第2話 荒れ狂う感情
ちょっと大人しい性格の、どこにでもいるような普通の女子高生。あの時まで陽香は自分のことをそう信じて疑っていなかったのだ。
友達と分かれて家に着く手前で、急に足元が崩れるような感覚によろめいて顔を上げると、知らない場所に立っていた。振り返っても何もなく、だだっ広い空き地のような草むらには建物も人の姿も見当たらない。
夢でも見ているのかと頬っぺたをつねったり、ぎゅっと目を閉じて見開いたりを繰り返しても変わらない光景に現実だと理解せざるを得なかった。
不安で泣きそうになりながらも歩き続けて、ようやく馬車を見かけた時は心の底からほっとしたものだ。
馬車に乗っていた人々は見慣れない服装だったが言葉は通じるし、自分の身に何が起きたのか分からなくても、これで助かったと思っていた自分は本当に世間知らずだった。
「ハルカさん?珍しい名前だね。どういう字を書くんだい?」
聞き慣れない名前だから文字で教えて欲しいと言われて、何の疑いもなく差し出された紙に陽香と書いた。それが奴隷契約書だとも知らずに。
親切そうに見えたおじいさんは奴隷商人の親分で、珍しいから高く売れそうだと満足げに笑った顔を今でも覚えている。罪悪感の欠片もない晴れやかな笑みだった。
売れるまでの食い扶持分は働けと、掃除や洗濯、料理の下ごしらえや皿洗いなど休む間もなく次々と仕事を押し付けられた。果ては酒の酌までさせられて、下卑た男たちの視線や無遠慮に身体に触れられることが気持ち悪くて何度吐きそうになったことか。
だが泣いても嘆いても誰も助けてはくれない。
奴隷になった経緯を伝えても、相手からは同情どころか馬鹿にされるだけだ。
(この世界は、優しくない)
傷つき疲れ果てた陽香が最終的にたどり着いたのは、そんな当たり前のような現実だった。
頼れる相手が存在しない世界では、無知であれば搾取されるしかなく、強かでなければ生き残れない。
何も持っていない陽香はこの世界で弱者だった。
強くなければ生きていけないのなら、せめて知識を身に付けよう。弱くとも上手く立ち回ることが出来たなら、それは強さと同義になる。
それは陽香がこの世界で生きることを受け入れ、覚悟を決めた瞬間だった。
奴隷として働きながら、耳を澄ませ相手の感情を読み先回りして行動すれば、叱られることは随分と減った。もちろん最初は失敗ばかりで、やらかした途端に暴言は当たり前で時には暴力を振るわれたことも少なくない。
一応商品なので傷が残らないように手加減されたらしいが、痛いことには変わりないのだ。
恐怖に身体が竦みそうになっても自分奮い立たせて、何でもない振りをした。
心が挫けてしまったらもうそこで終わりだと分かっていたし、自分を護れるのは自分しかいない。どんなに辛くても歯を食いしばって、弱さを見せないように心を砕いた。
傷つかない代わりに感情が抜け落ち、心が荒んでしまったのは当然のことだろう。
当初の予想に反してなかなか売り飛ばされないことを不思議に思っていたが、奴隷商の摘発が厳しくなったのが要因らしい。黒目黒髪は目立つため足がついては面倒だということで、その苛立ちも手伝って陽香はこき使われていたようだ。
売られた先がどんな相手か分からないため、何だかんだこの生活のほうがましなのではないかと思い始めた矢先、新たな主人が決まった。
偏屈そうな壮年の男性は眉間の皺が深く、陽香を見ても表情一つ変えなかったが机の上にどっしりと重そうな革袋を載せて、奴隷商人を喜ばせていた。
冷ややかな気配にどんな扱いを受けるのかとまた一つ落胆し、それでも覚悟を決めて大きく息を吐く。
(まだ死なない。買われた以上は使い道があると思われているはずなんだから。だからこれは、最悪じゃない)
そうして決めた覚悟は思わぬ形で覆されることになる。
「これまでのご無礼をお許しください」
屋敷に到着し部屋に案内された途端に、壮年の男性だけでなく従者らしき男性たち全員が膝を折り深々と頭を下げたのだ。
何かの罠なのかと密かに警戒していると、トルドベール王国近衛騎士と名乗った壮年の男性、ブリアックはこの世界に陽香が来ることになった理由を語ったのだった。
「……すみません。あの、少し頭がいっぱいで……」
やっとのことでそれだけ告げると、ブリアックは訳知り顔で頷いた。
「ええ、劣悪な環境から突然このような僥倖にさぞ戸惑われておられることでしょう。我々は外に控えておりますので、何かございましたらお声掛けください」
ブリアックたちが出て行って、陽香はベッドに腰掛けて側にあった枕を抱きしめた。ふつふつと湧きあがる怒りで叫びださないように、唇を噛みしめて耐える。
(何が僥倖よ!劣悪な環境も、これまでの苦労も、全部その王子のせいじゃない!!)
運命の相手だという王子に陽香はこの世界に呼び落とされたらしい。それだけでも腹が立つのに他所から横やりが入ったせいで、見知らぬ場所に一人放置されたのだから文句を言う権利は十分にあるはずだ。
だが、王子の運命の相手なのだから幸せだろうとでも言いたげな騎士たちの反応に、陽香は怒りを必死で噛み殺していた。
感情のままに振舞うのは得策ではないと自制した結果ではあるが、荒れ狂う感情は激しくなる一方だ。
最初から城に召喚されていたとしても、その状況を受け入れられたと思えない。生存が危ぶまれる中、王子は決して諦めることがなかった、捜索には大変な苦労があったとか、切々とまるで美談のように語られても、感謝どころか不快さしか湧いてこない。
勝手に連れて来られたのだから、普通に考えれば誘拐だろう。それなのに運命の相手であることは何よりも優先されることなのだろうか。
陽香にとってそれは受け入れられることではなかった。
(とりあえず王子だけは絶対に殴る!運命の相手だろうが王族だろうが、これだけは絶対に譲れない!)
枕を噛みしめて怒りを宥めながら、陽香は固く決意したのだった。
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