人間蛹

@Khinchin

人間蛹

彼はどうやら、蛹になったらしかった。意識は、目覚めた瞬間のようにぼんやりとしていた。彼の目線、移動を阻む緑色の壁は、どうやら彼自身の中に入っていたもので、それが突然今になって引き出されたらしかった。彼は今の今まで虫ではなく人間だったが、不運なことに蛹になってしまったらしい。自身の体に触れようとするも、自身は液体となっているので、触れるところが見つからない。触れる手もないのである。


液体状となった自分の体を壁にぶつけてみるものの、時折蛹が揺れるだけである。彼は自分の運命を呪った。ああ、神よ。なぜ、このような試練をお与えになるのか、と。彼は無神論者ではあったが、今日だけは神に縋った。彼だけではなく、人間というものは、言いようのない不安に駆られているとき、その不安を見知らぬ何かに押し付けようとするのだ。それが、彼にとっては神であっただけである。何度も蛹に体当たりしたせいだろうか、彼は気分が悪くなってきた。脳が直接締め付けられた様だった。彼ははたと気づいた。自分はドロドロに溶けているというのに、なぜ思考ができるのだろうと。しかし、彼はそれ以上踏み出すのをやめた。第一、実際に彼は思考できているのだし、できなかったら問題だが、できている上でのなぜは必要ないと常日頃から思っているからだった。


では、どうすれば良いだろうか。自身が羽化するのを待つしかない、と彼は思った。自身が羽化をするのを待つ、というのは体を全く見知らぬ他人に渡すかのようで不愉快ではあったが、この超常は彼には理解できぬことだ、と彼は思った。出産するかの様な気分であった。彼の現在の状況は、母は彼であり、また子も彼なのだった。推移させると、母は子なのであった。


このように無駄な思考を回転させていると、ふとあることが思い出された。単細胞生物の話である。彼らは、自己を延々と複製し続けているのだ。自分で自分をコピーするということは人間に置いてどのようなことをもたらすのか、途端に彼は知りたくなった。第一、自我というものは脳みそのどこかに発生するものであって、では、それを完全にコピーすると、本体とコピー自我は統合されるものだろうか。今までの記憶を完全に引き継いでいるのだから。


この問いはNoなのではないか。コピーは結局自身が本体であると思っている。本体も当然そうだ。よって、コピーは本体をコピーだと思っている。本体はコピーをコピーであると思っている。よって、ここに本体とコピーの意識の違いが現れた。つまり、これらは別個体なのではないか。


しかし、ここまでの思考を突然彼は否定し始めた。これは一般的な状況では成り立たないことなのではないか。たとえば、本体が眠っている間にコピーして、本体とコピーを引き離せば、どちらも自身を本物と思うだろうし、そこに意識の齟齬は生まれない。


さらにしかし、それに対する反論も述べ始めた。物体というものは同時に、同じ場所には存在できないのだから、コピーと本体の見るものは必ず全て異なる。つまり、意識の齟齬が生まれるのだ。


この様な議論を経ても、彼は釈然としない気持ちだった。そして、彼はこの永遠にわからないだろう思考実験を中止した。彼の浅薄な知識では、全くこの問題には太刀打ちできなさそうだったからだ。


おそらく、こんなに長く思索に耽っても、時間というものは天邪鬼なやつだから、まだ全くだろう、と彼は諦観を含めて思った。思えば熱の時もそうだった。悪い夢を見て、体が汗に濡れて、もう一時間、いや二時間くらい経っただろうとと思って、あの時間のずれやすい掛け時計を見て三十分も立っていないことを知るのだ。あの時ほど残酷なものはない。短くあれと思えば思うほど時間というのは伸びるのだ。


彼は、何回も読み直した小説を思い返し、時間を潰すことに決めた。あれはどの様な話だったか、確か一世紀前が舞台で、ボーイ・ミーツ・ガールとミステリと学園ものが混じり合っていた。彼があれほど熱中して読んだ小説は指で数えられるほどしかない。彼はそれらの小説のことを愛していた。おそらくニュートンが、彼の三法則を見つけたのと同じくらいそれを大切に思っていた。その小説は途中で終わっていた。彼はそれに気づき、絶望し、この美しく、まるで壊れかけのビスクドールのような物語を読まなければ良かったと思った。それと同時にこの物語とその作者に敬意を覚えたのだった。かの物語の小さな退廃的な美しさとそれを支える確かな優しさに感動を覚えたものだった。


また、異質なものも思い浮かんだ。それは、夢を元に経験を再構築する方法について述べていた。夢は無意識の領域から、借り物をしてきて、それを幻灯機で映すものであるということを知った。そして、それは彼自身によって確かに実証された。


彼がそれを知る前に見た夢は、同じ教科書が自分の鞄に二冊入っている夢だった。夢の中で荷物整理をする手が止まり、しばらく放心し、その後のことは何も覚えていない。


そこから、彼は将来について不安があることを思い出した。自身が社会に馴染むことはできるのだろうか。言いようのない不安に襲われ、これが頭の片隅にずっとのこり続けるのだろうと思うと、彼は全く憂鬱だった。


逃避から浮き上がり、彼は再び自身が蛹の中にいることを悟った。しかし、だんだんと蛹は茶色になっているのがわかった。


だんだんと彼に眠気が襲いかかった。彼は、それが抗いようのないことであると知っていた。だから、もう一人に自身の体を託したのだった。


眠る寸前、彼は様々なことを一瞬にして思い返していた。意識の白みとともに、そこには黒い文字が大量に溢れ出てきていた。頭の中に文字が次々に写り、そして急に途絶えた。




目覚めた時、彼は少年時代の慈しいあの感情たちをどこかに置いて行ってしまったようで、蛹の中で思ったこともすっかり忘れてしまっていた。あの美しくも、後ろ向きで、怠惰なあの頃の感情達を。



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