日陰者
鈴界リコ
日陰者
弾むような足音が廊下を駆けてくる。そこに赤と青の風船が伴っていることを、マリア・フアナは知っていた。カーテンの隙間から覗いた時に見えたのだ。恐らく、15号線沿いにあるガソリンスタンドで配られていたのだろう。あそこでは毎週末になると、フード・トラックを呼んだり、テレビアニメのキャラクーにそっくりの着ぐるみを身につけたおどけ者が飛んだり跳ねたりしている。
今日が土曜日なのか日曜日なのか、もはやマリア・フアナには分からなかった。14歳の時、白人男の前でスカートの裾をたくし上げた日から30年近く経つが、教会へ足を運びたいと思ったことは数えるほどしかない。おかしなことに、カンポ・カレテロの宿屋から連れ出され、この『ザック・ラパラのドンキー・ハウス』で左団扇の生活を送るようになって以来、信心は一層薄れた。
遣り手婆に見張られていた時分は、日曜日の礼拝が数少ない外出の機会だったから、渋々通っていたようなもの。でもよく考えれば、己は出歩くのが然程好きではないのだ。特にこの季節の日差しと言えば、目にも肌にも鞭打つような痛みを与える。通りの向かいで客待ちをしているタクシーを拾うまでに、一回り縮むほど汗を掻きそうだった。
実際にその目で確かめることが少なくなった分、想像力は豊かになる。日がなカーテンを締め切った部屋で、下着姿のままベッドに横たわっていようと、彼女の体は痩せも太りもしない。動かないことで蓄えた栄養を脳が吸い上げ、無尽蔵のイメージを構築する為に消費してしまうのだろう。
先程ちらと一瞥した時、灼熱の太陽に炙られた空気の中、風船はお利口な飼い犬よろしく紐を握りしめる手の先で留まっていた。その光景だけでも、手がかりとしては十分だ。無造作に引っ張られた二つの球は時にぶつかり合いながら、時代かかった曇りガラスのドアを潜り、床へ撒かれたばかりのおがくずへ足跡を刻み、酒場の奥にある階段を軽やかに駆け上がる。
染みだらけな緑色の絨毯の果て、廊下の突き当たりにあるのは「ラパラ夫人」の部屋だ。昼でも夜でも関係なく、ノックしてから入らなければならない。そもそもこの部屋のドアを叩くなんて、本来許されるものではなかった。けれどマリア・フアナは、騒がしさがつんのめるようにして止まるや否や「どうぞ、お入んなさい」と声をかけた。それから慌てて、床に落ちていた黄色い絹のキモノを掴み、素肌の上に羽織る。
彼女が前を掻き合せるより早く、薄暗い部屋の中に、明るい日差しと新鮮な空気が流れ込んだ。
ロリィが赤い風船を、シレンシオが青い風船を持っていた。
10歳に満たない程の姉弟だが、二人は既に色々なことを心得ている。
「ドアを閉めてちょうだいね」
言いながら、マリア・フアナがベッド脇のテーブルに20ペソの硬貨を2枚置くと、ロリィはにっこり笑みを浮かべた。
「ラパラ夫人、今日は何をおてつだいしますか」
「ありがとう。そうね、取り敢えずゴミを出すのと、雑誌を片付けてもらえるかしら」
「分かりました」
鮮やかな金髪の巻き毛を振り立てて籠った熱を払うと、おしゃまな態度のもそのままに、弟の背中を押す。慌てた様子でベッド脇のゴミ箱へすっ飛んでいくシレンシオへ、ロリィは「片付けてからでしょ!」と声を張り上げた。
ふわりと浮き上がり、天井へ頭をぶつけた風船など、もはや見向きもしない。子供達はよく働いた。きっと、家でしっかり躾けられているのだろう。ソノラ砂漠の縁で養豚場とゴミ捨て場を管理する彼らの父に、ラパラは金になる仕事を任せている。親が用事をこなす間、ピックアップ・トラックで街まで連れてこられた子供達も一仕事という訳だ。
「ヘススは元気?」
