人魚の貝殻
水野とおる
第1話 人魚の貝殻
ある男がいた。
彼は大変優秀な商人で世界を股にかけ、航海をして様々な国を訪れていた。
とある港町に訪れた時だった。
男はある娘を見つけた。
その娘はとても美しく、男は一目惚れをしてしまった。
勢いに任せその娘に声をかけ、紳士的にお茶に誘ったが娘は見向きもしない。
それどころか一言も発せず、その場を去ってしまった。
男は彼女を忘れられず、見かけるたびに声をかけるが彼女は口すら開かなかった。
その様子を見て、彼女を知る朝市場の男が言った。
「彼女はあわれなことに口がきけない。
だから、誰も彼女を口説くことができないのさ。
それでも彼女は気にせずにここにきて、なにやら興味深そうに野菜を観察しているんだ。
きっと彼女は恋以外にやりたいことがあるんだろう。
さっさと諦めてしまった方が身のためだよ」
そう言われたが、男はこの恋に身を焦がしていた。
彼は困った挙句、心を落ち着かせるために海に来た。
すると、今度はカモメが人間の言葉で話しかけてきたのだ。
「やあ、人間。そのようすだと彼女に恋をしたのかい?
彼女を恋に落とすいい方法を教えてやろう」
男は驚きながらも、その方法を教えてほしいと答えた。
するとカモメは得意げに言ったのだ。
「彼女は実は人魚なのさ。
ひと月前に闇の魔法使いと契約して、人間の足を手に入れた。
だが、その代償に口をきけなくなった。
その上彼女は一年後泡となって消えてしまうが、それでも彼女にはやりたいことがある。
その目で地上の植物を研究したいんだと、魂を燃やしているんだ。
だが、俺は思うんだ。
そんな研究より、泡となってしまう運命を心配したほうがいいんじゃないかって。
だから俺のためだと思って、お前は彼女を恋に落としてくれないか」
「彼女が恋に落ちれば、運命を変えられるのか」
「ああ、そうだ。愛される者からのキスは泡になる運命を解く。
ほら、これをあげよう。」
そういって、カモメは二枚貝を男に渡した。
その白い貝は固く閉ざされていた。
「この貝を開かせてみるといい。
この貝が開いたとき、彼女の口も開き、話ができるようになるだろう。
そうしたら、彼女を口説けるはず。
この貝は彼女の『心の口』そのものだからね」
それだけいうとカモメは去ってしまった。
それから男はこの貝をなんとか開けてみようと奮闘した。
力ずくで開けようとしてみたり、真水に漬けてみたり
話しかけてみたり、胸元で温めたり、一緒に寝たり…
しかし、彼は貝を開けられなかった。
男は町を出発する前日になっても、開くことができなかった。
男は自暴自棄になって海に貝を捨てようかと考えた。
しかし最後に、どうせだったら彼女の口が目の前にあったら何をしたいかを考えることにした。
あの美しいかたちの朱色。
水面のように潤んでいて、ふっくらとしたあの唇。
あの口が目の前にあり、そして、それが許されるのであれば
男がしたいことは決まっていた。
彼はその貝殻にキスをした。
すると貝は開いたのだ。
男はひどく驚いた。
そして目線をあげると、あの娘がいた。
彼女は恥ずかしそうにもじもじとして、その貝を指さした。
「その貝は私の『心の口』そのもの。あなたは開けることができたのね。私ですら出来なかったのに」
そして、彼女は続けていった。
「『心の口』へのキスでも呪いを解くことができるなんて。
泡になる運命も口が聞けない呪いもすっかり解けてしまったわ。
自分で貝にキスすれば一人でも呪いを解けたのに、なんで気づかなかったのかしら」
それを聞いて男は言った
「呪いを解く条件がひとつ抜けているぜ。
ーー愛されるものからのキスじゃないと」
そういって男は女を引き寄せた。
二人はそのまま抱き合うと、本能のままにキスをした。
殻を開いてむき出しになった心に言葉はいらない。
こうして泡になる運命も
言葉にできない苦しみも解き放たれたのだ。
娘は男の船に乗り港町を去っていった。
それから、二人がどうなったのか誰も知らない。
ただ残された二枚の白い貝だけが
その後の二人のことを波の音に紛れて囁いているらしい…
人魚の貝殻 水野とおる @mizuno_thoru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます