第7話 泡沫の幸せ ~過去の夢~ 5


―――私…何か怒らすような事をしてしまったのかしら……



「あ、あのっ セルゲイ様っ 少しよろしいでしょうか?」


 廻廊かいろうを歩くセルゲイ様に気づき、声をかける私。


「……すまない。仕事が立て込んでいるんだ」


 ふいっと私から目をそらし、ぶっきらぼうに答えたセルゲイ様。


「あ、は…い… 足をお止めして申し訳ありません…」


 私はうつきながらびた。

 そしてその場を去るセルゲイ様の背中を、私は部屋に入るまで見続けていた。


 …もう一か月近くろくにお話もしていないし、いつも召し上がって下さったお菓子も用意しなくていいと言われてしまった…時々連れて行って下さったお出かけも、今はもうない…


「……うっ」


 泣くのは、ここにきてからずっと幸せだったから。

 実家でひどい扱いをされても泣く事はなかった。

 だから今、セルゲイ様に避けられるだけで涙が出るなんて…贅沢な事なのよ…


 この結婚は両家の利益メリットの為。

 そこに愛情がない事は最初から分かっていたじゃない。


 セルゲイ様に優しくしてもらったからって、愛されているわけではないのに。

 ただ私が……セルゲイ様を愛してしまったから……だから今…悲しい……


 私は廻廊の隅で、声を殺して泣いた。



 ⊷⊷⊷⊷⊷⊷



「もしかしたら他に好きな方が…」


「え?」


「あ、いえっ 旦那様に限ってそんな事は…」


 ティータイムの時間。

 テーブルにセッティングしながら、ぽつりとつぶやくレナータ。

 

 先程、最近セルゲイ様に避けられているような気がするとレナータに相談したところ、彼女は含みのある言い方をした。

 

 好きな女性かた…?

 セルゲイ様に……想う女性かたが………?

 

 一緒に食事をしていてもぼんやりしている事が増えたのは、好きな女性ひとの事を考えていたから?

 私のお菓子を拒まれたのは……好きでもないわたしの作った物を口にしたくないから?

 お出かけしなくなったのは、私といたくないから…?


「……もしかしたら……そうかもしれないわね…」


「え!?」


「私では…最初からセルゲイ様と釣り合っていなかったから…」

 

 レナータが驚いている。

 そうよね、普通は動揺するものよね。

 夫に他に好きな女性ひとがいるかもしれないというのに…

 

 「……ら、…よっ」


 「え? レナータ、何か言った?」

 

 こちらに背を向け、声が小さかったのでよく聞こえなかった。 


 「…いえ。では、失礼いたします」


 「あ、ええ…ありがとう」


 レナータは急ぎ足で部屋を出た。

 何だか様子が変だったけど…気のせいかしら。


「ふぅ…」

  

 軽く息を吐く。


 動揺する事はない 

 傷つく事もない


 だって、私は愛されていないのだから。

 ただ名前ばかりの妻なのだから…


 もし…レナータの言う通り、セルゲイ様に他に好きな女性かたがいらっしゃって、離縁を申し出られたら応じよう。


 それに今のシュヴァイツァー家は、実家の資金援助により負債は完済し、資金不足により停止していた織物工場も稼働した事で収入が安定し始めている。


 もう…名前だけの妻は不要になったのかもしれない。

 

 それならそれでかまわない。

 私は十分幸せに過ごさせてもらった。

 今度は、セルゲイ様が本当に幸せなる番だわ。

 そう思い、決心したようにお茶を飲み干した。


 

 そしてこの日の夜、私は刺された―――…


 

 

 

 


 

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