がらすの人形

平鹿累波

それは線であり波である、目が映せる数は限られている

「僕の価値観は、人生の経験で形成されている。それは多くの人間に適用される理屈で、偉い学者が何冊も本を出している真理だ」


 運転席に座してハンドルを握り、小難しい顔で口幅ったい演説をかます青年。瞳はきらきらと輝き、溌剌とした意思の強さを示している。

 そんなちょっと、だいぶ、火触れたような男をアメは機嫌よく助手席から観察していた。


「価値観の正誤は結果からしかわからないし、そもそもその判断すら価値観に依存している」


 彼女の恋人であるヨウは、いつもこんな調子である。とかく考えを口から出さずにはいられず、また心理的なことについて考えることを好んでいた。

 これで何かしらの勉学や研究に励んでいれば仕事の一環と言えたかもしれないが、彼はごく一般的な会社員だ。普段は事務作業に従事している。


「僕はどうにかして自分の価値観ってやつを逆算からコントロールしてさ、つまり、まったく良い人間になりたいんだ」


 哲学がライトに好きで、夢見がちなくせに心配性で、誠実に生きたいと願う男性。

 アメはそんなヨウのことを「イタイときもあるけど好き」と思っているし、ヨウは「彼女は僕の話に水をささないでいてくれる」と愛した。


「じゃあヨウの価値観って言葉にしたらどんなものなの?」

「過信しすぎないことかな」


 言葉にあんまりなってないなと思ったけれど、やっぱりアメは口に出さなかった。彼女はヨウと違って、考えを口に出すときにはとても用心しているのだ。

 

 がろん、と車体が跳ねる。今走っているのは山道の悪路で、ヨウの実家に続く道だった。

 そう、恋人の実家へのご挨拶だ。別にいまどき親族の許可なんてほしくもないが、ヨウが会ってほしいと提案してきたし、人間関係なんて良好なものが多いほうがいいし、予定も運良く空いていた。


 それに都会から離れた山は気分が良かった。昨夜の雨で濡れた木々を、初夏の陽光がくまなく照らして輝かせ、緑風がさわさわと揺らしている様が窓越しでもはっきりと分かる。

 あたりに木々と土と山肌しかないので余計な情報もない。たまに来るならこんな山、みたいなちょうど良さが心地よかった。


 聞けばこの一帯の山はヨウの一族の所有物らしく、昔から代々大切にされていたという。山の相続って大変だし面倒そうだな、というのが素直な感想だった。

 実家も祖父母のもので、二人が亡くなってからは父母が、母亡きあとは父が一人で管理しているという。もちろん、実家もそれなりの大きさだ、相続税のことを考えてアメはもっと資格とか勉強するかと思った。

 運転免許証は取れる演説家にも、もう少し現実的な話をしたほうがいいのかもしれない。


 もうすぐ着くよと言われた直後、分かれ道を右折した。左の道は草が生い茂っていて、あまり人通りがないのだろうか。


「あっちには湖があるんだ、僕が子供の頃から近づいちゃいけないって言われてる」


 ずいぶん深いとか、冷たいとか、聞いたような話しかないらしい。アメとしてはやはり、面倒な釣人なんかが入り込んできやしないかと心配になった。


「お義父さんに聞きたいことたくさん増えちゃったよ」

「そう? 父さんは……まあ、すごく普通の人だよ」


 子供の頃から優しく優柔不断で、よく母に叱られていた。ミーハーなところがあり気になったものに手を出してはすぐに飽きて、おかげでお下がりみたいに面白いものがヨウの遊び道具になったので、ヨウは父のことが大好きである。

