第32話エミリア、見舞いに行く


 私はほんの一瞬、自分の体が宙に浮いたような気がした。現実にはそんな事はあり得ず、はっきり認識できたのは自分の靴が手すりに当たったカツッという音だけだった。その後にやってきたのは衝撃。まるで湖にでも飛び込むような形で落下した私は、胸部を強く打ち付けた。子供の時、コカトリスに襲われて転んだあの時の衝撃と似ている。でも私が落ちたのは地面の上ではなかった。


「うっ、ぅぅ・・だい、じょうぶですか。エミリアさま・・」


 ルーカスが私の下敷きになっていた。


「ルーカス!」


 周囲から悲鳴やら喚く声がして、その中からまずイライザの声が頭上から降ってきた。


「エミリア様! 大丈夫ですか?! 動かないで、すぐ降りていきます」


 イライザより先にスタイルズが駆け付けた。私の横に跪いて安否を確かめる。「動けますか? ゆっくり、ゆっくり起き上がって下さい。私に掴まって」


 体を動かすとあちこちから痛みが走った。立ち上がろうとしたが膝に激痛が走り、そのままうずくまってしまった。


「エミリア様! 私がお側にいながら・・申し訳ありません」


 イライザが真っ青な顔をして私の隣にしゃがみこんだ。


「私は、多分大したことないわ。それよりルーカスを見てあげて、私の下敷きになったんだから」


 ルーカスは起き上がろうとしているが、苦痛に顔を歪めただけでそれは失敗に終わった。スタイルズがルーカスの足を動かしたりして状態を確認している。


 続いて劇場の支配人という人物が慌てて駆け付け、医者を呼んだからもう少し待って欲しいと告げた。


 医者は最速で駆け付けたとは思うが、その頃にはルーカスも体を起こすことが出来ていた。ルーカスと私が落ちたのは出来たばかりの花壇の上で、厚く盛られた土がまだふかふかの状態だった。そのお陰で、私達は奇跡的に軽傷で済んだのだ。ただし花壇にあった可憐な花々は無残な有様になっていたが。


 医者が私とルーカスを診ている間、支配人はイライザよりも青ざめた顔で、拳を口に押し付け立ち尽くしていた。こけら落としの公演でこんな事故が起きるとは、何て縁起が悪いのだろうと考えているに違いない。だけどこれは・・事故ではないわ。私の背中を押した人物がいるのだから。




 私は膝を打ってしばらくは不自由した。膝を曲げると痛いので、椅子に座る時など普段の何気ない動作が辛かったのだ。でも私はいい方だ。ルーカスは背中を強く打ち付けたので、しばらくはベッドで安静にしていることを医者に義務付けられた。腰だったら下半身不随、首が折れていたら即死だったと言われて、私はぞっとした。


 あの時、ルーカスは私より先に階段を下り始めていた。私より地面に近い所にいたルーカスは、とっさの判断で私の下に体を投げ出し、落ちてくる私を受け止める形で下敷きになった。騎士として普段から鍛えているルーカスだからこそこの程度で済んだのだ。彼が居なければ私は・・多分助からなかっただろう。



 あれから5日、私は2度目のお見舞いにルーカスの部屋がある騎士団の寮を訪れた。


「ルーカス、体の調子はどう?」

「それが、僕はもう平気だと訴えているんですけど、父もイライザもまだベッドから出るなと言うんです。どうかエミリア様から口添え願えませんか? ベッドの中で僕にカビが生える前に」


「ずっとベッドでゴロゴロしていられるなんて、私が代わって欲しいくらいだわ」


 ルーカスは本人が言っているように顔色も良くなって元気そうだ。ベッドから体を起こす動作も軽い。二十歳そこそこの若者が5日も部屋に閉じ込められていては、カビが生えそうだと愚痴るのも当然かもしれない。


「エミリア様はそんなにお忙しいのですか?」

「そうね、ちょっとゴタゴタがあって・・」


 私は話しながらベッド脇の椅子に腰かけた。お見舞いに持ってきたバスケットにはリンゴが入っている。その真っ赤なリンゴの皮を剝こうとするとすると、ルーカスが目を見張った。


「それ、エミリア様が?」

「そうよ、私だってリンゴの皮くらい剝けるわ」


 思ったよりも上手にリンゴを剝く私を見て、ルーカスは少し感心したようだ。初めはハラハラしながら私の手元を見ていたのが、今は顔がほころぶのを隠し切れない様子だ。


「なあに、どうしてそんなにニコニコしているの?」

「お嬢様が私にリンゴを剝いて下さるのが嬉しくて」


「私を庇ったせいでルーカスはベッドから出られなくなったんですもの、これ位は当り前よ」

「僕はお嬢様を守るためなら何だってします。お嬢様の幸せを一番に願っていますから」


 ルーカスったら大袈裟ね。ルーカスは真面目だから、護衛騎士としての職務を是が非でも全うしようと思うんだわ。でもそれと私の幸せとはあまり関係が無い気がするけれど。


「さあ出来たわ、じゃあ・・あーんして」

「えっ」


 ふいにイタズラ心が頭をもたげた。私のナイフ使いを怪しんだルーカスへの仕返しよ! 予想外の事にルーカスは顔を真っ赤にして動揺している。


「おいしいリンゴなのよ、食べてルーカス」


 私はルーカスの動揺など素知らぬ顔でリンゴを勧める。ルーカスは覚悟を決めてリンゴをかじった。シャキシャキと子気味いい音がする。


「ん、とへもおいひいえす」


 急いでリンゴを飲み込んだルーカスは、私の手からリンゴの皿を奪い取った。


「あ、あとは自分で頂きます!」

「あら、遠慮しなくていいのに」


 ルーカスは慌てて手を振りながら耳まで赤くなった頭を振った。


「お、大人をからかうものではありません! お嬢様の時と違って、熱もありませんし、すりリンゴじゃないですから、こぼれる心配もいりませんし・・」


「大人で言えば私の方がずっと大人よ、変なルーカス。それに私の時? 熱って?」


 この時はルーカスが何を言っているのかさっぱり分からなかった。他にも色々と気に掛かることがあってじっくり考えたいのに、そんな時に限ってトラブルは起こるのだ。


 ドアがノックされてスタイルズが顔をのぞかせた。


「エミリア様、お屋敷に銀行の方がお見えになっているそうです」

「ああ、アレクね。すぐ行くわ、ありがとう。・・ルーカス、ベッドから出られるかはお医者様に聞いておくわね」





 今日アレクが来たのは、先日言っていた融資についてだ。だから応接間ではなく、私の書斎に通すように執事に言ってある。


 書斎で待つアレクの表情は優れない。アレクは割と顔に出るタイプだったのだ。


「あまりいいお話ではなさそうね」

「そうなんだ。この間まではいい方向にいっていたんだけどね」


 私は3年ほど前からお母様の後を引き継ぎ、鉱山組合の理事をしている。組合での共同事業や過度の競争を防止したり、新しく鉱山事業を始めた貴族に運営の指導をすることもある。


 最近のゴタゴタはこの鉱山組合からもたらされていた。

  

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