トランクのなか
あべせい
トランクのなか
タクシー運転手が急ブレーキを踏む。
「お客さん、火事! 火事です!」
後部席の客が、ハッと目を覚まし、
「 どこだ、火事はどこだ!」
「お客さん、いい加減にしてください。いつまでも起きないから。どこまで走れば、いいンですか」
「ここはどこだ」
「赤塚の墓苑です」
「墓苑!? どうして墓地にくるンだ。この暑苦しい夜に、おれを墓に入れるつもりか!」
「お客さんが、静かなところに行きたいとおっしゃったじゃないですか」
「そんなことを言ったか。だからって、墓場はないだろう。いま、何時だ」
「午前2時を少し回った頃です」
「こんな真夜中に墓場に連れこんで、身ぐるみ、はぐつもりか!」
「それはこっちのセリフです。こんな真夜中に、静かなところに行けって、尋常なお客さんの言う注文じゃないでしょう」
「だから、交番のそばに着けたのか」
「気がつきましたか。墓地のそばに交番があるのは、都内でもそんなにはないですから。我々タクシードライバーの避難スポットなンです」
「いやに詳しいな。キミは若そうだが、タクシーを始めて何年になる?」
「知ってるくせに……」
「おれがどうして、タクシー運転手の経歴をいちいちチェックしているンだ!」
「この名札、見ていなかったの。相変わらずのバカ」
「バカ、だ!?」
客、身を乗り出してダッシュボードの名札を覗く。
「『掛川里美』? 乗ったときも見た名札だ。知らな……! おまえ……」
「あんたの前の女房よ。あんたの鳴滝から、生まれたときの姓に戻ったのよ」
「帽子をかぶっていたから気がつかなかった。おまえ、なんでおれを乗せた。復讐か!」
「そういうチャンスがくれば、きっちりお返しするから」
「おれとヨリを戻したくなったのか」
「うぬぼれるンじゃないわ。なんで、あんたみたいな、女を道具かロボットとしか見ない男に、いつまでもかかわっていなけりゃいけないの」
「じゃ、なんで、おれの会社の前に停車していたンだ」
「あれが会社なの? わたしは一昨年まで住んでいた家の前を通りかかったから、懐かしくなって、しばらく停まっていたのよ」
「いまは、会社に使っているンだ」
「ヘェー、そォ。結婚する前、豊島駅前に建てたって自慢していた5階建ての自社ビルはどうしたの」
「いまは他人に貸している」
「タダで貸してンの。奇特なことね」
「探偵社に5階建てのビルは必要ない。一部屋あれば充分だ」
「1階と2階を探偵社にして、3階から5階までは賃貸マンションにしていたのが、無駄だったと気がついたってわけか。愛人も無駄だって、わかったのね」
「あいつは、おれからビルを奪った男に、くっついていきやがった」
「すごい、そのカレ。ビルも愛人も一緒にあんたから買い取ったンだ」
「売っちゃいない。やつは、おれから盗ったンだ」
「盗った、っていうの? あんたみたいにズル賢い男から盗るなんて、信じらンない」
「やかましいィ!」
「どうでもいいけど、あんた、真夏のこんな寝苦しい夜中に、タクシーに乗ってどこに行くのよ」
「忘れるところだった。仕事だ、仕事だ」
「どこに行けばいいのよ。いったい」
「最初に言ったはずだ。しずおかのいとう、だ!」
「静岡の伊東?」
「静岡県伊豆半島の伊東だ」
「伊東なら伊豆の伊東というのがふつうでしょうが。わたしは、しずかなところって聞いたから。静かな所に行けばいいのかなって。しずおかのいとう、しずかないとう、しずかなとこ、しずかなところ……ってなるのか、ならないのか? ごめんなさい」
「おまえ、離婚してから素直になったのか」
「離婚じゃないわ。タクシーの仕事を始めてからよ」
「それはどうでもいい。早く、出せ。伊東に急いでくれ」
タクシー、発進する。
「どうして、こんな真夜中に伊東なんかに行くのよ」
「前を見て運転しろよ」
「新幹線で行けばいいじゃない。テレビの2時間ドラマで、どんなに遠くてもタクシーで行く、バカな刑事とタクシー運転手のシリーズがあったけれど……」
「夜明け前から、張り込めって依頼だ。新幹線の始発でも間に合わないから、タクシーを奮発している」