 父もまた、ヨウの話をよく聞いていてくれたとも語った。彼が何を話すにも自信に満ちているのは、そういった家庭環境も一因としてあるのだろう。

 反面、母親の話はあまり出てこない。


「母さんのことはあんまり覚えてないんだ、僕が小学校を卒業する前に亡くなってしまったから」


 おぼろげな思い出はある、父を叱っていたり、キッチンに立って食事の準備をしていたり。


「ああ、そういえば……湖に絶対に行っちゃいけないって口を酸っぱくしてたのは、母さんだったっけ」

「お義母さんのほうの実家なんだっけ」


 ヨウの父親は入り婿だと聞いていた。ヨウは頷く。盆や正月に集まる親戚も母方のものばかりだ。どうやら、父母の結婚に際して相当なドラマがあったらしい。

 そこも含めて、今一度大人として会話をする必要がある。遠回りになったが、ヨウの実家に行こうという提案の真意が見えてきた。


「着いたよ、足元気をつけて」


 タイヤで撫でつけられた道がごろごろと緩慢な音を立てて車を受け入れる。軒先の駐車スペースにはすでに一台の車……ヨウの父のものだろう、が停まっていた。

 広い庭先には砂利が敷かれ、時期によってはそこが車で埋め尽くされるのであろうことが察せられた。

 その先にある家屋は、平屋の年季の入った木造建築だ。壁や屋根はリフォームで手が入っているがそれすらも経年劣化でかすれて見えた。掃除が行き届いているのを含めて非常に生活感のある家だ。

 車から降りて砂利道を歩けば、均した土が敷かれたプランターが室外機のそばに並んでいる。小さな立て札にはナス、トマトと書かれていた。

 玄関口には育ちかけの植物、こちらは花だろうか? 植物に詳しくないアメはなんとなくそれを観察し、ヨウは奇妙な気持ちでインターフォンを鳴らした。

 自分の家に帰るのは、大学卒業以来久しぶりのことだった。高校入学の折に立地の問題から家を出て、それでも定期的に帰ってきていた。

 

 社会人になって、アメを始めとした外との繋がりが増えると帰るタイミングを失ってしまった。仕事も人間関係も忙しいのだ。

 表札にある「天晶てんしょう」の文字が自分と同じものなはずなのに、どこか違って見えた。

 今回の訪問の連絡含め、父と電話やメッセージでのやり取りはかかしていなかったけれど、こんな他人の家みたいな気持ちで自分の家の前に立つ日が来るのが、ひどく落ち着かず自分が緊張しているということをヨウは理解する。


 やや、間があってから玄関扉が開き、ヨウの父親「天晶 慈てんしょう しげる」が二人を出迎える。五十半ばだろうか、白髪交じりではあるが豊かな髪を短く切りそろえ、おっとりとした目つきの上に眼鏡をかけた容姿はいかにも人畜無害そうだ。


「お帰りなさい耀! それにええと、伊方さん、や、他人行儀すぎるかな、愛芽さん? 馴れ馴れしすぎるかなぁ……」


 元気の良い挨拶は尻すぼみにわたわたまごまごしている。なるほどヨウの父親だなあとアメは笑った。


「アメで構いませんよ、急にご挨拶の席をご用意してもらってすみません」

「ただいま父さん、とりあえず落ち着いてくれよ」


 ヨウは心底ホッとした。父は、自分の家は全く変わっていなかった。



 まずはお義母さんに挨拶とお線香を、という運びとなりヨウとアメは二人だけで仏間にやってきた。その間に慈はお茶でも用意しとくよ、と手を振っていた。

 入ってすぐに、白檀とい草の香りが押し寄せる。正面奥には観音開きの仏壇、入口から見て右手に掃き出し窓と廊下(くれ縁と言うらしい)があり、その反対には出入り口とは違う襖が見えた。ヨウに聞くと押し入れだとのことだ。

 外や玄関口と同じように片付いて小綺麗にされている。男親の一人暮らしと聞いて想像した家とは全く違うな、と自身の偏見をアメは改めた。


 仏壇の香炉には灰が積もっておりそこから部屋全体に白檀の香りが染み付いていた。備え付けの引き出しからマッチと線香を取り出し火をつけ、香炉に立てる。いっそう、白檀の香りが濃くなった。

 手を合わせ、静かに目を閉じる。アメがかつて住んでいた家には仏壇がなかった、墓参りをした記憶もあまりない。故人を偲ぶという習慣が希薄な家だったのかもしれない。だから、見様見真似ではあるがこうして線香をあげていると他人の習慣を知れるような気がした。


