、周囲の無言の視線と遠回しな皮肉は、鋭いナイフのように彼女の心を幾度となく切り刻んでいった。その痛みは、時が経っても癒えることはなかった。
大好きな祖母の初盆だからと無理にねじこんだこの帰省だって、現実逃避のようなものだった。しかし、生まれ育ったこの家にすら、春子の居場所はもうないように感じられた。慣れ親しんだはずの実家が、どこか遠い異国の地のように感じられた。春子は深いため息をつき、夕暮れの空を見上げた。
夜の帳が下りる中、春子は河原へと足を向けた。月明かりが川面を銀色に染め、その光は春子の浴衣の花柄を淡く照らしていた。
河原には、同じように浴衣姿の人々が集まっていた。老若男女、様々な人が小さな灯りを手に持ち、川の流れを見つめている。話し声や笑い声が、川のせせらぎに混ざって響いていた。
普段は人気のない静かな河原だが、今日は特別な日だった。地元の風習で、この時期は川に小舟を流す催しが行われる。先祖の霊を慰め、あの世へと送り届ける儀式だ。普段は閑散としているこの場所も、今宵ばかりは人々の声や足音で賑わっていた。
春子は周囲の活気に少し戸惑いながらも、手には祖母と健一のための二つの小舟をしっかりと握っていた。それは朝顔の形をした淡い青色の和紙で作られており、中には線香と花びらが添えられていた。周りを見渡すと、老若男女問わず、皆が同じように小舟を手にしていた。
川べりに辿り着いた春子は、人々の間をすり抜けながら、ゆっくりとしゃがみ込み、小舟を水面に浮かべた。水の冷たさが指先を通じて全身に広がる。春子は小さく震えた。それは寒さからか、それとも別の何かからか、彼女自身にもわからなかった。
「おばあちゃん、健一……どうか安らかに」
春子の囁きは、周囲の声々に溶け込んでいった。舟が流れていくのを見つめながら、春子の目に涙が溢れた。その涙は頬を伝い、首筋を通って、浴衣の襟元を濡らしていく。春子は気づかないまま、ただ黙って小舟を見送っていた。
その時、ふと目の端に小さな光が映った。春子は息を呑んだ。蛍だった。一匹、また一匹と、闇の中に淡い光の粒が増えていく。まるで、天の川が地上に降りてきたかのようだった。その光景は幻想的で、春子は一瞬、自分が夢を見ているのではないかと思った。
周りの人々も、感嘆の声を上げ始めた。「蛍だ!」「とってもきれい!」という声が、あちこちから聞こえてくる。人々の注目が、川面から空へと移っていった。
古の人は蛍の光に、今は亡き人の魂を見出したという。春子は無意識のうちに手を伸ばし、まるでその光に触れようとするかのようだった。
(この蛍の中にも、おばあちゃんや健一がいるのかな……)
その幻想的な光景に見とれていると、春子は不意に特別な気配を感じた。背筋に冷たいものが走る。この賑わいの中で、何か異質なものの存在を感じたのだ。恐る恐る視線を移すと、そこには一人の少年が立っていた。月光に照らされた少年の姿は、周囲の喧騒とは無縁であるかのように、どこか現実離れしていた。
人々の間をすり抜けるように、少年は春子に近づいてきた。その姿は、まるでこの世のものではないかのように、他の誰の目にも留まらないようだった。
「こんばんは」
少年が言う。その声は、夜の静けさを壊すことなく、優しく春子の耳に届いた。
「きれいな蛍ですね」
春子は、思わずその少年を見つめてしまった。少年の目は、どこか深い悲しみを宿しているようで、しかし同時に不思議な輝きを放っていた。
年の頃は十、十一歳位だろうか。健一が生きていたら、ちょうどこれくらいの年になっているはずだ。その考えが、春子の胸を強く締め付けた。
「ええ、本当に……。あなた、名前は?」
春子の問いかけに、少年は不思議な笑みを浮かべて答えた。その表情には、年齢不相応な深みがあった。
「僕は、蛍太郎」
「蛍太郎……」
春子は少年の名前を繰り返した。その響きには何か懐かしさを感じる。まるで遠い記憶の中から引き出されたような、しかし確かに初めて聞く名前。春子の心に、温かさと同時に何とも言えない不安が広がった。