「どうせ、依頼主からふんだくるンだから、いいけど、そんなバカな依頼主ってどこのどいつよ」
「おれの前の女房だ」
「前の女房はここにいるわ」
「違う。2度目の前の女房だ」
「あんたをバツ2にした女か。あんたの自社ビルを買い取った男にくっついていったのに、もう浮気の心配ってわけ?」
「そうなんだろうな」
「あんたの元女房、2度目の元女房、あァややこしい、照実っていったわね」
「あァ」
「照実の亭主って、何している人よ」
「学者だ。大学で地質学を研究している退屈な男だ」
「地質? なに、ソレ」
「地面の下を調べるンだ。いまは、自然エネルギー開発のため、地熱発電に適した土地を求めて、暇さえれば、全国の温泉地を歩いているそうだ」
「いいじゃない。学者先生なら、あんたみたいに酒やギャンブルに狂ったりしないだろうから、家庭崩壊もない。でも、そんなひとが、どうして照実のような女とくっついたの?」
「知らン。どうせ、女の手を握ったこともない堅物だから、照実に言い寄られて、1時間ともたなかったンだろう。大東という名前だが、元々大地主の息子で、金の苦労を知らないおぼっちゃまだ」
「そんなひと、わたしのあこがれだわ。どうして、わたしはそういう男に巡り合えないのか。離婚したら、財産分与だって、しこたまもらえて。私みたく、こんな苦労することもないって、か」
「もういい、黙って走れ」
「そんな亭主に浮気の心配? ありえないじゃないの」
「学者先生でも、浮気の虫はあるだろう。温泉地をめぐって、その土地土地で、女を作っているかも知れない。それに、このところ立て続けに伊東に行くそうだ」
「だから、怪しいって? 結婚してまだ3ヵ月なンでしょう。それなのに、伊東に女がいるかもしれないから、証拠を掴んでくれって? ひょっとして、あんた、照実とヨリを戻そう、ってンじゃないでしょうね」
「どうして、そういう話になるンだ」
「亭主に浮気の証拠をつきつけて、照実はサッサと離婚、あんたは、慰謝料をたっぷりもらった照実とくっつく」
「なんとでも言え」
「照実のそんな依頼を、どうして引き受けたの」
「浮気調査は探偵の立派な仕事だ」
「新婚3ヵ月で、亭主の浮気調査をするなンて、ロクな女じゃない。あんた、わたしを捨てて、そんな女とよくくっついたわね」
「あいつには、あれでいいところがある」
「あんたを捨てた女をかばってどうすンの。あんた、やっぱり怪しい……」
「そんなことはない」
「でも、この仕事は乗り気じゃない、ってわけか」
「なんで、わかる?」
「夜明け前からの仕事だっていうのに、飲んで酔いつぶれていたじゃない」
「元女房の亭主の浮気調査だ。飲まずにやる仕事でもない」
「伊東まで、長いわ。悪い夢を見て、たつぷりうなされなさい」
約2時間後。タクシーは伊東のどでかい温泉旅館が見通せる海岸の駐車場に着いた。
「お客さん、伊東です」
「……」
「またか。一度寝ると、ぶったたかないと起きやしない」
「起きてるゾ! 何時だ」
「時計は持ってないの?」
「壊れた」
「カルチェが壊れるわけないでしょう。また、質屋か。小金に困ると、すぐに質草にする癖は治ってないのね」
「いいから、何時だ」
「5時を少し過ぎた頃よ」
「夜明けまでどれくらいある?」
「その前に、料金を精算していただきましょうか、お客さん」
「いくらだ」
「高速料金が3360円、タクシー料金が5万5610円。合計で5万8970円いただきます」
「ない」
「ない、ですって! 寝ぼけるンじゃないわ! あんたには貸しこそあるけど、ビタ一文借りてはいないンだから。あんた、離婚の慰謝料、払った?」
「そんな昔のことは忘れた」
「なに、気取ってンのよ。わたしは、慰謝料も財産分与も、ナンもなしで別れたのよ。あんたのそのゴム風船みたいに膨れたお腹と、ワニみたいな顔が1日も見たくなくて、別れてやった。500万はもらえるはずだった。500万円、払ってくれたら、タクシー代チャラにしてもいいわ」
「5万円のタクシー代の代わりに、500万円を払うバカがいるか」
「あんた、自分が利口だと思ってンの」
「バカで探偵が務まるか。おまえ、おれがほかに能がないから、探偵をやっていると思ってやしないか」