 一息ついて、部屋を見回す。掃き出し窓側の上部に遺影が3つかけられていた。喪服の合成が若干甘い老夫婦、ヨウの祖父母だろう。その隣には違和感のない装いと穏やかな笑みを浮かべた女性。切れ長で凛とした意思を感じる目つき、小さめの鼻、珊瑚色の唇が色白さを引き立てている。


「ヨウってお義母さん似なんだ」

「そうかな、自分ではよくわからないや」


 でも、とヨウはじっとガラス越しに微笑む母親を見つめる。記憶のなかの母親は、あまり笑っていない気がした。


「昔、この部屋で母さんに酷く泣かれた……」

「え?」


 じわじわと思い出す。まだ暑すぎなかった夏の頃、小さなヨウは探検気分で自分の家を調べ回っていた。周りは山で、友達の家も遠く一人で出歩くことができなかったから、父母が不在のときにほんのりとした冒険を企てたのだ。


「昔は父さんか母さんと一緒じゃなきゃ仏間には入っちゃダメだって言われてたんだよ」


 ヨウは思い出を確かめるように、押入れの襖を開いた。中には大きな桐箱が収められていた。古めかしい錠前が付いていて、簡単には開きそうにない。

 瞬間アメは、強い違和感を覚えた。急に白檀の匂いとは違う、強く甘い匂いが押し入れから溢れてきたからだ。これはなんの匂いだったか、防虫剤の匂いだろうか。


「これ、おばあちゃんの着物を入れてた箱で、僕はこの箱のなかに入って遊んで……閉じ込められた」


 蓋をずらして入り込み、わずかに入ってくる光を楽しんでいた。まるで薄い刃のように差し込む光は、舞い上がった埃を細部までくまなく照らしてきらめかせ、それが小さいヨウにはとても素晴らしいものに思えたのだ。

 手を伸ばし光に触れて戯れていたそのとき、うっかり箱の側面にぶつかり蓋がごとんと噛み合ってしまった。


「真っ暗になった、でも僕の目の奥にはさっきまで光が残ってチカチカしてたからさほど慌てなかった」


 いっそ暗闇は光を引き立ててくれた。ヨウは目を閉じて静かな闇のなかで内側にある光を追いかけて、やがて気を失った。

 次に目を覚ましたときには、大泣きしている母親の腕のなかだった。夏なのに寒くて、ヨウは母親の涙が温かいと感じた。もちろん父親も大慌てで救急車を呼びつけていた。


「一歩間違えば死んでるやつじゃん、そりゃあお義母さんも泣くよ」


 アメは呆れ、その当時の義両親に同情した。子どもの死亡事故記録で似たようなものを見たことがある。

 桐箱の表面を撫で、ヨウは至極のんきに「懐かしいなあ」と零した。ライトな哲学者はすっかり郷愁で子供帰りしている。


 価値観は人生経験で構成される、だったか。まあ、確かに子供っぽさと理屈っぽさは育ちやすいかもしれない。

 本当によく運転免許取れたな。アメは帰りの運転を代わろうかと考えた。


「母さんと父さんはどこに出かけていたんだったか」


 押し入れを閉じて、出し抜けにぽつりとヨウは零した。


「買い物とか?」

「車は家に残ってたし、買い物なら僕も連れて行ってもらえてたはずだよ」


 ぼやぼやと遠い日の記憶が形を取り戻そうとする。泣く母親、救急隊を呼び込む父親、冷たくて心地の良い体。

 そういえば、二人は真っ黒な服を着ていた。救急隊の服と真反対で余計に非日常を浮き立たせた。


「喪服だ、だからお葬式か法事に行ってたのかも」


 ヨウは納得したのか、一人で勝手にうんうんと頷いて、「そろそろ父さんのとこに行こうか」とアメを促した。アメは全然腑に落ちないがそれ以上は追求しなかった。やはり葬式も法事もよく知らないものだし、家庭によってはそういうこともあるかもしれない。