少年は川辺に腰を下ろし、春子に隣に座るよう手招きした。その仕草は自然で優雅で、まるで長年の友人のようだった。春子は少し躊躇した。見知らぬ少年と夜の川辺で話すことへの警戒心が頭をよぎる。しかし、少年の無邪気な笑顔に安心感を覚え、結局隣に座ることにした。
座った途端、春子は不思議な感覚に包まれた。少年の傍にいると、まるで時間が止まったかのように感じられた。周囲の音も、先ほどまで感じていた夜の寒さも、全てが遠ざかっていくようだった。
「おばさんは、どうしてここにいるの?」
「おばさん…」
春子は少し苦笑いした。確かに少年から見れば、そう映るのだろう。その言葉に、自分の年齢と、過ぎ去った時間の重みを改めて感じた。しかし、不思議と嫌な気分にはならなかった。
「ね、蛍太郎くん。私のことは春子でいいわ」
春子は優しく言った。その言葉には、長年忘れていた自分自身を取り戻そうとする、かすかな希望が込められていた。
そんな春子に、少年は一瞬、目を丸くした。そして、突然クツクツと笑い出した。その予想外の反応に春子が驚いていると、蛍太郎は慌てて弁明した。
「ごめん、母う……うちの母親と名前が似てたから、ちょっとびっくりしたんだ」
少年の言葉に、春子は何か不思議な違和感を覚えた。しかし、それはすぐに消え去った。
「そうなの?珍しい名前でもないと思うけど――とにかくよろしくね」
「わかった、春子」
少年の返事に、春子は思わず息を呑んだ。まさかこんな年下の少年に呼び捨てにされるとは予想だにしなかったのだ。
しかし、不思議なことに、その不作法さは目の前の少年の雰囲気に奇妙に馴染んで、春子は自分もまた少女の頃に戻ったかのような面映ゆさを感じていた。
春子は和紙の小舟を指差した。それはもう遠くまで流れていっていたが、月明かりに照らされてかすかに光っているのが見えた。
「ここではね、お盆の時期に亡くなった人の霊を送るために、小舟を流すの」
春子の声には、懐かしさと寂しさが混ざっていた。その言葉に込められた感情が、夜風に乗って川面を渡っていくようだった。
「へえ、面白い風習だね」
蛍太郎の反応に、春子は首を傾げた。やはり、近所の子ではないらしい。改めて見ると、蛍太郎は田舎には珍しい、洗練された都会的ないでたちをしていた。その立ち居振る舞いにも、どこか異質な雰囲気があった。
蛍太郎は興味深そうに小舟を見つめた。その眼差しには、単なる子供の好奇心以上のものが感じられた。まるで、遠い過去の記憶を呼び覚ましているかのようだった。
「春子は、誰かを送ったの?」
その質問に、春子の胸が締め付けられた。喉まで出かかった言葉を、一瞬飲み込む。しかし、不思議なことに、この少年には素直に話せそうな気がした。それは、長年秘めてきた思いを吐露する機会のようにも感じられた。
「ええ、祖母と…」
春子は一瞬躊躇したが、続けた。その言葉は、長い間心の奥底に閉じ込めていた感情の扉を開けるようだった。
「……そして、私が世話をしていた男の子」
その言葉を口にした瞬間、春子の目に涙が光った。月明かりに照らされ、その涙は小さな宝石のようだった。
「その子のこと、教えてくれる?」
蛍太郎の目が真剣な光を帯びた。その眼差しは、春子の心の奥底まで見透かすかのようだった。春子は深呼吸をし、健一のことを語り始めた。彼の笑顔、好きだった遊び、そして――あの悲しい事故のこと。話しながら、春子の目に涙が溢れた。それは悲しみの涙であると同時に、長年押し殺してきた感情を解放する浄化の涙でもあった。
「春子、泣かないで」
蛍太郎が優しく言った。その声には、年齢不相応な深い慈しみが込められていた。
「きっとその子は、春子のことを見守っているよ」
その言葉に、春子は思わず顔を上げた。蛍太郎の瞳に映る自分の姿が、まるで別の世界を覗いているかのように感じられた。
「ねえ、春子」
蛍太郎が言った。その声には、どこか切実なものが感じられた。
「明日の晩も、ここに来る?」
春子は少し驚いた。見知らぬ少年との約束。常識的に考えれば、断るべきだろう。しかし、この不思議な少年との時間が、彼女の心を癒してくれているのを感じていた。長い間忘れていた、心の安らぎを取り戻せそうな気がした。
「ええ、いいわ」
春子は微笑んだ。その笑顔は、長い間失われていたものだった。
