無垢 1998 2
その後も涼子の唱える祝詞は相変わらずだったが、姫奈希の様子は明らかに変わり、私よりも大きな声を出すようになった。
祝詞を唱え終えると決まって馬蹄を触りたいと言い、龍之介ともこうはそれに応じる。
「ヨーロッパでは馬蹄は御守りとして使われているんだ。U字型にすれば幸せを溜め込み、ひっくり返せば不幸を落とす意味があるんだって」
私が馬蹄にまつわる話をすると、姫奈希はますます目が輝く。
「私も馬蹄のお守りが欲しい!」
姫奈希は私にせがむように腕に絡みつく。
「今日、東京に出張で泊まりに行くから、お土産に馬蹄のネックレスでも買って帰ってくるよ」
姫奈希は私の言葉を聞くと強く腕にしがみついた。
私は姫奈希がとても喜んでいると思い、頭をポンポンと撫でる。
私はさっそく東京へと車を走らせ、家族はそれを見送った。
その翌日の朝だった。
携帯には朝早くにもこうから着信が入り、眠い目を擦りながらそれに応答する。
「龍之介さん!大変なことが起こりました!至急村に来てください!」
いつも静かなもこうのただならない声に、私は慌てて車を走らせる。
馬鬼村へ続く一本道には普通では考えられないほどの車が道を下り、私の車とすれ違う。
明らかな異常を私は感じ取った。
馬鬼神社に着くと慌てて車を降り、もこうのもとへ急ぐ。
「夜中のうちに泥棒が入った様です。幣殿に置いてあるお供物をはじめ、金目のものはほとんど盗まれてしまいました」
御社殿を覗くと中は酷く荒らされ、幣殿はもちろん多くの金目のものがなくなっていた。
「龍之介さん、本殿を見てください」
もこうに誘われて本殿への階段を下る。
以前来た時の様なじっとりとした嫌な血の匂いは一切せずに、酷く乾き切って埃が舞うような別の嫌な匂いがする。
本殿の扉の中を覗くと、ポタポタと垂れていた血は止まり、それどころか瘡蓋の様に乾燥した血がポロポロと剥がれている。
ここにいなくなっている。
私は直感的にそう思った。
私ともこうは御社殿に戻り、状況を整理する。
「この村ができてからずっと滴っていた血が止まりました。契約が破られたものと捉えて良いでしょう」
私は誰がこんなことをしたという怒りと、馬鬼様の逆鱗に触れてしまったと言う事実がまだ恐ろしく絶望した。
「なぜ、村人はこの村を出ていく。何かあったのか?」
私は村に戻るときにすれ違った車を思い出し、もこうに尋ねる。
「はい。夜中に窓の外から馬の様な生き物が覗いていた。水道から血生臭い水が出てきた。夢の中でこの村の終わりを見た。と村人が口々に言い、私と佐々木さんの家族以外は全員逃げて行きました。間違いなく祟りのせいでしょう」
危惧していた祟りは既に始まってしまったのだ。
私は膝から崩れ落ちる。
「これから私たちはどうなる?」
私はもこうと今後の対策を話し合うつもりだったが、もこうの言葉は帰ってこない。
私が異変を感じて顔を上げると、そこには乾いた目をしたもこうが直立していた。
「私は龍之介さんのお子さんの翔くんを貰っていきます」
「は?」
もこうの様子がおかしい。
声がかすれ、何者かに乗っ取られたように私には見えた。
「私は今日から豊と名を変えて生きていきます。馬鬼様からの命です」
「まて!もこう先生!どうしたんだ!」
しかし、もこうは私が存在していないかのように全てを無視し、自らの車に乗り込む。
慌てて私はその車のあとを追うと、もこうは屋敷の前に車を止める。
そこには翔がいた。
翔は無言で車に乗り込む。
「まってくれ!翔!」
私は翔に声をかけるが、全く届いていない。
私は懸命に翔の動きを止めようと手を引っ張るが、翔の腕は石のように重く固く、抵抗など全くの無意味である。
私は翔ともこうが乗る軽自動車を見送ることしかできなかった。
私はこの奇妙をこの日記に記す。
タイムリミットが迫っている。
山から谷から嘶きの様な笑い声の様な、高い様な低い様な音がゆっくりゆっくり近づいてくる。
ヒキキキィィィンンン。ヒヒヒヒヒヒヒヒヒィン。
ヒキキキィィィンンン。ヒヒヒヒヒヒヒヒヒィン。
私と、残された姫奈希と涼子と3人でうずくまり、屋敷にまで侵入してきた恐怖の地鳴りよりも大きくガタガタ震えた。
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