 仮に聞いたところで、今に至るまでのヨウは何も知るはずもなく、無意味だった。





 お茶菓子と昔話を交えて、結婚の挨拶は恙無くおこなわれた。ほとんど、慈とヨウが喋ってアメは相槌や返答に終始していたが、まあ慣れている、お喋りな男の相手は。


「ヨウが二人に増えたみたい」

「ええ?」

「そうかなあ?」


 息ぴったりで眉根を寄せたものだからアメは失笑する。怪訝そうに口をへの字に揃えたからもうダメだ、降参である。

 ひとしきり笑ってため息を付くと、窓の外からぱたぱたと雨音が聞こえてきた。予報では特に天気が崩れるという話はなかったが、山の天気は変わりやすい。


「ううん、これは今日街に降りるのは危ないかもしれんね」


 慈はそう言って立ち上がり少しだけ窓を開く。風が冷たく、空に立ち込めた雲は真っ黒だ。すぐさま雨戸を降ろしてカーテンを閉めた。


「客間ならあるから、よければ泊まっていきなさい」

「いいんですか?」


 アメの言葉に慈は頷く。


「結婚するって言うなら君の実家にもなるんだから、遠慮しないで」

「父さんの言うとおりだよ、アメにもっとうちの話を聞いてほしいし」


 ヨウは素直である。若干呆れたし疲れたから「ヨウの話はまた明日ね」と切り上げつつ、慈の歓待を快く受け入れることにした。

 食事の準備も風呂の用意も、ほとんど慈がお膳立てしてくれた。一人暮らしで家事炊事にすっかり慣れて、それを誰かに見てほしくて仕方なかったらしい。


 寝床としてあてがわれた客間は流石に普段使ってないからか、少し埃っぽい匂いがした。急いで掃除をしたとはしゃいでる慈に言うのは憚られたのでアメは一晩ぐらいならいいかと我慢することにした。


 寝る前にアメは思う、少し変わってはいるが、順風満帆だと。大げさに言うならアメは生まれてから一番幸せだった。外は大雨で雷も鳴り出したけれど、居心地のいい屋内で、快い人たちと過ごすことができる。

 何くれとなく世話を焼かれるのは正直不思議でいい気分だ。アメは幼い頃から、病気がちの母や、小さい弟妹の面倒を見ていた。一般的な儀礼作法に疎いのは親に関わる体力がなく、頼れる親戚もいなかったから。父親についてはよくかわっていたので記憶が曖昧である。初代は蒸発、二代目は病没、三代目は……全然記憶にない。


「ヨウに会えて良かったな」

「僕もそう思うよ」


 布団のなかで、ぽつりと呟けばとりわけ穏やかな声で隣にいるヨウが応える。

 別にヨウは、アメの生活を救ったわけではない。アメは自分の意思で環境と決別を果たしたのだ。だけれど、こうして特別な幸せを得られたのはヨウと友人、恋人を経た経験があるからだ。


 暗闇のなかでも、ヨウの瞳は輝いて見えた。それが撓むように細められる。


「おやすみ」


 どちらともなく、暗闇に声をかけた。



 


 翌朝は清々しい青空が広がり、澄み渡るような晴れ模様だった。

 流石に申し訳ないと朝の支度をヨウとアメで手伝い、帰りの準備も手際よく済ませていく。


「山道はとくに心配なさそうだけど、気をつけてね」


 慈は盛んにスマホの画面を叩いて近隣の情報収集をして、やっと落ち着いた様子だ。

 そして、深呼吸を一つ、やけに真剣な目付きをした。


「本当は昨日、二人が帰る前に話そうと思っていたんだ」


 口を開く。それは昨日や今朝までの口調と変わらないはずなのに、高揚と緊張が波打っていた。


「父さん?」


 さしものヨウも異変を察知した。しかし、慈の言葉は止まらない。


「見せたいものがある、二人とも仏間に行こう」


 すたすたと、返事も待たずに慈は行ってしまった。ヨウとアメはお互いに顔を見合わせ当惑する。

 このまま帰るわけにはいかないので、あとを追えば仏間の襖が開け放たれている。掃き出し窓にかけられたカーテンも全開だ。

 部屋いっぱいに、朝の光が満ちている。だというのに、奇妙な閉塞感がその空間にはあった。


 慈が押入れの扉を開き、ゆっくり、丁寧に……まるで壊れ物を扱うように桐箱を取り出した。箱の寸法は押入れの幅よりやや狭い、以前にアパートの内見で押入れの幅は平均して170cmほどだと説明されたから、桐箱の幅は160cmほどだろうかとアメは見当をつけた。