「はい、パピは元気です。朝から卵を4つ食べたんです。両面焼きにしたのを4つも」
壁に寄せた本棚は腰程の高さ、合板をラッカーで白く塗装した貧相なものだった。詰め込まれたレパートリーと言えばもっと悲しげで、何年前のものか分からないレビスタ・ヒラルとか、国境の向こうから取り寄せているヴォーグやヴァニティ・フェア。手当たり次第に引っ張り出しながら、ロリィは汗の粒が浮いた額を小さな拳で擦った。
「でも、オスキは……今日は街へ行くって行ったらメスカルを買ってきてくれって。オスキはうちの近くに住んでる、ボラチョーン(飲んだくれ)なんです。いつでも家の前に出してる、ボロボロのアウトドアチェアで昼寝してるの。シレンシオが爆竹を投げつけたって、追いかけられないんだから」
よく喋るロリィと違い、喉に大きな傷のあるシレンシオは一言も口を聞かない。どちらも天使のように愛らしいことを除けば、全く似たところのない姉弟だった。紅茶に入れる砂糖のような肌色のロリィと、糖蜜色のお菓子みたいなシレンシオ──ヘススが拾ってきたのだ、と周囲は言う。何せあの男は街へ赴くたび廃品を回収している。銅線を取り出し、修理できるものは修理して、様々な工夫を凝らしているらしかった。
有り合わせのものでやり繰りし、満足を覚える生活は、確かに尊いのかもしれない。生きていけるだけの衣食住が足りている事は前提だが。それに子供達が何でも欲しがるのを罪だと、マリア・フアナは思えなかった。自らは赤ん坊が欲しいとなど、もはや考えない年齢になってしまったから、これも推測でしかないが。
「それなのに、パピはオスキへ買ってきてあげるんです……お酒さえあげたら言うことを聞く、あれでも気のいい男だからって。あなたもそうなんでしょう、ラパラ夫人」
「え?」
「何でもしてくれる、カンポ・カレテロの女神だって、オスキが言ってました」
短いワンピースから下着が見えることなどお構いなしにしゃがみ込み、ロリィは雑誌の端をとんとんと床で揃える。
「あなたが手を振れば、国中の男が心臓を捧げるって。ね、シレンシオ。あんたもラパラ夫人と結婚したいんでしょ」
紐で懸命に紙を縛っていたシレンシオが、まん丸の瞳を持ち上げる。ベッドの端でゆらゆら揺れる組まれた脚を眺めた後、その大きな頭はこっくりと頷いて見せた。
「でも結婚は出来ないのよ、ラパラさんがいるから。パピも言ってたじゃない。彼女に花を渡した男の指を、ラパラさんが切り落としたって。あんたもきっと、切り落とされるわ。一本残らずね」
すかさず意地悪げに鼻に皺を寄せた姉の言葉を理解する為、シレンシオにはしばらく時間が必要なようだった。飲み込んだら後は早い。ぽかんと開かれた口から派生した歪みは、みるみる内に顔一面へ派生する。埃に汚れた掌で目元を隠し、しくしくと泣き出した弟へ追い討ちをかけるよう、ロリィは「弱虫」と勝ち誇った口調で言い放った。
クーラーが必死で唸る室内は薄暗さもあり、氷室のような温度を保っているが、子供はすっかり水を被ったような有様。べたつく床へぽたぽたと汗や涙を落とす。
惨めに丸められた背中を更に嘲るよう、窓の下を驢馬の鳴き声が通り過ぎる。小屋から引き出されてきたらしい。店は朝の7時になると酒を出すが、ショーが始まるのは13時からだ。
いつもならば今頃、昼食を何にするか窺いにくる女中のローザは、一向に顔を出す気配がなかった。目の前の子供達も腹を空かせているのだろう、だからすぐに泣いたり根性悪を言ったりする。
ひゅう、ひゅうとか細く不規則な息の音からしばらく顔を背けていたが、結局マリア・フアナはナイトテーブルに手を伸ばした。
「喧嘩したら駄目よ。あんた達のパピは、そんなことをしたら怒ると思うわ」