「でも、こんな遅くまで外にいて大丈夫なの?」
春子は心配そうに尋ねた。蛍太郎は不思議そうな表情を浮かべた。その表情には、どこか現世離れした雰囲気があった。
「僕は大丈夫だよ。それより、明日も蛍を見よう。きっと、もっときれいだよ」
その言葉に頷きながら、春子は不意に寒気を感じた。夜風のせいだろうか。それとも――。そんな不安が頭をよぎったが、すぐに打ち消された。
「じゃあ、明日ね」
蛍太郎が立ち上がった。その姿は、月明かりに照らされて影絵のようだった。
「ええ、明日」
春子も立ち上がり、少年の後ろ姿を見送った。蛍太郎の姿が闇に溶けていくのを見ながら、春子の中に奇妙な感覚が広がっていた。懐かしさと不安、温かさと寒さ。相反する感情が入り混じる中、春子は帰路についた。
そして、春子には気づかれなかったが、川辺の闇の中で、大小二つの小さな光が、彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。その光は、蛍のようでもあり、人の目のようでもあった。
翌日の夕暮れ時、春子は約束の場所へ向かおうと、そっと家を出ようとした。しかし、玄関先で兄の声に呼び止められた。
「春子、どこへ行くんだ?」
振り返ると、兄が心配そうな顔で立っていた。春子は少し躊躇したが、正直に答えた。
「ちょっと、河原のあたりまで」
兄の顔に驚きの色が浮かんだ。
「河原だって? 昨日ならともかく、わざわざ今日にーー?」
春子が黙って頷くと、兄は眉をひそめた。
「春子、あそこには近づかない方がいい。昔から鬼が出るって噂があるんだ」
その言葉に、春子は思わず笑みを浮かべた。
「まさか。そんな昔話、信じてるの?」
兄は真剣な表情で春子を見つめた。
「半分冗談かもしれないが、あそこは夜になると本当に危ないんだ。昔から変わった話をよく聞くし...」
春子は兄の言葉を遮るように、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。すぐに戻ってくるわ」
「でも...」
兄が何か言いかけたが、春子はもう玄関を出ていた。兄の心配そうな声が背中に届いたが、春子の足は止まらなかった。
太陽は西に傾き、辺りは薄暗くなり始めていた。春子の心の中で、兄の言葉と蛍太郎との約束が交錯する。
そして、その奥底から、忌まわしい記憶が湧き上がってきた。健一が命を落とした、あの川辺。今向かっているのは別の場所だと分かっていても、似た風景が過去の痛みを呼び起こす。
春子の中で葛藤が続いていた。理性は警告を発しているのに、体は自然と前に進んでいく。蛍太郎との約束が、不思議な形で彼女を突き動かしていた。
河原に近づくにつれ、人気はまばらになっていった。昨日とは打って変わって、人影がなく、只々静寂が支配していた。蛍の光さえ、まだ見えない。春子の心臓が、期待と不安で高鳴っていた。
空には薄暗い雲が広がり、月の光を遮っていた。その結果、川辺は昨日よりも深い闇に包まれていた。足元の小石が、春子の草履に当たって小さな音を立てる。その音が、異様なまでに大きく感じられた。
「蛍太郎くん?」
春子は小声で呼びかけた。自分の声が、闇の中に吸い込まれていくような感覚があった。返事はない。不安が胸をよぎる。もしかしたら、昨夜の出来事は夢だったのではないか。そう思い始めた時、背後から声がした。
「春子、来てくれたんだね」
振り返ると、そこには昨夜と同じ姿の蛍太郎が立っていた。月明かりが雲間から漏れ、蛍太郎の姿を淡く照らしだす。しかし、何かが違う。少年の目は、昨日よりも深い色を湛えているように見えた。その瞳には、幾百年もの時を経たような深い憂いが宿っていた。
「ええ、約束だもの」
春子は微笑んだが、どこか居心地の悪さを感じていた。昨日感じた温かさは、今や不思議な緊張感に取って代わっていた。背筋に冷たいものが走る。
二人は昨日と同じように川辺に腰を下ろした。春子のすぐ横を、小さな魚が跳ねた。水面に広がる波紋が、月の光を散りばめたように輝く。蛍はまだ姿を見せない。
「春子、昔話を聞かせてあげようか」