 着物を入れていた、というにはかなり大きめに感じる。


 桐箱の蓋がそうっと外された。ぶわり、と甘ったるい芳香が桐箱から立ち上る。同時に、ヨウとアメは絶句した。


 箱のなかには輝きが満ちていた。透明で、砕けて、輪郭を光が縁取っている。それは人の形を象っていた、細くたおやかな手足は折れて畳まれ、曲線を描く胴体はそれが女性だと伝える。かんばせはまろい線を迷いなく切り出した卵型、とどめの彫り込まれた顔立ちは切れ長の瞳に小さな鼻……色を失ってなお、それが誰か二人にはわかった。


「母さん?」

「そうだよ、霧子きりこさんだ」


 目元をたわませ、慈は肯定した。


「霧子さんは、というか、天晶の家系は代々こうした特別な素養があったんだ」


 いわく、天晶の血を引くものは死後、腐敗の代わりに身体が結晶化すると伝えられている。その結晶がいったい何か調べたことはない、とても余人に話せる現象ではないからだ。時代に合わせて便宜上の呼び方を作ってきたが今ではこれらのことを「がらす」と呼んでいる。


「もっと昔は亡くなってすぐがらすになっていたらしいんだけどね、外の血が入るたびに現象そのものはどんどん大人しくなって、今では普通の人間とほとんど変わりはないとヨウのお祖父さんやお祖母さんは言っていたよ」


 天晶の歴史を語る慈の声は楽しげで、実に誇らしいものであるという敬愛に満ちていた。


「もちろん、耀もそうだ。霧子さんたちは耀には黙っていようと決めていたんだよ、このまま消えゆくものとしたほうがいいと」


 でもね、と慈は恍惚とした様子でがらすの人形の頬に手を添えた。


「私は惜しいと思った、こんなに美しく愛おしいものを忘れてしまうなんて、消してしまうなんて」


 アメは、気持ちが悪いと思った。嘘でも本当でも、とにかく気持ちが悪かった。

 だってつまり、この目前にある破損した人形は慈の言葉が真実であれば「死体」で、虚偽であれば悪趣味な「人形」だ。とても受け入れがたい。


「本当はがらすになった遺体は代々のお墓……あの湖に下ろしてあげなければいけない。私のわがままでこんなに大きく霧子さんを壊してしまった、これ以上は壊れないよう注意してるよ」