苛々しながら漁る雑然とした引き出しの中に、食べるものは殆ど入っていない。
昔から、仕事の合間に甘い菓子をやたら口に入れたがる同僚を、マリア・フアナは軽蔑していた。或いは、羨んでいたと言ってもいいかもしれない。彼女は器量も肉体も並のものしか持っていなかったので、人より多くのローションを脚に擦り込み、暇さえあれば髪を洗っていた。
そんな彼女を、仲間達の中には七面鳥みたいだと笑うものもいたが、連中は今頃どうだろう。きっと一回に100ペソ恵んでもらえれば御の字の境遇に身を落とし、ぶよぶよした赤ん坊を抱え、フアレスの裏通りをさまよっているはずだ。あの頃と1ポンドたりとも体重が変わらない己とは、全く違う境遇。
ようやく見つけたチョコバーは、多分ラパラが置いていったものだった。あの男は夜中でもお構いなしに食事を摂る。何せまだ若いし、とにかく飢えているから。
そして腹を空かせていると言えば、働き者の子供達もそうだった。
受け取った菓子を、ロリィは半分に割り、弟に差し出す。長い睫毛に、きらきらと屑ダイヤのような涙の粒を乗せ、シレンシオは姉の顔を見上げた。まだ乾いていない鼻水に溶けたチョコレートが混ざり込み、口元までべとべとに汚している。ロリィは大袈裟に溜息をつき、ポケットからハンカチを取り出した。
「ラパラ夫人を困らせちゃいけないわ」
「別に困ってなんかないの。さあ、こっちへいらっしゃい」
めちゃくちゃに顔を擦られ、まだむくれているシレンシオに手を差し伸べる。少年を膝へ抱き上げれば、今度は姉の番だ。促されると、それまでのお喋りを引っ込め、脚を引き摺るようにこちらへやってくる。隣に腰掛けた華奢な体は、素直に引き寄せられた。アップルパイへ混ぜ込むシナモンのような芳香が鼻を擽る。太陽と、子供特有の体臭が混ざった、この部屋には全く不釣り合いな代物だった。
「悲しむのはあんた達のパピ。自分の子供達が仲良くしないことほど、親にとって悲しい話もないのよ。カインとアベルって知ってる?」
「でも、シレンシオが悪いんだ。シレンシオは時々、マミのところに行きたいって言うんです。動けなくなったこの子の喉を切って、砂漠へ置いてけぼりにしたのに」
今はチョコバーの代わりに親指を吸っている弟の顔を覗き込み、ロリィは声を張り上げた。
「今頃あんたのマミは、ツーソンで知らない男と結婚してる。そんなマミの方が、パピよりもいいだなんて、絶対許さない!」
シレンシオは怯え、傍らの胸にぽっちゃりした頬を押し付ける。またじわりと素肌が濡れる感覚に、マリア・フアナは天を仰いだ。冷房の風に吹かれ、風船はいつの間にか先ほどへばりついていたのと反対側の壁へ押しやられている。明らかに、それはもっと遥か高く、広々とした外の世界へ出て行きたがっていた。
「そうよ、パピの方がずっといいんだから」
「ヘススは女を家に連れ込まないのね」
「あたし達にマミはいらないって言ってました。少なくとも、あたし達が大きくなるまでは……」
となると、この子らの保護者が戻ってくるまでにはもう少し時間が掛かるかもしれない。ラパラは自分が使っている男達に対して、特別なセールを開いてやることがある。自らを鷹揚なボスだと思っているのだ。
「別に急いで片付けなきゃいけない訳でもなし、雑誌を読んでもいいわよ」
「ううん、ちゃんとしなくちゃ」
ぴょこんとマットレスから飛び降りた姉に続き、弟ものろのろと女の脚を滑り降りる。それにしても、抱きしめられなくなった途端、シレンシオはちゅっと音を立てて口から指を離した。父親も伊達男だが、この子も将来、とんだ女たらしになるかもしれない。
「こんなに沢山本を読んで、ラパラ夫人は賢いんですね」
「雑誌なんか眺めてても賢くならないわ。あんた達でも読めるわよ」