「その通りよ。私がそばにいたから、そのおつむでも、なんとか探偵稼業がやれたのよ。私はいまでも、余計な世話をやいたと悔んでいるンよ」
「そうだ。おまえが余計な世話をやくから、こんなにぶくぶく太った。おれがこんな太鼓腹じゃなかったら、照実も……」
「あの女は元々、あんたのお金に惚れただけ。お金がなくなったから、捨てられた。わかりやすい算数よ。そんなことはどうでもいい。早く、5万8970円、払いなさい。そうでないと、この先、仕事ができなくなるわよ」
「どういうことだ」
「照実に全部、ぶっちゃけて、照実からタクシー料金いただくわ。それがスジってもンでしょう。さァ、わかったら、降りなさい。トットと降りンだよ。このうすらバカ!」
「客に向かって、うすらバカとはなんだ。もう勘弁ならン!」
「お巡りさんだ。タイミングがよすぎるわ」
窓を開けて、
「ネェ、お巡りさ~ん!」
巡回中の制服警官2人が、タクシーに近寄る。
制服警官の若いほうが、
「どうかされましたか?」
「後ろのお客さんが……」
鳴滝が遮り、
「ご精が出ますね。いやね、タクシー代が少し足りなくなって。この辺りに、この時間でもやっているATMがないかと探しているンです」
「この時間なら、コンビニのATMしか、ないでしょう」
「コンビニか。コンビニのキャッシュカード、持っていたかな?」
里美、もうひとりの年配の警官に、
「お巡りさん、このお客さんが、使えるキャッシュカードも持っていない場合、無賃乗車で突き出すことはできますか?」
「料金が足りない、っていくらですか?」
「5万8970円です」
年配警官、車内のタクシーメーターを覗く。
「それだったら、全額じゃないですか」
鳴滝、慌ててポケットから財布を引き出す。
「いえ、あります、あります、ここに……」
鳴滝、財布を開く。
ちょうど万札5枚が納まっている。
里美、すばやく、その5万円をかすめとる。
「ナニしゃがる! ドロボー! おい、ポリ、捕まえろよ。目の前で窃盗事件が起きてンだ!」
「タクシーメーターは5万8970円と表示されています。まだ、8970円、足りないですね。運転手さん」
「伊東のお巡りさんって、すてき! そうなンよ。このお客さん、ナイナイなんて言って、あるくせに」
「お客さん、まだあるじゃないですか。ちょっと、それを見せて」
若い警官、鳴滝の財布をとりあげ、中を改める。
「このポケットは空だけど、このカード入れに、何やら、折りたたんだ……」
「そいつはダメだ! それだけはッ」
若い警官、細かく折りたたまれた万札をとり出す。
「一万円一枚。小銭入れには、570円ありますね。お客さん、これで支払いができますが、どうなさいますか?」
「勝手にしろ。その代わり、帰りの電車賃もなくなる。伊東で強盗事件が起きたら、あんたらポリのせいだからな、捕まったら、マスコミにそう言ってやる!」
「お客さん、そんなことを言って。このカード入れには、大手銀行のキャッシュカードが3枚ありますよ。これで十分帰れます。それとも、まだ銀行強盗を強行しようとお思いですか。それでしたら、いまこの場で、予防拘束しますが、いかがなさいますか」
「強盗は冗談に決まってンだろう。伊東のお巡りは、血の巡りも悪いのか」
「お巡りさん。それでは、その1万円と70円いただきます。ここにお釣り1100円ありますから、その汚い財布に戻しておいてください。はい、そうです。ありがとうございます」
「お客さん、財布、お返しします」
鳴滝、つまらなそうに財布を受け取ると、ゴロッと座席に横になる。
「運転手さん、お客さんに降りていただかなくて、いいンですか?」
「仕方ないかな。本当は降りて欲しいのですが、お客さんが待機をお求めでしたら、規定通り1分45秒ごとに待ち料金90円を請求します。30分ですと、1540円、いまはまだ深夜料金帯ですから、これの2割増し……」
鳴滝、カバッと起きあがる。
「やかましィ! この上、まだ金を取る気か!」
「規則ですから。おいやでしたら、どうぞお降りくださいませ」
「このクソ暑いのに、外に放り出そうってのか」
と鳴滝。
里美、空を見上げて、
