第157話

 もう躊躇う場合ではなく。ロキは中空で羽毛を生やし、その姿を鶫に変えるとバルドルの衣服を嘴で掴んだ。上昇する風のないこの場所でロキはバサバサと必死に翼を羽ばたかせるが、ほとんど意味をなさないまま、ロキとバルドルの体は冥界の穴に吸い込まれていく。


「ロキ、離せ!」


 バルドルが言う。

 ロキは首を振り、バサバサと翼を羽ばたかせ続ける。


「このまま二人とも堕ちたら、本当にミーミルに予言を曲げられるぞ! 黄昏がきたら、オーディンやフェンリルを守るどころか、何もかも終わってしまう!」


 バルドルが不格好に羽ばたく鶫の体に手を伸ばした。


「ロキ、頼む……」


 光の神バルドルのその言葉に、ロキはやむなく頷いた。ゆっくりと嘴を開き、羽ばたくとロキの体は上昇する。

 バルドルの体は余韻を残すこともなく、一瞬で冥界の暗闇に姿を消した。

 ロキは頭を上向け、必死に翼を動かした。僅かな光が見えている。

 ロキがそこから飛び出すと、今度ミーミルがヘルの体を抱え上げ、冥界の穴に落とそうとしているところだった。


「やめろ!」


 ロキは中空でひらりと人に姿を変え、ミーミルの肩を掴んで押し倒した。ロキ、ミーミル、ヘルの体が折り重なるように地面に崩れ落ちる。

 先に立ちあがろうとしたのはロキだ。ミーミルはヘルにしがみつかれ、体を起こせないまま、ロキの足首を掴んだ。

 そこに今度は階段の上から複数の足音が鳴っていた。それを聞いたミーミルがわざとらしく悲鳴を上げる。


「オメガが! 反逆者がバルドルを冥界に突き落とした! 器を攫う気だ! 逃げるぞ! 誰か捕まえてくれ!」

「くっ、何をっ!」


 ロキはミーミルの手から逃れるために、再び鶫に姿を変えた。風のない場所ではやはり飛ぶのに慣れていない。バサバサと翼を羽ばたかせ、嘴でヘルの衣服を掴もうとする。

 ミーミルの目的がオーディンや神々の破滅だとすれば、フェンリル以外のオーディンの器であるヨルムやヘルをミーミルは殺そうとするかもしれない。ここに置いていくわけにはいかない。


「ロキ! 無理よ!」


 ヘルがロキの体を払い除けた。


「私は歩けないの! だから置いていって!」


 ロキは首を振り、またヘルの衣服を掴もうとする。


「やめてっ! お願い! 嫌なの! 絶対嫌なの! あなたの邪魔になりたくないの! それなら、冥界に堕とされる方がマシ!」


 足音が迫り、壁に階段に連なる影が映った。


「ロキ! 早くっ!」


 ヘルが指差す方向に身を翻した。伸びていたヨルムの体を両足で掴み持ち上げ、ロキは必死に羽ばたいた。


「ヨルム! 起きなさいよっ! アンタがロキを守るのよ!」


 虚ろだったヨルムの目が見開き、ヘルを振り返った。しかし、彼がその名を呼ぶ暇もなく、目の前には細い階段に連なる神々の姿があった。

 ロキはその頭上を飛ぶ。

 神々はロキの姿を予想していなかったのか、慌てて手にしていた槍やら剣やらを突き上げるのだが、それがロキを貫くことはなく、するするとロキは神々の頭上を通り過ぎていった。

 暗い階段を抜け、神殿の廊下に飛び出したロキはヨルムの体を掴んだまま、南東の部屋を目指した。

 扉の前で姿を人に戻すと、勢いのまま扉を押した。

 中には世話係のエルフの女性が二人、ロキの姿をみて驚き目を見開いた後で、ヨルムの姿を見て悲鳴を上げた。


「イヤァ! 蛇、蛇よ!」

「来ないでぇっ!」


 ヨルムはわざとらしく女性たちの前をグネグネと動き回り、揺籠から遠ざけた。

 揺籠の中には小さなフェンリルが相変わらず穏やかに眠っている。ロキはその体を抱え上げた。


「ロキ! これっ!」


 ヨルムが示したのは、椅子の上に置かれた肩紐の施された綿製の袋だ。

 ロキはそれを掴むと、その中にそっとフェンリルの体を入れ込んだ。その後で床にしゃがみ袋を開くと、しゅるりとヨルムが入り込む。それを確認してから肩にかけると、ロキはサンルームの窓を開いた。

 背後からは後を追ってきたのか、連なる複数の足音が響いていた。

 ロキはもう何も振り返らないまま、庭に飛び出すと、また鶫に姿を変える。首に袋をかけたままでは、当然不自由ではあるが、とにかく渾身の力で翼をはためかせると、運良くすぐに風を掴んだ。

 体は上昇し、城壁をこえ、絶壁の上に建つ白亜の神殿が遠ざかっていく。

 ユグドラシルに背を向けて、ロキはひたすらに飛んだ。


「ロキ、どこに行くの?」


 袋から頭を出したヨルムが不安げに尋ねる。

 鶫のロキは答えられないが、頭の中で考えた。アースガルドの東の外れのバルドルの知人のことが浮かんだ。しかし、ひっそりと連れ出すのならまだしも、神殿があれだけの騒ぎになってしまっては、とにかくアースガルドから離れるほかないだろう。

 そう思ったロキの胸に、一気に不安が押し寄せた。アースガルドどころか、神殿からも離れたことがない自分はいったいどこまで飛べるのだろうか。

 ふと足元に目を落とす。鬱蒼とした森林を背景に、不安げなヨルムの瞳がこちらを見上げていた。袋の口から、ただ一人何も知らずに眠るフェンリルの鼻先がのぞいている。そして、頭には最後にロキの体を跳ね除けたヘルの顔が浮かんだ。

 ロキは顔を上げ、ぐっと嘴を揃えた。


ーーこの子達もオーディンも、俺が守らなきゃ


 そして、鶫のささやかなその瞳はアースガルドのはるか先を見据えた。

 







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