ララバイ横丁の素敵な奥様、と周囲はやっかみ半分でこちらを見上げる。実際のところ、残りの半分は一体何で構成されているのだろう。ぞっと、不愉快極まりない何かが背筋を伝い下りるのへ伴い、マリア・フアナは肌よりも遥かに滑らかな手触りをする布の上から、二の腕を擦った。
「何か欲しいのがあるなら、持って帰ったら」
「ありがとうございます」
頑張って仕事に取り組む子供達は、ベッドが作る影の中でも寒気の一つすら覚えていないようだった。もう雑誌の束は4つも出来上がり、後は一山分を残すだけになっている。そこから何冊かを熱心にひっくり返しているのはシレンシオで、ロリィは再びベッドに膝から乗り上げた。
「駄目、窓は開けないで!」
突如上がった大声に、姉だけではなく弟もこちらを振り向く。
「空気を入れ替えようと思って」
「分かってるの。その方がいいのよね……でも、ごめんなさい」
微かに湿ったシーツの上で、膝を折り曲げるようにして身を縮めながら、マリア・フアナは言った。
「太陽が苦手なの」
「病気なんですか」
「いいえ。あんた達には分からないでしょうね」
さして分厚くないカーテンでも、突き刺すような日差しを直接浴びずに済むくらいの役には立つ。細い合わせ目から伸びる、聖体拝領を受ける娘の髪へ棚引くリボンのような光ですら、この身は簡単に焼け焦げてしまうだろう。
「お天道様の下を堂々と歩けるのが、どれだけ幸せかってことを。私みたいな女に、外の世界は眩し過ぎる」
「そんなことありません。あなたって、本当に聖母様みたい」
その幼い面立ちには、白亜の像を拝むよう煌めきが宿り、ガラス玉のように澄んだ瞳が燃え上がる。母無し子の親愛。ねえ、と促されたシレンシオも、首がもげそうなほど強く、繰り返し縦に振った。
「あたしも弟も、パピやオスキも、それに勿論ラパラさんだって、あなたのことが大好き」
「汚いのよ、私って」
自分の肉を用いた行いに後悔はしていない。罪を纏っていたのは、この体を過っていった男達の方なのだから。
その日の受難にばかり気を取られていたので、苦界を抜け出した後の事まで考えが及ばなかった。
有り合わせのものに満足し、外へ手を伸ばさないでいられる人生は幸せだ。けれど、幸福は時として、罪になり得た。
またガラスの向こうから、驢馬の鳴き声が聞こえる。女の啜り泣く声も──ショーが終わったのだろうか、それとも金を払った男に引っ立てられていったのか。若い娘だった。見ずとも分かる。
自らはあの子位の頃、まだ夢を見ていた。己の感傷は蹄で踏み潰されずに済んだ。そんな柔いものではなかった、と言い張ることは愚か、ただ幸運に胸を撫で下ろすことすら、身を苛む。
シーツを固く握りしめていた手に、細い指先が触れる。はっとなって顔を上げれば、まず第一に、ゆらゆらと天井からぶら下がる紐が2本、目に飛び込んでくる。先端に作られた輪は、中に差し込むものを無くし、いかにも所在なさげでいながら、抜け目なく獲物を狙っているかのようだった。
「ラパラ夫人、大丈夫」
ロリィが囁く。
「大丈夫よ、ラパラさんがどうにかしてくれます」
「どうにもならない」
手を振り払い、マリア・フアナはもう一週間近く洗っていない髪を振り立てた。
「ザックに言われたあんた達のパピが、豚に何を食べさせてるか知ったら、あんたらもきっと恥ずかしくて顔を上げられなくなる」
シレンシオは雑誌を選り抜き、残りを紐で縛り上げた。その間にロリィが箒で埃を取り、塵取りの中身をゴミ箱に流し込む。
「本当に、ぜんぶ捨てていいんですか」
空っぽになった本棚を見下ろし、ロリィは首を傾げた。
「何も無くなったら、退屈するでしょう」
