運河の呪縛 -プラカノンの闇
第一章:日常の終わり
プラカノンの運河沿いに佇む小さなラーメン屋「ちゃんもんラーメン」は、店長の高橋勝が60歳を迎えた今も変わらず賑わっていた。日本から遠く離れたタイの地で、高橋は自分の人生の大半をこの店に捧げてきた。運河の近くに借りた古いアパートと店を行き来する日々は、彼にとって慣れ親しんだ日常だった。
その日も、高橋は閉店後の片付けを終え、いつものように近くの居酒屋でビールを数杯飲んでいた。「もう帰るよ」と彼が言うと、常連客たちが笑顔で手を振った。外に出ると、湿った夜気が彼の頬をなでる。運河からは生暖かい風が吹き、どこか不穏な空気をまとっていた。
酔いに任せて歩く足取りは少し危なっかしく、時折よろめきながらも高橋は自分のアパートへと向かった。階段を上がる際、彼は手すりにしがみつくようにして体を支えた。ドアの前に立つと、鍵を開けるのに少し手間取った。
「ふう、やっと着いた」
部屋に入るなり、高橋は靴も脱がずに床に倒れ込むように横たわった。天井がゆらゆらと揺れているように見える。「明日も早いんだ…」と呟きながら、彼は目を閉じた。
その瞬間、高橋の意識は現実から離れ、夢の世界へと誘われていった。
第二章:夢の中の美女
夢の中で、高橋は自分が若かりし頃の姿に戻っていることに気づいた。周囲は霞んでいて、どこにいるのかはっきりとはわからない。しかし、そこには心地よい静寂が漂っていた。
突然、彼の目の前に一人の美しい女性が現れた。長い黒髪が風にたなびき、優雅な笑みを浮かべている。彼女は日本人にしては背が高く、肌の色も少し濃いように見えた。しかし、その姿は神々しいほどに美しかった。
「高橋さん」と女性が優しく呼びかける。その声は、まるで遠くから聞こえてくるような、そして同時に耳元で囁かれているような不思議な響きを持っていた。
「私…あなたを知っていますか?」高橋は戸惑いながら尋ねた。
女性は微笑んだまま答えた。「ええ、ずっとあなたを見守ってきました。あなたを待っていたのです」
その言葉に、高橋は心を奪われた。彼は女性に近づき、その腕に抱かれた。温もりが全身を包み込み、高橋は幸福感に満たされた。
「こんな美しい人が、僕のことを…」
しかし、その抱擁は次第に強くなっていった。最初は心地よかった力が、徐々に息苦しさを感じさせ始める。
「もっとやさしく抱きしめて」と高橋は思った。その思いとは裏腹に、女性の力はさらに増していく。高橋は息ができなくなり、パニックを感じ始めた。
「や、やめて…苦しい…」
彼は必死に声を出そうとしたが、喉からは掠れた音しか出ない。女性の顔を見上げると、その表情は先ほどまでの優しさとは打って変わり、冷たい笑みを浮かべていた。
「さあ、一緒に行きましょう」
女性の声が、高橋の意識を深い闇へと引きずり込んでいく。
第三章:天国への階段
高橋の目の前に、突如として光り輝く階段が現れた。それは天に向かって伸び、雲の彼方へと続いているように見えた。女性は高橋の手を取り、その階段へと導いていく。
「これが…天国への階段?」高橋は困惑しながらも、女性に導かれるままに一歩を踏み出した。
階段を上るにつれ、周囲の景色が変化していく。最初は明るく輝いていた光が、徐々に薄暮のような淡い色に変わっていった。そして、高橋は不安を感じ始めた。
「ここはどこなんだ?」
女性は答えず、ただ黙って階段を上り続ける。高橋は振り返ろうとしたが、後ろには深い闇が広がっているだけだった。戻ることはできない。彼には前に進むしか選択肢がなかった。
階段を上るにつれ、高橋の体は徐々に重くなっていった。まるで何かに引っ張られているような感覚。女性の手を握る力も、だんだんと弱くなっていく。
「待って…僕はまだ…」
高橋の言葉は途切れ、意識が遠のいていく。彼は自分が夢の中にいることを思い出そうとしたが、それすらも困難だった。現実と夢の境界が曖昧になり、彼はどちらが本当の世界なのかわからなくなっていた。
突然、階段が消え、高橋は暗闇の中に一人取り残された。恐怖が全身を包み込み、彼は叫び声を上げた。
その瞬間、高橋は目を覚ました。
第四章:現実の恐怖