 限界だった、アメはヨウの手首を掴んでここから離れようと口を開いた。

 しかし、ヨウはアメのほうを見ていなかった。視線はがらすの人形に釘付けで、その眼球はぎらぎらと光を乱反射している。


「ヨウ、ねえ」


 もはや身を乗り出して箱にヨウは詰め寄っていた。さながら棺に眠る母親の遺体にすがる子供のように。それを微笑ましく見守る慈。場違いなのはアメだけなのか。


「ヨウ!」


 びくりとヨウの肩が跳ねて、ぎこちなくアメのほうを見た。ぎらつく瞳は不安定に揺れ、迷子のように声の主を探している。


「帰ろう、ヨウ」

「そう、だね」


 手を取り、ゆっくりと仏間から去ろうとする。慈はまったくその動きを遮ることはなく、ただ慈愛に満ちた目で二人を見送っていた。

 まるで、自身がやるべきことは果たしたと言わんばかりに満足そうに。





 不安はすぐに形になった。あの日からヨウは、以前のヨウらしさを大きく欠く言動が増えてしまった。

 光に惹かれ、耀くものに惹かれ、ただ呆然と心を手放してしまう。そこに自分の居場所があるかのように。


 アメが言葉をかければわずかに自身を取り戻すが、その頻度も徐々に落ちていく。とうとう逆にアメに説得する素振りも増えてきた。


「綺麗だった、僕もああなれるのかもしれない。アメも僕なら、がらすを好きになってくれるんじゃないか?」

「ヨウ、もう忘れようよ、お義父さん変だよ、ヨウも」


 結局、二人の言葉は平行線となる。根気強くアメはヨウを取り戻そうとしたが、ある日突然ヨウは二人のアパートから姿をくらましてしまった。

 職場に連絡すれば長期休暇を申請されたとだけ返され、心当たりこそあったがアメはどうしても自分の意思で足を運ぶことを決心できなかった。



 「アメ、これで最後かもしれない、でも最後にしないためにもう一度会いたい」


 アメの背中を押したのは、やはりヨウからの連絡だった。

 いつか二人で、他愛もない話をしながら車で走った山道を一人で進む。季節はすっかり変遷して冷たい風が吹きすさび、枯れた草花がその一年の生の終わりを示唆している。


 呼ばれたのは、行ってはいけないと伝えられた湖。木々に囲まれた静かな場所で、鳥の羽ばたきも獣の気配も感じられなかった。

 水辺に近づいても、湿った土の匂いこそすれなにか生き物がいるという空気が存在しない。堆積したかつて命だったものだけが、そこには残されている。


 ヨウは、水際でそんな湖を眺めていた。服装はアメの記憶にあるままで、厚手の丈が短いジャケットを羽織ってジーンズのポケットに手を突っ込んでいる。出会って間もない頃に待ち合わせた後ろ姿と重なって、アメは懐かしくなった。まだ、大丈夫なのかもしれない。


「久しぶり、ごめんね、放っておいてしまって」


 振り返ったヨウの瞳はきらきらと明るく、言葉は明瞭だった。


「あれから色々調べたんだ、僕の家について……父さんの言ってたことは本当だった」

「そう、それでヨウはどうしたいの、呼びつけて」


 暫時、静寂のあとヨウはポケットから左手を出してアメに差し伸べた。ふたつの光が別々に反射する。


 ひとつは、ヨウとアメお揃いで買った指輪。もうひとつは、がらすの手。

 もうダメなんだな、とアメの心は冷たくなった。同時に、光から目を離せなくなる。


「君が受け入れられないというのもわかる、辛いけど、止められはしない」


 でも、良ければ最後に手を取って抱き合ってくれないだろうか。アメは自分でも制御できない衝動にかられて足を進めた。

 がらすの手は確かに無機物のそれで体温がなかった。すべすべと心地よい感触、いつまでも離れがたい。

 そのままお互いの背に腕を回し、ヨウは「いいものを見せてあげる」と耳元で囁いた。


 ざぷん、とアメはヨウに引っ張られる形で湖に落ちた。

 天地がさかしまになる、ぐるぐると視界が回る、わかるのはヨウの腕の感触だけだ。

 不意に、視界がひらけた。針のような鋭い閃光がアメの神経を貫いた。


 湖底には、いくつものがらすの人間が眠っていた。

 完璧な体は透き通って、ただ光を表すために線を見せてそこにあると人間に伝えた。

 陽光でも月光でも、光の意味など必要ない、ただ欠けることなく不滅の死が甘く香り付いている。

 幾千幾億の明かりが、走馬灯のように瞳に押し寄せた。記憶の中にある知っている光という概念が洪水となる。

 それは線であり、波であり、地平線の果てにある静止した時間をも照らし尽くす圧倒的な完全。


 決して肉の体ではたどり着けない形だ。アメは恐怖し、歓喜し、自分の居場所を見失いそうになる。

 その前に、空気の足りない苦しさがアメという人間の生命が警鐘を鳴らしてヨウの腕を抜け湖面に上がっていった。


 息も整わないうちに這々の体で岸辺に上がり、ここから離れなければと死にものぐるいでアメは走り出した。

 アメの価値観はこの場所を受け入れてはいけないと明確に示して、それに従う。

 最後、一度だけアメは振り返った。


 ヨウはアメを追いかけることはせず、ただ見つめて微笑んでいた。確信を持って。





 それから日常のあらゆる光が、輝きが、恐怖と執着を煽った。ガラスのショウウィンドウ、窓、金属光沢、液晶から染み出す色を表す波。

 どれも違う、アメは思う。どれも違って愛せない、愛せないのに思い出す。


 おそらくきっともうダメだ。

 アメのいるべき世界はここではない、別の……あの光の場所に。


 行かなくちゃ。

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がらすの人形 平鹿累波 @ruihahirashika

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