蝉の足をちぎる

平賀学

二〇二四年七月の気温は全国的にかなり高かった

 夏はよく東校舎の中庭の木の下に蝉の死骸が転がっている。次の日になると消えているのは授業の間に用務員が掃除をしているんだと思う。

 私は昼休みになると中庭のベンチでお弁当を食べる。冷凍食品の敷き詰められたお弁当を短い箸できれいに片づけたら、五限のチャイムが近づくまでその辺りの木陰を歩いて、視線を地面に向けて、ひっくり返って足を閉じている蝉の死骸を探す。見つけたら、しゃがんで、膝に巻き込まれたセーラー服のスカートが汗で肌に貼りつくのを感じながら、その蝉の足を一本一本ちぎる。

 別に蝉じゃなくてもいいんだけれど、蝉は見つけやすいところで死んでいるし、足が長くてちぎりやすいし。ちぎった足をマッチ棒のパズルみたいに並べてみたりもする。六本じゃ作れる形も少ないし、死骸が二つ以上あるときはラッキーだ。

 三十分くらいそうして時間をつぶすのはだいぶ退屈だし、夏の中庭は木陰でも暑くて仕方がない。

 でもとても静かだ。


 小さい頃からみんな虫みたいだと思っていた。

 休み時間のトイレは仲良しの誰かと行きましょう。誰かの机に集まっておしゃべりをするときはできるだけ楽しそうにしましょう。みんなで写真を撮るときは笑顔を作りましょう。その写真を誰かがSNSにアップしたら、いいねを付けましょう。私たちずっと仲良しだよねって笑いましょう。

 でも誰かがいないときはその子の嫌いなところを共有しましょう。

 実は私もそう思ってたんだって相槌を打ちましょう。

 声をひそめてとっておきを披露したら、やだあ、ないよね、って笑いましょう。

 その子がトイレから帰ってきたら、「仲良し」に戻りましょう。


 世界中私が知らない、私だけ読めないルールがあるみたいに、みんなそれに沿って動いてる。休日にお父さんとお母さんに連れられて行くショッピングモールは蟻の巣みたいだ。ショッピングモールの中では、きれいな服を着てきれいに髪を結んでお淑やかにしなさいがお母さんのルール。手を繋いではぐれないようにしなさいがお父さんのルール。ルールを破ると怒ったり泣いたりする。大きな声を浴びせられるのは嫌だし、泣いているのを放っておいてもそのうち大きな声に変わるか頬をぶたれる。痛いのも嫌い。だからルールは、怒られたりぶたれたりしない正解はどうにか覚えて、それに従う。

 すれ違う人たちにもたくさんルールがあって、それはきっと私にだけ見えていなくて、その見えないルールに従ってなめらかに笑ったり泣いたりする人たちは私にとって虫の群れだった。

 私だけその群れの中にいない。私だけ虫じゃない。


 学校は蜂の巣。ショッピングモールよりずっとたくさんのルールがあるし、私はうまく蜂の一匹に見せかけないといけない。蜂たちは手際よく群れを作るし、その群れの中でも針を刺したり刺されたり、それでも平気な顔をしていたりする。

 毎日毎日教室の中は蜂たちの羽音がうるさかった。

 ぶんぶんぶんぶん。


 理科の時間、カエルの解剖をしたことがあった。

 女子はみんなきゃあきゃあ言っていた。男子は騒いで、解剖前のカエルで遊んでいたりして、先生に命の大切さがどうとかルールを教えられて、今日も蜂の巣はうるさいなあと思った。

 私はお腹が空いていて、今日のお弁当について考えながら、解剖皿の上に両手足を広げて磔にされているカエルの腹に、教えられたとおりにハサミを入れた。真ん中に一回と、手足のほうに向けて四回。カエルの皮って紙より切りにくいんだなあって思いながら、ふと同じ班の子が広げた皮をピンで留めてくれないことに気づいて、ねえって声をかけようとした。

 班の子たちは黙ってこっちを見ていた。

 私の手元。ぴくぴく動くカエル。黄色とかピンクとか薄紅色とかの内臓が詰まった体。それから私を、私の方を見て、目が合って、それは私が出かける前に髪を結ぶのが嫌だと言ったときのお母さんの目に似ていた。

 ルールを破ってしまった。何か間違えたんだ。

 急に喉が渇いた。つばを飲み込んで、でもこのルールの破り方はきっと初めてだから、何を間違えたかわからなかったから、どうしていいかわからなかった。

 十分くらい経ったような気もしていたけど、数秒だった気もする。

 同じ班の女子の一人が、私が伸ばした皮をピンで留めた。

「やば、めっちゃ血出てるじゃん。ぬるぬるしてる、気持ち悪」

 その子が笑った。そうすると、他の子たちの時間も動き出したみたいに、また周りと同じように騒ぎ始めた。

 私が乱してしまった秩序が元通りに直されて、蜂の群れのルールに戻った。

「峯山さん躊躇ないよね。えぐ」

 開かれた胸の、小さなぎらついた心臓がとくとく動くのだけを見つめていると、羽音の中でささやかれた。

 それでやっとカエルから目を離せた。誰だっけ。さっきピンを刺した子。こっちを見て笑っている気もするし、何にも考えてないようにも見えた。

「心拍数計れだって。あたし今日朝抜いてきてさ、お腹空いてんのにこの臭いキツイわ。早く片付けたいんだよね」

 すねるような調子で言う。その手首にはシュシュが巻いてあって、髪は長いのをそのまま流していた。そう、確か鈴野さんだ。

 鈴野さんの言葉で、まだこの授業は終わっていないことを思い出した。蜂の一匹にならないといけないんだった。慌てて、配られたプリントの穴を埋めていく。

 喉は渇いたままで、飲み込んだ唾がへばりつくみたいだった。


「鈴野さん」

 蝉の足でいびつな六角形を作っていたら、ぽつんと声が出た。

 夏の昼の空気は暑くて、こめかみのあたりから玉になった汗がすべりおちてきて、顎から地面に落ちて小さな染みを作った。

 頭上では蝉の鳴き声がする。それは教室の羽音よりずっと静かだ。太陽に熱された空気が、他の生徒をここから遠ざけてくれる。

 峯山さん。あのとき呼ばれた声をときどき頭が反芻している。シュシュ。結んでない髪。結ばなくていい髪。

 なめらかな笑顔。

 いびつな六角形を踏み潰した。学校指定の白いスニーカーを履いた足で、ぐりぐりと押しつぶす。

 軽い蝉の足たちは踏みつけた勢いだけで散らばってしまって、砂利の上にすりつぶされたのは一本か二本か、半端な数だった。

「鈴野さん」

 どうして声が漏れるのかわからないけれど、なんだか情けなくて、今度は額から落ちてきた汗が目じりに流れ込んで、手首で目元を拭った。

 蜂になりたい。私も。

 何度拭っても視界はぼんやり滲んでいる。

 授業開始五分前のチャイムが鳴った。

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