高橋が目を覚ますと、自分がアパートの床で横たわっていることに気がついた。頭痛がひどく、全身が重い。「なんてひどい夢だ…」と呟きながら、彼はゆっくりと体を起こそうとした。
しかし、何かがおかしい。体が思うように動かない。まるで重しを載せられたかのように、四肢が床に張り付いているような感覚だった。
「どうなってるんだ…?」
高橋は必死に体を動かそうとしたが、指先すら動かすことができない。パニックが彼を襲う。冷や汗が額を伝い落ちる。
やっとの思いで首を動かし、時計を見ると、すでに昼近くになっていた。「まずい、店に行かなきゃ」と思うが、体は一向に動く気配を見せない。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「店長? 大丈夫ですか?」
店員の声だった。高橋は叫ぼうとしたが、喉から声が出ない。ただかすかな呻き声だけが漏れる。
「店長?」
ノックの音が大きくなる。高橋は必死に声を出そうとするが、まるで誰かに喉を掴まれているかのように、音にならない。
そして、高橋は恐ろしい事実に気づいた。自分の体が、何かに巻き付かれているのだ。
第五章:不気味な老婆
店の外では、店員たちが高橋の不在について心配していた。
「おかしいですよ。店長、昨日も元気だったのに」と若い店員が言う。
「そうだな。アパートに様子を見に行こう」とベテランの店員が提案した。
二人はアパートに向かい、高橋の部屋の前に立った。ドアをノックすると、しばらくして不気味な老婆が現れた。彼女は薄暗い廊下から顔を出し、「何か用?」と冷たい声で尋ねた。
老婆の目は濁っており、その表情には何の感情も浮かんでいなかった。店員たちは思わず後ずさりした。
「あの、店長が来ないので心配で…」
老婆は無表情のまま、ゆっくりと頷いた。「ああ、あの人ね」
彼女はドアを開け、店員たちを中に招き入れた。薄暗い部屋の中に足を踏み入れた瞬間、店員たちは背筋が凍るような恐怖を感じた。
部屋の中は異様な雰囲気に包まれていた。かすかな腐敗臭が漂い、壁には奇妙な模様が描かれている。そして、部屋の中央には…
第六章:ニシキヘビの恐怖
店員たちの目の前に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
高橋が巨大なニシキヘビに飲み込まれているのだ。ヘビの口から出ているのは高橋の頭だけで、その表情は驚愕と恐怖で歪んでいた。高橋の目は開いており、必死に助けを求めているようだったが、声を発することはできないようだった。
ニシキヘビの体は体中に巻き付いており、その鱗は薄暗い部屋の中でも異様な輝きを放っていた。そして、部屋の隅には古びた黄色い扇風機だけがゆっくりと回転していた。その音が、この非現実的な空間に奇妙なリズムを刻んでいる。
「う、嘘だろ…」若い店員が絶句した。
ベテラン店員は、その場に立ちすくんだまま動けなくなっていた。
老婆は平然とした様子で言った。「ああ、これは運河の神様よ。時々、人を選んで祝福するの」
「祝福? これのどこが祝福なんですか!」若い店員が叫んだ。
その瞬間、ニシキヘビが動き、高橋の体をさらに飲み込んでいった。高橋の目に涙が浮かび、必死に助けを求めているようだった。
店員たちは恐怖に駆られ、その場から逃げ出そうとした。しかし、ドアは開かない。
老婆が口を開いた。「もう遅いわ。あなたたちも、この運河の一部になるのよ」
その声は耳元で響き渡り、逃げ場を失ったような感覚に襲われた。店員たちは、自分たちもまた同じ運命をたどるのではないかという恐怖に震えた。
第七章:運命の選択
店員たちは、逃げることもできず、高橋の姿を見つめるしかなかった。老婆は静かにニシキヘビへ近づき、高橋の頭を撫でながら話し始めた。
「あなたも、この運河の一部になる運命なのよ。昔から、この運河には特別な力があったの。時々、選ばれた人間を受け入れる。そうやって、運河は生き続けてきたのよ」
老婆の言葉には不気味な響きがあった。高橋は目を閉じ、涙を流していた。もはや抵抗する力も残っていないようだった。
若い店員が叫んだ。「なんとかして店長を助けないと!」
しかし、ベテラン店員は諦めたような表情を浮かべていた。
「無理だ…俺たちにできることは何もない」