蛍太郎が言った。その声音には、年齢不相応な重みがあった。まるで、長い年月を生きた老人のような響きだった。春子は無言で頷いた。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。何か重大なことが語られようとしているという予感が、彼女の全身を包み込んだ。
「むかし、むかし、この国で大きな戦があったんだ。源氏と平家という二つの家が、天下を賭けて戦った」
蛍太郎の話す源平合戦の物語は、春子が知っているものとは少し違っていた。教科書や物語で読んだそれとは異なり、まるで、その場にいたかのような生々しさがあった。血の匂い、刀剣の鳴る音、悲鳴、それらが蛍太郎の言葉を通じて、春子の脳裏に鮮明に浮かび上がる。
「その戦の最後、平家の人たちは海に追い詰められたんだ。そして…」
蛍太郎の表情が曇った。その瞳に、深い悲しみの色が宿る。春子は思わず息を呑んだ。
「ある少年がいた。平家の末端の武家の子で、義理の母に育てられていたんだ。でも、最後の戦いで、その母は実の子だけを抱いて海に身を投げた。少年だけを置いて」
春子の胸に、鋭い痛みが走った。その少年の姿が、健一と重なって見えた。置き去りにされた少年の悲しみ、怒り、絶望。それらの感情が、まるで目の前で起きているかのように生々しく伝わってくる。
「少年は生き延びた。でも、それは祝福じゃなかった。少年は呪いをかけられたんだ。永遠に生き続ける呪いを」
蛍太郎の目が、不思議な光を帯びて輝いた。その瞳の奥に、春子は計り知れない時の流れを感じた。それは人間の理解を超えた、何か畏怖すべきものだった。
「少年は旅を続けた。何百年も。そして気づいたんだ。自分の血を分け与えれば、他の人も不死になれることを」
春子は震える声で尋ねた。その声には、恐怖と同時に、どこか哀れみのような感情も混じっていた。
「それで、その少年は幸せになれたの?」
蛍太郎は悲しげに首を振った。その仕草には、数え切れないほどの失敗と後悔が刻み込まれているようだった。
「違う。血を分けた人たちは、みんな狂ってしまった。数十年経つと、正気を失って、衰弱して……消えていったんだ」
「でも、なぜ?」
「きっと、愛が足りなかったんだ」
蛍太郎の目が、春子をじっと見つめた。その眼差しには、底知れぬ孤独と、同時に何かを求める切実な思いが込められていた。
「本当の愛があれば、きっと永遠に一緒にいられるはずなんだ。じゃないとみんな、母上みたいに勝手に死んで、僕をおいていくはずがない」
その瞬間、春子は全てを悟った。蛍太郎の正体、そしてこの状況の危険さを。背筋に冷たいものが走る。同時に、この少年の姿をした存在への同情も湧き上がってきた。永遠の孤独、それは何よりも恐ろしい呪いなのかもしれない。
突如として、春子の脳裏に兄の警告が鮮明によみがえった。出発前の玄関先での会話が、まるで目の前で再現されているかのようだった。
(春子、あそこには近づかない方がいい。昔から鬼が出るって噂があるんだ)
半ば冗談めいた忠告だと思っていたその言葉が、今、恐ろしいほどの現実味を帯びて響いてくる。春子の喉が震える。口から出る言葉さえ、自分のものとは思えないほどだった。
「あなたは……」
言葉が途切れる。蛍太郎の姿が、月明かりに照らされてぼんやりと揺らめいているように見えた。春子は唇を噛み、勇気を振り絞って問いかけた。
「鬼なの?」
その一言を発した瞬間、空気が凍りついたかのような静寂が訪れた。蛍太郎はゆっくりと頷いた。その仕草には、真実を明かす解放感と、同時に春子の反応を恐れる不安が混じっていた。
「そう呼ばれることもあるね。でも春子、怖がらないで。僕は君を幸せにしたいんだ。永遠の命をあげたいんだ」
その言葉には明確な嘘があった。春子にはそれが分かった。蛍太郎が求めているのは、春子の幸せではない。彼が欲しいのは、自分自身の救いだった。
「違う、あなたはずっと母親の代わりを探しているだけ、私は永遠の命なんて望んじゃいない」
春子の言葉が夜の静寂を切り裂いた。その言葉には、蛍太郎の本質を見抜いた鋭さがあった。蛍太郎の表情が一瞬にして歪んだ。その顔には、幼子のような悲しみと、年老いた魂の苦しみが同居していた。
