爆弾彼女

古澤 

第1話

1


  家の前で猫が死んでいる。ああ、なんだ。ただの段ボールか。バイクにエンジンをかけた。振動で頭が痛くなる。少しだけ目をつむった。昨日、お酒を飲み過ぎたのが原因だ。まだ気持ちが悪い。意を決してハンドルを捻り、ダンボールを踏んづけて道路へ出た。バイクの揺れに魂を吸われる。カビ臭い黄ばんだ建物に、ひび割れたコンクリートを覆うネズミ色の空。歩道ではオッサンが溝にタンを吐いている。今日のシフトは休めばよかった。


「いらっしゃいませー」


 カランカランとベルが鳴り、若い夫婦が店に入ってきた。感情の抜け落ちた挨拶がシェフにばれて少し睨まれる。俺は汗を拭くフリをして、そいつから目を背けた。今日に限っては仕事の時間が長く感じる。頭も痛い。ぼーっとしてきて、また昨日のことを思い出す。昨日、4年付き合った彼女と別れた。バイトを終えて風呂から出ると、「他に好きな人ができた」と急な別れを告げられたのだ。もちろん、納得はできない。俺は急いで電話をかけた。考え直してもらえないかと頼んだ。「変わらない。ごめん」と彼女は泣きながら答えた。泣きたいのはこっちだ。俺は最後に好きになった相手を尋ねた。相手は一つ上の先輩で、彼女と同じ有名大学に通う高学歴。高校時代はテニスで全国大会に出たような、地元の有名人だった。茶髪で鼻筋が通っていて、目が大きいらしい。テニスサークルで知り合って、意気投合して、ご飯に行くんだと。


 完全な私情なためシェフには申し訳ないが、今日のバイトは身が入らない。パスタの出来も過去一酷い。味がしなかった。


2


「なあ、このあと時間あるか?」


 バイトも終わり、店を閉めて帰ろうとするとシェフに呼び止められた。叱られるのだろう、流石に酷すぎた。「ある」と小さな声で返事をして、シェフのセダンの後ろを二輪車に跨ってゆっくりと着いて行った。満点の星が一面に広がり、路地の隙間をそよ風が吹き通る。静かな夜だった。


 俺とシェフはもつ鍋が有名な店の個室に入り、高菜の入ったポテトサラダをつまんだ。不思議なことに、まだ味がしない。だが、きっと美味いのだろう。口の中で、高菜と芋の香りが一つになるのが分かる。次に頼んだだし巻き卵が届くと、煙草の火を消したシェフが「何かあったのか」とついに喋った。


「別に。なにもねえよ」


 残り火はまだ消えない。ぐりぐりと強く灰皿にタバコを押し付ける。


「そうか、そうか。…国見くにみちゃんは元気か?」


「…ああ。元気にしてるんじゃないか」


「そうか。ならよかった」


「なんだよ急に」


「さあな。まあ、今日は気分がいいから奢ってやるよ」


 ブハッとオッサンの汚い唾がテーブルの上に撒き散った。


「喧嘩売ってんのか」


「死ぬほど食えよ。クソガキ」


 俺は正直、50半ばのオッサンが何を考えているのか分からない。シェフはまた新しいタバコに火をつけて眠そうに目を擦った。朝の仕込みから店に居ただろうに、こんな夜まで遊びに出て。本当に変な奴だ。俺はだし巻き卵を摘んだ。この店はだし巻き卵も美味いらしい。カツオの香りに乗って甘じょっぱいだしが口に流れ込む。家庭では簡単に真似できない絶品であった。


3


 土日は好きだ。2日も学校を休める。硬いソファーに寝転び、テレビでYouTubeを眺める。今日はバイトも休み、久しぶりに昼寝でもしようか。何も考えずに天井を眺める。どうも眠くならない。起き上がって頭を掻いた。ふと、目に入ったのは国見 春香はるかと二人で撮った写真と木製の写真立て。ああ。その笑った顔が好きだったな。俺の手が好きだと言って、いつも握ってくるところも、髪から香る果物のような匂いも。好きだったな。俺はまた頭を掻いた。肩が重い。体が重い。外に出よう、忘れよう。服を着替えてバイクに乗った。コーヒーでも飲みに行こう。漫画喫茶がいいかな。半袖の裾から向かい風が流れ込み、汗で濡れた肌を一気に冷ます。ワンピースの続きが楽しみだ。大きな入道雲が、太陽を覆った。おかげで元気になれそうだった。

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