その時、高橋が目を開いた。その目には、もはや恐怖の色はなかった。代わりに、何か悟ったような表情が浮かんでいた。
老婆が言った。「そう、受け入れたのね。さあ、安らかに眠りなさい」
ニシキヘビは、ゆっくりと高橋の残りの部分を飲み込んでいった。店員たちは、恐怖と絶望の中、その光景を見守るしかなかった。
突然、部屋中に奇妙な光が満ちた。ニシキヘビの体が光り始め、そして次第に透明になっていく。高橋の姿も、その光の中に溶けていった。
老婆が言った。「さあ、あなたたちの番よ」
店員たちは、自分たちの運命を受け入れるべきか、それとも最後まで抵抗すべきか、一瞬の躊躇いを見せた。
第八章:逃走
若い店員が突然叫んだ。「俺は絶対に諦めない!」
彼は勢いよく立ち上がり、ドアに向かって走り出した。ベテラン店員も、その決意に触発されたかのように、後を追った。
老婆は冷ややかな目で二人を見つめていた。
「無駄よ。誰も逃げられないわ」
しかし、若い店員はドアノブに全身の力を込めて回した。不思議なことに、先ほどまで開かなかったドアが、今度はスムーズに開いた。
「行くぞ!」若い店員が叫び、二人は一目散に階段を駆け下りた。
後ろから老婆の声が聞こえる。「逃げても無駄よ。運河があなたたちを見つけ出す」
二人は振り返ることなく走り続けた。アパートを出ると、そのまま運河沿いの道を走った。息が上がり、足が痛むのも構わず、ただひたすらに走り続けた。
第九章:追跡
しばらく走ったところで、二人は立ち止まった。息を整えながら、後ろを振り返る。誰も追いかけては来ていないようだった。
「なんだったんだ、あれは…」ベテラン店員が呟いた。
若い店員は答えず、ただ黙って運河を見つめていた。水面には、夕日が赤く映っている。美しい光景だが、二人の心には恐怖しか残っていなかった。
「警察に通報しよう」若い店員が提案した。
ベテラン店員は首を横に振った。「誰も信じないさ。俺たちが狂ったと思われるだけだ」
その時、水面に波紋が広がった。二人は息を呑んだ。水中から何かが這い上がってくるような、不気味な音が聞こえる。
「逃げるぞ!」
二人は再び走り出した。しかし今度は、水面から巨大な影が這い上がってくるのが見えた。それは、アパートで見たニシキヘビそっくりの姿だった。
第十章:運河の呪い
ニシキヘビは、驚くべき速さで二人を追いかけてきた。若い店員が振り返ると、ヘビの目が赤く光っているのが見えた。その目には、高橋の顔が映っているような気がした。
「あれ、店長の顔が…」
ベテラン店員は叫んだ。「見るな! 走れ!」
二人は必死に走り続けた。しかし、ニシキヘビはどんどん近づいてくる。その口からは、異様な光が漏れていた。
突然、若い店員が足を滑らせ、運河に落ちそうになった。ベテラン店員が咄嗟に彼の手を掴んだが、バランスを崩し、二人とも運河に落ちてしまった。
冷たい水に沈みながら、二人は必死に泳ごうとした。しかし、何か得体の知れない力に引っ張られるのを感じる。水中で目を開けると、無数の人影が彼らに手を伸ばしているのが見えた。
その瞬間、二人は悟った。これが運河の呪いなのだと。彼らもまた、運河の一部となる運命から逃れられなかったのだ。
終章:永遠の運河
数日後、「ちゃんもんラーメン」の店長と二人の店員が行方不明になったというニュースが流れた。警察の捜査も行われたが、三人の行方を示す手がかりは何も見つからなかった。
やがて、人々の記憶から「ちゃんもんラーメン」の存在は薄れていった。しかし、プラカノンの運河沿いを歩く人々は、時折奇妙な体験をすることがある。水面に人の顔が浮かんで見えたり、夜中に奇妙な歌声が聞こえたりするのだ。
そして、古びた黄色い扇風機だけが、今も静かに回り続けている。それは、運河の秘密を永遠に守り続けるかのように。
運河は、これからも新たな犠牲者を求め続けるだろう。そして、高橋や店員たちの魂は、永遠にこの運河の一部として存在し続けるのだ。
プラカノンの運河を訪れる者よ、気をつけなければならない。美しい水面の下に潜む、底知れぬ恐怖に。
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