「僕は本当の愛を求めているだけだ!」
蛍太郎の声が低く唸るように響いた。その声には、数百年の孤独と絶望が凝縮されていた。春子は後ずさりしようとしたが、蛍太郎の動きの方が速かった。少年の姿をした吸血鬼は、一瞬で春子の前に立ちはだかっていた。
「春子、どうして分かってくれないんだ」
蛍太郎の目に狂気の色が宿った。その瞳には、理性の光が消え、代わりに獣のような野性が宿っていた。
「僕たちは永遠に一緒になれるんだよ。そうすれば、もう誰も僕を置いていかない」
蛍太郎の手が春子の首に伸びた。その細い指からは想像もつかない力が溢れ出ていた。春子の首に、冷たく、しかし鋼鉄のように強い指が食い込む。
「そして、僕は君を永遠に置いていかない」
その言葉に、春子の抵抗の手が一瞬緩んだ。蛍太郎の囁きは、闇夜に響く妖しい旋律のよう。永遠の愛。誰からも見捨てられない約束。それは春子にとって、灼熱の砂漠で喉カラカラの旅人に差し出された一杯の水のように、あまりにも魅惑的だった。
しかし、その甘美な誘惑に溺れかけた瞬間、春子の心の深淵から、かすかな光が灯った。健一との思い出が、闇を切り裂いて走馬灯のように駆け巡る。短くとも輝かしかった日々、無邪気な笑顔、温もりに満ちた触れ合い。健一が春子に遺してくれたものは、永遠よりも遥かに尊く、深い愛だった。
「いらない…永遠なんて……」
春子の声は震えていたが、確かな意志が込められていた。その言葉に、蛍太郎の瞳に狂気の色が宿った。
「なぜだ…なぜわからない!春子……母上!」
彼の指が、怒りと絶望に任せるように、徐々に春子の首を締め付けていく。春子の視界が暗転し始めた。肺が焼けるような痛みを感じる。息ができない。このまま死んでしまうのか。そう思った瞬間――。
突如として、無数の蛍の光が彼らを取り巻いた。それは今までに見たこともないほど明るく、温かな光だった。まるで、天からの救いの手のようだった。
蛍太郎の手が緩む。
「これは…」
光の渦の中心から、一つの大きな光が現れた。その光は春子を優しく包み込んだ。温かく、慈しみに満ちた光。それは春子に、温かい祖母の笑顔を思い出させた。
その瞬間、春子は体の力が抜けていくのを感じた。首の痛みが和らぎ、呼吸が楽になる。光に包まれた春子の体は、まるで羽毛のように軽くなったようだった。
「母上…?いや、違う…でも…」
蛍太郎の声は、混乱と戸惑いに満ちていた。その姿は、もはや恐ろしい鬼というよりも、迷子になった頑是ない子供のようだった。
蛍の光は徐々に薄れていき、やがて夜の闇に溶けていった。春子は深く息を吸い、周りを見回した。蛍太郎の姿はもうそこにはなかった。
「蛍太郎くん……?おばあちゃん……?」
ふと、春子は鼻先に一匹の蛍がいることに気がついた。それは先ほど春子を救った大きな光の蛍と比べると、幾分か小さな光ではあったが、その体は健気に輝いていた。その小さな光が、春子の目に映る世界をゆっくりと変えていくようだった。
(健一、私を家まで案内してくれるのね――)
その思いが胸に浮かぶと同時に、春子の目に涙が溢れた。しかし、それは悲しみの涙ではなく、何か温かなものが心の奥底から湧き上がってくるような、不思議な感覚を伴う涙だった。
深く深呼吸をして、小さな蛍が先導する道を春子は歩き出した。足元の草を踏む感触が、今までにないほど鮮明に感じられた。夜風が頬をなでるたび、春子は自分の中に新しい力が芽生えていくのを感じた。
月明かりに照らされた道を歩きながら、春子の心に様々な記憶が蘇る。健一との楽しかった日々、そしてその大切さが、今になって鮮明に蘇ってきた。どうしてこんなに大切な記憶を、私は忘れていたんだろう。
祭りの夜、眠くてぐずる健一をあやしながら手をつないで歩いた道。その記憶が、今歩いている道と重なって見えた。春子は微笑みを浮かべながら、帰るべき我が家に向かって歩を進めた。小さな蛍の光が、まるで健一の小さな手のように、春子を導いているかのようだった。
あれから一年。夫の仕事の都合で、一家は都会の広い屋敷に転居してきた。慣れない環境に戸惑いもあったが、春子は新しい生活に少しずつ馴染んでいった。