「幾らでも新しいものが買えるから」
「やっぱり。ラパラさんは、えらいのよ」
その場へ行儀悪く座り込み、雑誌を開いているシレンシオが、また指しゃぶりを始める。一瞥した姉の目からは、こまっしゃくれた色がすっかり抜け落ちていた。
「弟は、コラージュが大好きなんです。コラージュって言うのは、好きな絵を鋏で切り抜いて、ノートに貼ることで」
「学校で習ったの?」
「はい、家でもやってます。でも、うちにある本や、新聞を切ったら、パピに怒られるから」
階下から聞こえる指笛の音へ、子供達は殆ど同時に反応する。よく訓練された小山羊のように、跳ねるかの勢いで窓辺に駆け寄る。
「パピだ!」
姉弟は笑顔を浮かべ、階下に向かって手を振り返す。不意にマリア・フアナは、遥か昔、自らが宿の外で騒ぐ男達に向かって、同じ事をしたのを思い出した。今の夫よりもずっとだらしなく、ずっと醜く、それでいて気のいい男達。マリア・フアナ、マリア・フアナ、俺達の女神。声を限りに叫んでいた陽気な彼らは、今頃一体どこにいるのだろう。
「ごみを捨ててこなくちゃ」
「いいの、ローザにやらせるから……ヘススが待ってるわ。早く行きなさい」
硬貨を握らせれば、二人は何度か振り返りながらもドアへ向かう。
「風船を忘れないで。それから、ドアを閉めるのも」
再びロリィは赤い風船を、シレンシオが青い風船を手に取る。あまり勢いよく扉を閉めるものだから、遅れてついていく風船達は危うく挟まれそうになり、散弾で撃たれた頭の如くぱちんと弾けかねない有様だった。
ローザは風邪を引いたらしく、彼女の妹が食事を持ってきた。すっかり恐縮し、何度も謝る自らの母親ほどの年齢の女を労る気力が、マリア・フアナにはなかった。遅い昼食に目眩がして、そのまま微睡んでいれば、気付けば夜もとっぷり暮れている。
今やカーテンの裾を捲って見える明かりと言えば、遠くに伸びる国道を走る車のヘッドライトばかり。後はこの館そのものが放つ、赤や青の下品なネオンライト。不健康な照明は熱心に肌を舐め、まるで罪の証を刻み込もうとしているかのようだった。
部屋の外のざわめきに紛れたせいで、ドアノブが回る軋みに気付かなかった。
「灯りをつけないで」
マリア・フアナの訴えに、ザックは従った。
「寝てたの」
「もう起きてるけど、眼が眩むわ」
「ふうん」
彼は極めて恬淡とした男で、女の我儘にさして情動を揺り起こされない。男にはもう少し気短だった。ヘススが子供達を助手席へ押し込む前に、トラックの荷台へ何を投げ入れたか──自分のこと以外を考えるのは、仕事ではない。マリア・フアナは隣に寝そべった男へ背を向けた。
「もう店じまいの時間?」
「いいや。でも、驢馬が1頭、酷い咳をしてるんだ。早めに看板を下ろそうか考えてる」
夜目が効くザックは、ごちゃついたベッド脇のテーブルを手探りし、ウイスキーのボトルを掴み取る。昨日自らが用いたグラスへ、拭いもせず再び注いだ最初の一杯は、一息で飲み干された。彼もよく働く男だ、喉が乾いていたのだろう。
「昼間に咳止めシロップを飲ませたんだけどね、全然効果が出ない。もしかしたらインフルエンザかもしれないよ」
「驢馬ってインフルエンザになるの?」
「ならないとも聞いたことがないから」
「女の子に伝染るかも」
「伝染ったらその時さ」
もしも体調を崩したら、その子はショーでなく、客を取る仕事に回されるだろう。それがザック・ラパラにとって善意の限界だった。いや、さすがに熱が出ている間は休ませるかも知れない。別に稼がなくても構わないのだ、ただ借金が嵩むだけの話なのだから。
ザックが子供を望まなくて良かったと、心の底から思う。彼は強い男だ。聖母の哀しみとも神の沈黙とも全く無縁だった。それに、彼自身がどこか子供のようなところがあるし──
