第4話 王子の決断
一目見て彼女だとアンリには分かった。理屈ではなく当然のように彼女が運命の相手なのだと理解し、全身に歓喜が走ったのだ。
ずっと恋い焦がれていた運命が目の前にいる。
暗く翳った瞳も動かない表情も彼女の魅力を損なうことはなかったが、彼女が自分と同じ感情を抱いていないのだと分かり、少し冷静さを取り戻す。
メルヴィンの忠告がなければ、心の赴くままに抱きしめていたかもしれない。
緊張で震えそうになる声に力を込めて、彼女を怖がらせないよう細心の注意を払って優しく声を掛けたつもりだった。
愛を告げる前に突然彼女が立ち上がっても、その後どういう行動を取るのか全く予想していなかった自分はどれほど愚かだったことか。
彼女の動きを視界に収め、頬に衝撃を感じて床に倒れ込んでも、理解が追い付かずただ呆然とするばかりだったアンリの耳に飛び込んできたのは、非難の言葉だ。
初めて耳にする運命の声に対する喜びを感じると同時に怒りに満ちた声音とその内容に愕然とした。更には嫌悪に満ちた険しい表情でアンリを見据えている。
彼女の表情が歪んだと同時にメルヴィンが庇うように前に出て、今更ながらに彼女に殴られたのだと実感した。
ショックだったが、過酷な環境にいたせいで過剰に警戒しているのかもしれない。
(彼女は傷ついていないだろうか……)
平手打ちではなく、拳で殴ったのだから手を痛めていてもおかしくなかった。自分の痛みよりもそちらが気に掛かって告げた言葉は彼女を激昂させることになる。
全身で怒りを表すように暴れる様子に驚いたものの、彼女を取り押さえるメルヴィンを見てまずいと思った。
護衛として間違いのない判断だが、華奢な彼女を傷付けてしまいそうで恐ろしかったのだ。
(怖がらないで。もう二度と辛い思いなんてさせない。私が君を護るから)
彼女を案じる一心で伝えた言葉は届かなかった。それどころか彼女は運命の相手としてメルヴィンに唇を重ねたところで視界が暗転した。
後にメルヴィンから嫌がらせのためだけの行為であり、男女の感情は欠片もなかったと伝えられたが、それでもショックが強すぎたようだ。
意識を取り戻したアンリは自分の行いを振り返り、ようやく冷静に彼女の身に起きたことを考えることができた。
突然見知らぬ世界に連れて来られて、訳が分からないまま奴隷に落とされる原因となった相手を憎むのは当然のことだろう。
ましてや運命の相手に対して何の感情も湧かなかったのだから、好意など抱けるはずもない。彼女には家族や友人がいただろうし、恋人がいた可能性もあるのだ。
(だけど……)
それでも彼女に出会えたことを、この世界に存在していることを喜ぶ自分がいる。醜く自分勝手な感情を恥じながら、そしてあんな風に手酷く拒絶されてもなお彼女への想いは消えない。
(私はまだ彼女に謝罪さえ出来ていないというのに……)
自分の浅ましさを反省するよりも先に、許してもらえなくても自分の行いに責任を持たなければならない。
翌日、早々に彼女の部屋を訪問すると笑顔ではないものの、落ち着いた様子の彼女にほっとした。
謝罪をしても激昂されることはなかったが、これからのことを話し合う前に彼女から提示された条件に絶句することになる。
元の世界に戻りたいという願いが叶わないと分かると、さして落胆することもなく慰謝料を切り出した彼女はどこまでも冷静だった。ひとかけらの躊躇いもなく妥当だと思える要求を告げたのは、以前から考えていたのだろうと分かる。
だが二度と干渉しないという条件については到底受け入れられそうにない。
不快な出来事をなど忘れて、新たな幸せを求めたいと言う願いは、彼女でなければ叶えてあげられただろう。
どんな我儘も望みも聞いてあげたいと思うのに、それだけはと心が否定する。
「殿下の謝罪は口先だけのものでしょうか?」
アンリの内心を見抜いているかのように軽蔑の眼差しとともに告げられて二の句が継げなかった。一緒にいたいと思うのはアンリの我儘でしかない。
彼女を引き留めるために必要なものが思い浮かばず、全身から力が抜けていく。
彼女の要求はどれも尤もなものなのだ。
エタンの怒鳴り声にもひるまずに、オブラートに包むことなく告げられたのはどれも事実ばかりで、王太子という地位であるが故に見逃されているだけだと思い知る。
「アンリ、彼女を手放すなら今しかない」
自室に戻ったアンリにメルヴィンから静かな口調で決断を迫られた。
アンリが望んだことだが、召喚も捜索も国の判断として為されたものだ。かなりの人員を投下したため、それなりの予算を割いてようやく探し出した運命の相手を手放せば、王族といえども非難は免れない。
(手放した先で彼女は幸せになれるのだろうか……)
彼女ならきっと自分の居場所を作ることが出来るし、いつか恋をして誰かと幸せな家庭を築くことが出来るだろう。
だけどアンリが望んでしまったことで、その可能性は恐らくゼロに等しい。
召喚を妨害した貴族を処罰したものの、彼ら以外にも運命の相手を快く思わない者はいるのだ。そして国王も王妃も掛けた労力と金額分の対価を求めようとするだろう。
もしも彼らの意に添わない状況になれば、体面を保つためにも彼女の存在は邪魔になる。
彼女が命を狙われる可能性を知りながら、このまま手放すことが良案だとはどうしても思えなかった。
「それは出来ない。たとえどれだけ嫌われたとしても、私は彼女を護りたいんだ」
彼女にはさぞ恨まれることになるだろうが、それでも彼女を様々な危険から護るためにはここに留め置くのが最善だ。
胸の痛みを無視してそう宣言すれば、メルヴィンは僅かに気遣うような眼差しを向けた。
そこに非難の色はなく、アンリは無意識に詰めていた息を吐きだす。
頼りがいのある兄のような存在のメルヴィンがいなければ、今頃どんな人間になっていたか分からない。
そんなメルヴィンが側にいてくれることに感謝しつつ、ふと彼女が運命の相手としてメルヴィンを指名したことが気にかかった。
整った顔立ちをしているものの、周囲を牽制するような威圧感と素っ気ない態度から冷酷そうだと言われている。実際は面倒見がよく気遣いのできる優しい男なのだが、初見でそんな彼の内面を見抜いていたとは思えない。
だがただ近くにいたからという理由で、あれほど警戒心の強い彼女があんな行動を取るのだろうか。
(メルヴィンのことをちゃんと知れば、彼女が惹かれても不思議ではない)
頭に浮かんだ考えをアンリは慌てて振り払ったが、それはポタリと落ちたインクの染みのように拭い去ることができなかった。
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