夏の終わりを告げる風が、庭の木々を静かに揺らしていた。空は夕焼けに染まり、薄紫色の雲が流れていく。西の空から差し込む茜色の光が、庭全体を温かな色調で包み込んでいた。
春子は縁側に腰かけ、膨らんだお腹に手を当てながら、遠くを見つめていた。庭の隅に咲く萩の花が、夕日に照らされてほのかに赤みを帯びている。街中の喧騒とは無縁の、静謐で落ち着いた空間が広がっていた。
「お母さん、お茶淹れたよ」
長女の美咲が、湯呑みを持ってきた。その仕草は、春子自身が若かりし頃を思い起こさせた。
「ありがとう、美咲」
春子は微笑んで受け取った。湯呑みから立ち上る湯気が、懐かしい香りを運んでくる。次男の信二も寄ってきて、春子の横に座る。血の繋がりはなくとも、子供たちの温もりが、春子の心を優しく包み込む。
「赤ちゃん、もうすぐ生まれるの?」
信二が、好奇心に満ちた目で尋ねた。春子は優しく頷いた。
「そうね、もう少しだわ」
その言葉には、期待と不安が入り混じっていた。新しい命を迎える喜びと、未知なるものへの恐れ。春子の心は、相反する感情の渦の中にあった。
「名前は決まったの?」
美咲が興味深そうに尋ねた。その瞳には、姉としての誇りと、新しい家族を迎える喜びが輝いていた。
「ええ、健吾よ」
春子は穏やかに答えた。「健吾」という名前を口にした瞬間、どこか懐かしい感覚が春子の心をかすめた。それは遠い記憶の中の、ある夏の夜の出来事のようでもあり、また生まれてくる我が子への期待のようでもあった。
あの夜の不思議な体験は、今となっては夢のようだった。しかし、大小二匹の蛍――祖母と健一――に救われたその記憶は春子の心の奥深くに刻まれ、彼女を変える何かになっていた。
その時、庭の隅に小さな光が見えた。春子は息を呑んだ。蛍だった。ほのかな蛍の光に、春子の心臓が早鐘を打つ。
「わあ、蛍だ!」
「こんな街中に蛍なんて珍しいね」
信二が目を輝かせて叫んだ。美咲も驚いた様子でその声は弾んでいる。子供たちの無邪気な喜びに、春子は静かに微笑んだ。
(弟たちに挨拶に、健一が帰ってきてくれたのかしら)
(それとも、また私に会いに生まれ変わりにきてくれた――?)
子供たちは興奮して蛍を眺めていたが、春子の心の中では、遠い記憶が微かに揺れていた。あの夏の夜のこと、不思議な少年のこと――。
春子の脳裏には時折、あの哀れな鬼の子の姿が浮かんでは消えた。春子は自分の選択を後悔してはいない。それでも彼の言う『永遠』を受け入れていたら、今頃どうなっていただろうかと思いを巡らせることがあった。
夜が更けていく中、蛍の光は次第に強くなっていった。春子には気づかれなかったが、その光は彼女のお腹に向かって、ゆっくりと近づいていくようだった。まるで、何かを求めているかのように。
「さあ、良い子は寝る時間よ」
春子は子供たちを中に入れながら言った。最後に振り返った時、蛍の光は消えていた。しかし、春子のお腹の中で、新しい命が静かに、しかし確かに動いていた。その動きは、これまでとは少し違う感覚だった。
春子は穏やかな気持ちで布団に横たわった。明日も、そしてその先も、きっと平凡で幸せな日々が続くのだろう。そう思いながら、彼女は気づかなかった。
庭の隅、蛍の光が最後に見えた場所で、一枚の葉の上に一滴の露が光っていた。月明かりに照らされたその露は、まるで小さな宝石のようだった。しかし、よく見ると、その中に微かな赤みがあるようにも見えた。それは今まさに消えようとしている、本来そこにあるべき命を思わせた。
(春子......ようやく君に会えた)
その声は夏の夜風にかき消されて、誰の耳にも届くことはなかった。しかし、春子のお腹の中で、本来そこにいるはずのない意識が、冷たい満足感に浸っていた。その存在は、長い年月をかけて求め続けた安住の地を、ようやく見つけたかのようだった。
庭に落ちた一滴の露は、月明かりに照らされてゆっくりと地面に吸い込まれ、消えていった。
蛍夜奇譚 とりにく @tori29umai0123
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