「疲れたの?」
「ええ、昼間はお客様の相手をしてたから」
「珍しい」
ふっと、バーボンの燻したような匂いが濃くなり、項に生ぬるい吐息が掛かる。一度も赤ん坊を育て終えたことのない女の腹へ触れる今、無骨な男の指先に色気は乗らなかった。
「もっと友達でも呼んだらいいのに」
「友達なんかいない。それに、人と話をするのは疲れる……こんなところに呼べないし」
「じゃあ引っ越せば」
まるで屈託ない口ぶりに、もはや怒りを奮い立たせるだけの気力すらが惜しい。それを知っていながら、ザックは肩口に顔を埋め、本格的に愛撫を施し始める。
「ここは日差しが強すぎる。昼間、ちゃんとクーラーが効いてるなんて信じられない」
「信じられなくても効いてる」
「この部屋にも女が待ってると思って、間違ってノックする馬鹿がいるかも」
「間違えたなら、訂正してあげればいい」
まだ昼間遊びに来た少年の方が、よほど聞き分けもいい。何か気に食わない事があったのか、それともただ単に退屈なのか、ザックはしつこく言い募る。いい加減面倒になり、マリア・フアナは背中へスプーンのように重なっている男を押し除けた。
黙って足を開くと、そうするのが儀礼であるかの如く、ザックは彼女に覆い被さった。枕の上でうねる垢じみた髪を手で掬い、押し付けた鼻をくんくん言わせるものだから、仕返しに彼の短い黒髪に指を潜らせる。こってり付けられた整髪料は体熱と夜の熱波に溶け、どろっと指先へ絡みつく中からフケの匂い。
愛情を裏返して現れたのが怒りであっても、まあ良かろうと許容してくれる人間は全く貴重だった。もはやマリア・フアナは、この男へ同調したいのか打ちのめしたいのかさっぱり分からなかったが、結局のところ誰かの頬をぶてば、自分がぶたれ返されたいのだと思われるのが世の常だ。もう彼女の中には外へ旅立つ為に必要な希望も、まして何かを誇示したり広めたりする気力など、欠片も残っていなかった。
「ああ、驢馬のことだけど」
陽が沈んで涼しくなるからと、クーラーを消したのがよくなかった。息苦しくて仕方がない。テーブルの上に乗ったありったけの物を床へと薙ぎ落とし、ようやくリモコンを掴むと、マリア・フアナは爪痕の刻まれたボタンを連打した。
「もしかしたら、ローザから伝染ったのかもね」
「ローザが?」
「風邪引いたとか言って、今日来なかったの。最近しょっちゅう休むし、クビにしようかしら」
「彼女も大変なんだよ。ホアキンも後3年は出てこられないだろうし」
別に彼女が、刑務所へぶち込まれる間抜けな旦那を持っているのは、私の責任じゃない。渦巻き急激に膨らむ怒りはけれど、喉の奥で引っかかり、息も詰まらんばかりだった。
まるでそれが見えていたとでも言わんが如く、大きな手が首を掴む。
「そうさ、メアリー・ジェーン」
国境の向こうにある生まれ故郷の言い方で女を呼ばわりながら、ザックは囁いた。どこかで、風船の割れる音がする。それともこれは、銃声だろうか。生まれ損なった言葉にとどめを刺す為、銃口は火を吹く。男はそれを、喜んでやり遂げる事ができるのだ。
「お前のしたいようにすればいいんだ」
夜に沈む若く端正な面立ちの中、琥珀色をした瞳がきらりと輝きを帯びる。
それは年老いた女の肌を青白く照らす優しい月明かりあり、闇の荒野に彷徨い出た家畜を狙う狼の眼差しでもあった。どうして逆らうことが出来るだろう。射抜かれ磔にされ、今夜もマリア・フアナは、無言のまま辛うじて息を紡ぐのだった。
日陰者 鈴界リコ @swamp
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