「どんより雲って、いまにも雨が降りそうな雲行き。お巡りさん、伊東のきょうの天気予報はご存知?」
「6時頃から雨になるそうです」
「そうですか。もう少しね」
「わかった。待ち料金を払う」
「急にものわかりがよくなったみたい」
「では、本官はこれで失礼します。また何かありましたら、お声をおかけください」
「早く、消えろッ」
「何か、おっしゃいましたか」
「いや、いやな雲は早く消えてなくなれ、と言ったンだ」
「そうですね。ただ、きようは本官をはじめ、伊東署の者が大勢この近辺に張りつくことになります」
「あン?」
「何か、あるのですか」
「このホテルで、国際地質学会が開かれるのですが、東京から総理と経産大臣が出席されますので、万全の警備体制を敷くことになっています。このように夜明け前から、警邏も交通も駆り出されているわけです」
「学会は何時からの予定ですか」
「午前9時から3時間と聞いています。総理と経産大臣は、冒頭30分だけご出席の予定です……」
「その30分のために、夜明け前から警備ですか。お2人が、ここにおられたのはそのため、ってこと。タイミングがよすぎたのでもなかった」
「8時から、この近辺は車両の通行規制が敷かれますから、気をつけてください。失礼します」
制服警官2人、立ち去る。
「大東さんは、学会出席のために来られたンじゃないの。浮気を疑うなんて、どうかしている。照実の魂胆は何よ?」
「照実は、旦那が目の前の温泉旅館に愛人を呼びつけ、浮気をするから、現場を押さえて欲しいという依頼だ。あの男は学会なんていいながら、本当の目的は浮気。深い仲になって、こどもでもできたら、照実は追い出される。照実は、それを心配している」
「あんたの想像って、そんなとこ? 照実がそんな女だと本気で思ってンの」
「うるさい!」
「やっばり、あんたは……」
「里美、頼みがある」
「料金次第ね」
「おまえは、いつから金で動く女になったンだ」
「あんたに捨てられてからよ。500万円がもらえたら、少しは人間が変わるかもね」
「いいか。これから、あの温泉旅館に行って……」
「失礼します。ならずタクシーですが……」
「何か?」
「こちらの507号室のお客さまから、タクシーのご注文をいただきましたので、ホテルの外に待機しています。恐れ入りますが、お取り次ぎをお願いします」
「お待ちください」
フロント、パソコンを操作して、
「507号室のお客さまのお名前は、何とおっしゃいますか?」
「大東さま、です」
「この時間ですから、間違いがあるとお客さまにもご迷惑がかかります。お待ちください……」
電話をかけようとすると、朝風呂に入ってきた男がフロントに近寄る。
「507の大東ですが、何かメッセージは入っていませんか?」
「アッ、大東さま。こちらの方、タクシーの運転手さんですが、ご注文いただいたとおっしゃって、さきほどからお待ちです」
「タクシー? 頼んだ覚えはありませんが……」
「わたし、運転手ですが、ご同室の方がご依頼なさったということはございませんか?」
「同室? 私はひとりです」
「おかしいですね。女性のお声で、『507ですが、タクシー1台、東京までお願いします』と、承っております」
「おかしいな。妻の照実かもしれないが、彼女は昨晩遅く、東京に帰っている。何かの間違いでしょう」
「では、一度会社に確認してから、出直します。失礼いたしました」
里美が引き上げようとすると、
「ちょっと待って。キミ、タクシーだったね」
「はい……」
「少し時間は早いンだけれど、先方には電話をしておくから、これから女性の家に行って、彼女をここに連れて来て欲しい。住所とそこまでの地図はいま書きますから。それと、少し、こちらの事情を……」
5分後。
タクシー車内。
「そういうわけなので、これから、大東さんに書いてもらったこの地図を頼りに、この家まで行って、女性を乗せます。あんた、一緒に行く?」
「当たり前だろう。浮気相手の住所がわかるンだ。チャンスを逃す手はない」
「そう、一緒に行くのね」
「念を押すな」
タクシーが、とある古民家に到着する。
「着いたわ。あんた、降りて。お客さんを乗せるンだから」
「おれをここに置き去りにするつもりじゃないだろうな。ただでさえ、暑いンだ」
「うるさいわね。相手の女性に顔を見られてもいいの」
「そいつは、困る……」
「でしょう?」
「しかし、こんな所に置き去りにされたら、証拠写真も撮れない」
「本当はこんなことはしないンだけれど、特別にトランクに乗せてあげる。それで我慢することね」
「なにィ、トランクだ!? バカ野郎、そんな中に入れるか」
「少しの辛抱よ。いやだったら、ここにいなさい」
「い、いや、そいつも困る」
「こういう事態を予想しなかった、あんたが悪いの。乗るの、乗らないの、はっきりしなさいよ!」
「ウーン」
「早く、乗りなさいよ!」
里美、後部トランクを開け、しぶる鳴滝を詰め込むように乗せた。
里美、車を古民家の前に着ける。
中から、女性が現れ、タクシーの後部座席に乗った。
タクシーは30分後、再びホテルの玄関に横着けされる。
「どうぞ。中でお待ちです」
里美は女性客をホテルのロビーに案内したあと、タクシーに戻る。
「里美、オイ、早くトランクを開けろ!」
と声がする。
里美、とぼけて、
「エッ、なに?」
「開けろと言っているンだ。暑くて、たまらん! 早くしてくれ」
「なに? ずっと中にいたいの? こういう機会を待っていたのよ」
「バカ野郎! 開けろ、開けないと監禁罪で訴えるゾ!」
「聞こえないな。中にいたいのなら、このまま東京に帰るわ。勿論、料金はいただくけれど」
「ジョウダンを言うな。浮気相手の写真は撮ったンだろうな。大東と女が一緒にいる現場写真が必要なンだ」
「浮気? なに寝ぼけたことを言ってンの。私が乗せてきた女性は、大東さんのお母さんよ。おん年、75才の女性よ。この伊東は大東さんの出身地。きょうがお母さんの誕生日だから、カレ、お母さんをホテルに呼んで親孝行するの」
「ナニィ? 聞こえンゾ。大東の女将? 女将じゃない、愛人、浮気相手だ。浮気の現場写真だ」
「うるさいィ! あんた、もうバレてンのよ。大東さんから、みんな聞いた。照実は、大東さんから離婚を要求されていたンでしょう。昨晩、照実の浮気がバレて、2人はこのホテルの一室で話し合ったそうよ。彼女は、夫の浮気の証拠を掴むなんてことであんたを使ったンじゃない。本当の狙いは、伊東で亭主の浮気の証拠をデッチあげて離婚を有利にしようという魂胆なンじゃないの。あんた、みんな知っているンでしょうに。照実にそそのかされて、片棒を担ぐ気になったンでしょうけれど、とんだ茶番だったわね」
「もォ、いい。御託はたくさんだ。いいから、早く、ここから出してくれ。暑くて死にそうだ……」
「これから、高速に乗って東京に帰り、照実にあんたを引き渡すわ」
「待ってくれ。おれは、伊東の芸者に話をつけて、大東を誘惑させる計画だったンだ。それなのに浮気の証拠写真がない、なんてことになったら、照実が承知するわけがない」
「ヨリが戻せない、ってわけね。白状しなさい!」
「あいつは、『学者先生なんか、毎日生活していたら、ちっともおもしろくない。お金はあっても、退屈で退屈で。毎日が『金魚鉢の金魚みたい』って、ぼやいている」
「その程度の女よ」
鳴滝、最後の力を振り絞り、
「暑い、アツイ、あついンだ! 照実なんか、もうどうでもいい。ここから、出してくれ。後生だから、出してくれ。もう意識がなくなりそうだ。死ぬ、死ぬゾ。こんな車のトランクの中で死なすつもりか!」
「いま外に出たら、何がしたい?」
「おまえをぶっ殺してやる!」
「でしょう。だから、おっかなくて。このまま、警察に行くわ」
「警察? おれを監禁しているおまえがなんで、警察に行くンだ。おまえが捕まるンだゾ」
「ぶっ殺されるより、ましだもの」
「ぶっ殺すというのは、ナシだ。いますぐにトランクから出してくれ。出してくれたら……」
「トランクから出たら、どうしたい? わたしを叩きのめす?」
「温泉に入って、さっぱりしたい」
(了)
トランクのなか あべせい @abesei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます